#17:第1日 (7) 論文の偽造
クレタ島へ渡ることには成功した。予定外の客である私を特別機に乗せてくれた、クロニス
これ以降、私の名前はハンナ・エレンスカとなる。ステージ・ネームではなく、偽名。ポーランド電力
容姿も少し、いや大きく変えなければならないだろう。彼に変装を見破られないように。顔はどうとでもなる。
彼は特に、私の胸に注目する。その大きさで、私か別人かの見当を付けようとする。だから少なくとも2サイズは小さく見せないといけない。この季節は上着を羽織っても不自然でないから、調整することは可能だろう。夏の、薄着の季節なら難しかった。
その上で、彼に接近しなければならない。彼の研究について聞く、あるいは私の研究について意見を求めるという名目でいい。
私の研究論文はどうしようか。電力に関係があり、彼の研究に関係があり、なおかつターゲットに関係するテーマ。
『送電線の増設あるいは更新における経路変更計画に対するAI学習の適用及びそのロジックについて』
これでどうだろうか。送電経路は道路交通の経路とある程度のアナロジーがある。送電線の工事や、落雷などによる送電遮断に対して、代替経路の選択を容易にするシステムについての研究。彼のシミュレイターなら、どのような評価ができるか?
今夜中に書き上げて、国際会議の発表リストに登録しなければならない。このような会議では、当日になって発表者が変更になったり、発表がキャンセルされたり、追加されたりというのは、よくあること。データベースをクラックして、既存のリストの中に差し込めばいい。適したセッションは……後で調べよう。
それから、会議の主催者について調べておいた方がいい。中規模とはいえ、国際会議がこのような孤島で開催されるのは普通でない。ギリシャ政府は費用を負担しないだろうし、国内の関連学会やクレタ
会議の案内を見る。クロニス・グループという名がある。これだろうか? 現実世界の企業体ではない。仮想世界の中のもの。私を乗せてくれた航空会社も、その名前だった。
筆頭はクロニス
だが今はこれ以上調べられない。私たち
論文を書かねばならない。理論は適当に考えるとして、グラフはどうしようか。回帰曲線に合いそうで合わないプロットを用意しなければならない。完璧な論文を書くと、彼が質問を思い付いてくれなくなる。弱みを作っておかなければならない。引用する文献と、その著者も適切に考えなければならない。
誰かこの論文に興味を持って、ポーランド電力SAに問い合わせようとするだろうか? あるいは引用された文献を調べようとするだろうか?
そうなっては困るから、あまり興味を持たれないような、それでいて見どころのある論文に仕上げなければならない。私には少し難しいが、何とかしよう。いいえ、何とかしなければならない……
「
「いかがですか、ミス・グリーン?」
エリックの呟きに対して、アビーがトリッシュに意見を促す。
「おそらく、発表者になるつもりでしょう。彼女は4人の
「論文の内容はどうです?」
「まだ全部が書き上がっていないので、何とも言えませんが……」
「この作戦は成功しそうでしょうか、ミスター・レッド?」
「いかにも危険な作戦ですね。まるでスパイ映画のシナリオだ。しかし彼女は潜り込む自信があるのでしょう。ただ先ほどミス・グリーンがおっしゃった、深い調査をするのかというと、どうでしょう? もしかしたら、ボナンザに接触するつもりかもしれません。彼女は情報収集に彼をよく利用しますからね。あまりいい作戦とは思えないし、成功しているとも言えないはずなんですが、あるいは精神的な依存なのかもしれません。
そうそう、論文の内容について言及しておくと、確かにまだ全部は書き上がっていませんが、あまり質がよくありませんよ。背景はともかく、論旨が強引すぎます。この調子で最後まで書き上げたら、安っぽいドラマのシナリオのようになってしまいます。いったん書き上げた後で、見直して、修正することを期待しますