ステージ#17:第2日

#17:第2日 (1) 愛妻の夜と朝

  第2日-2033年10月10日(月)


裁定者アービター!」

 ベッドに入って、我が妻メグを抱き寄せるまさにその瞬間、ビッティーを呼び出した。腕時計スマート・ウォッチは、こっそり枕の下に入れておいた。

「ステージを中断します。裁定者アービターがアーティー・ナイトに応答中です」

 艶めかしく微笑みながら目を閉じようとしていた我が妻メグが、一瞬にして仮面を被ったかのように、冷淡な表情に変わった。

 ただ、ベッドから起き上がろうとはしなかった。もしそうしていたら、ビッティーのヌードという貴重なものを鑑賞することになる。それは我が妻メグのものとほぼ同じものなのだけれど。

「やあ、ビッティー。君の顔をこんな近くで見たのは初めてで、とても感激しているよ」

 それはもう、キスをしそうなほどの距離だ。

「そうですか」

「このまま君を抱きしめることはできるのかな?」

裁定者アービターのアヴァターに接触することはできません」

 でも、ブランケットは君の身体の上に載ったままだぜ。それなのに触れないなんて、どういう仕掛けになってるんだよ。

「真面目な質問をしよう。クレタ島に遺跡はいくつくらいある?」

「100以上あります」

 そんなにあったのか。なのに、俺はクノッソスしか知らない。どういうことだ。

「クノッソス以外で有名な遺跡を五つあげてくれ」

「有名という評価は何を基準にしますか?」

 また難しいことを訊いてくる。確かに、規模が大きいとか、研究者が多いとか、観光客が多いとか、いろいろあるのは判るけど。

「観光客の多い順」

「ファイストス、ゴルテュス、マリア、アヤ・トリアダ、ザクロスの五つです」

「それぞれどういう特徴があるか、簡単に」

「ファイストスはクレタ島中南部のミノア文明の遺跡で、大規模な宮殿があります。紀元前7000年頃から人が住み始め、古代ギリシアの文献、例えばホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』の中で人口が多いことが言及されています。遺跡から発見された遺物として、未解読の絵文字が描かれた粘土板『ファイストスの円盤』が有名です。

 ゴルテュスは同じくクレタ島中南部のローマ帝国支配時代の遺跡で、音楽堂オデオン、神殿、バシリカなどが残っています。また音楽堂オデオンの壁には古代ギリシャ語の碑文『ゴルテュス法典』が刻まれていることで有名です。

 マリアはクレタ島中北部、イラクリオンの東約22マイルにあるミノア文明の遺跡で、クノッソス、ファイストスに次いでクレタ島で3番目に大きい宮殿跡があります。またケルノスと呼ばれる、独特の形状を持つ古代陶器が発掘されました。

 アヤ・トリアダはクレタ島中南部、ファイストスのすぐ西にあるミノア文明の遺跡で、名前は“三位一体”を意味します。未解読の古代文字“線文字A”が描かれた粘土板が多数発見された場所として知られています。

 ザクロス、あるいはカト・ザクロスはクレタ島東端のミノア文明の遺跡で、クレタ島で4番目に大きい宮殿跡があります。規模は小さいながら、過去に盗掘が少なかったことで、非常に多くの遺構や遺物が発掘されました」

 素晴らしい説明。さすが我が妻メグ、いやビッティーだな。

「どこか迷宮ラビリンスが見つかった遺跡はあるかい」

「ありません」

 即答か。まあ、あれば有名になってるって。

「未解読の文字がいくつか出てきたが、それは未来でもまだ未解読なのか」

「お答えできません」

「ザクロスまではイラクリオンから車でどれくらい?」

「3時間ほどです」

「島の西側に有名な遺跡はないのか」

「古代ではなく中世のものであれば、レティムノやハニアの旧市街地があります」

 なるほど。しかし今回に限ってはたぶん、関係ない。

「遺跡ではなく、他に有名な、古代の何か」

「条件が曖昧すぎて、お答えできません」

 うむ。たぶん、ターゲットの核心に近いんだろう。だからちゃんと周辺事項を調べた上で質問しないと、答えてくれないんだ。さて、どこで何を調べようかな。

「今回、メグが誰かに誘拐されるようなシナリオはある?」

「シナリオの内容についてはお答えできません」

「万が一、メグが誘拐されても君と通信ができるのかな」

「可能です」

「そうか。あまり考えたくない状況だが、一応質問してみた」

そうですかイズ・ザット・ソー。他にご質問は」

「君が目覚まし時計の代わりになって俺を起こすことはできる?」

「できません。1時に通信が切れてしまいます」

「解った。それと、次からは日付が変わる前に呼び出すから。こうしてベッドの中で君を呼び出すのは、少々不謹慎な気がするんでね」

「お気遣いなく。時間内であれば、どこでも通信が可能です」

 我が妻メグを抱きしめている最中に呼び出してもいいのか? でもそれは俺の方が嫌だな。気持ちが冷めるから。

お休みグッド・ナイト、ビッティー。ただ、今夜は君からの挨拶はいらないよ」

「了解しました。ステージを再開します」

 ビッティーからお休みを言われると、我が妻メグを抱きたくなくなるかもしれないから困る。

「今、私以外の人のことを考えていた?」

 無表情の仮面を脱いで笑顔に戻った我が妻メグが訊いてきた。鋭いな。ビッティーと会話していた間は、時間が止まっていたはずなのに。

「そんなことがあり得ると思う?」

「やっぱり私の気のせいだったわ!」

 我が妻メグが抱き付いてきた。今夜は何時に寝かせてもらえるだろう。


おはようモーニン、マイ・ディアー・アーティー! 今朝はランニングをするんでしょう?」

 我が妻メグの爽やかな声で起こされた。夜中の声とのギャップが彼女の魅力の一つだ。

 ベッドから跳ね起きて、顔を洗って、トレイニング・ウェアに着替える。時計を見ると7時過ぎ。窓の外はまだ暗いが、東の空が白んでいるのが見える。

「君はどうするんだい?」

「自転車が借りられないみたいなの。仕方ないから、ビーチまで付いて行って、散歩しながらあなたのランニングが終わるのを待ってるわ」

 走らないと決めたためか、我が妻メグの服は長袖ブラウスにロング・パンツだ。出張に同行する秘書のよう。

「挨拶してくる人に油断するなよ」

「子供じゃないのよ、心配しないで!」

 仕方ないだろ。仮想世界の中では無茶苦茶なイヴェントが起こりえるんだ。ニュー・カレドニアのあれだって、普通では起こらないことだぞ?

 エレヴェイターでロビーに下りて、ホテルの外へ。プール・サイドにはまだ灯りがともっていた。ビーチに出て東を見ると、先ほどより明るくなっている。緩やかな弓なりの浜が、東へ向かって続いている。

 地図によれば3マイルほど続いているはず。東の端は、イオフィロス川の堤防だ。1往復すればちょうどいいだろう。

 準備運動をしている間に、東の空の朝焼けが濃くなってきた。我が妻メグに手を振ってから走り出す。ビーチの真ん中辺りにはデッキ・チェアがずらりと並んでいるので、それと波打ち際の間を駆ける。

 穏やかで気持ちのいい朝だが、人っ子一人いないノット・ア・ソウル・イン・サイト。これが合衆国なら犬を連れて散歩をする人がいるものだが、ここにはそういう富裕層っぽい連中がいないんだろう。

 それでも仮想世界なら、俺と同じようにランニングしているキー・パーソンか競争者コンテスタントが一人くらいいてもいいと思うのだが……走れども走れども、そのような姿は見えず。

 デッキ・チェアかビーチ・パラソルの色が変わるくらいしか変化のない景色の中を、ひたすら走る。右に目を向けると、クレタ島最高峰のイディ山が見えるはずなのだが、朝霞に隠れているようだ。

 左手の海の方には、遠くに大きな船が一隻。ギリシャは多くの島があるので海洋国だ。クレタ島と他の島々を結ぶ定期便もあるのだが、遠いと半日かかったりする。ゆっくり旅をする時間があれば、乗ってもいいだろう。地中海やエーゲ海を巡る豪華客船に乗ってターゲットを探す、というステージがあるのなら、やってみたい気もする。

 人影を見ぬまま、ビーチの東端に到達。30分足らずで、空もだいぶ明るくなった。川までは行かず、右手に見えているスタジアムらしき建物の前で折り返す。

 帰りもしばらくは誰も見かけなかったが、半分ほど来たところでようやく散歩している人を発見。この辺りからホテルが多くなっているので、もちろん泊まり客だろう。顔もギリシャ系ではなくラテン系かゲルマン系か。女ではなかったので、挨拶しなかった。

 その後はまた誰の姿も見ないまま、アトランティカ・ホテルの前まで戻ってきた。我が妻メグが波打ち際で戯れている。

「誰にも声をかけられなかった?」

「いいえ、かけられたわ、一人。女性。カナダからですって」

「女性だからって油断しちゃいけないぜ」

「もちろん、解ってるわ」

「会議の参加者かい」

「訊かなかったわ」

「俺は見かけてないけど」

「あなたとは逆にあっちの方へ」

 我が妻メグが西を指差す。俺と会うのを避けるということは、少なくともキー・パーソンではないのだろう。

 部屋に戻り、シャワーを浴びて着替える。我が妻メグは先にレストランへ行って席を確保。遅れて行くと、料理まで並べてくれていた。いつもとだいたい同じ、トーストとスクランブルド・エッグとサラダ。飲み物はオレンジ・ジュース。

 我が妻メグの前には同じ物と、ミート・パイのようなグラタンのような料理。ムサカというらしい。挽き肉、揚げナス、マッシュト・ポテトにベシャメル・ソースを重ねて焼いたもの。なかなかのカロリー量に違いないぞ。普段は俺より少食なんだが、旅行中は違うのか。

おはようモーニン、ミキ、ナナ!」

 我が妻メグがリエゾンと秘書を見つけて声をかける。二人とも「おはようモーニン」と言いながら寄ってきて、隣のテーブルを占めた。そういえば我が妻メグは彼女たちの手伝いをするはずなんだけど、打ち合わせは済んだのか。昨夜の夕食会では日本人やクロアチア人とばかり話していたように思うが。

「リタ、仕事用の携帯端末ガジェットを渡しておくわ。仕事の内容は、会場に着いてからね」

「ありがとう!」

 ありゃ、ここで仕事するときは“リタ”なのか。まあ、仕事と個人プライヴェイトでは名前を変えるのが彼女のやり方だからなあ。ところで、仕事の話をしている間に「ヘイ、メグ」と読んで割り込んだらどうなるんだろう。ちゃんと切り替えができるんだろうか。後で試してみよう。

 食事を終えて、部屋には戻らず直接エントランス前へ。ほとんどのメンバーは集まっていて、クロアチア人だけが少し遅れてきた。マイクロ・バスに乗って会場へ向かう。インド人がまた話しかけて、ちょっと、いや、かなり鬱陶しく感じる。

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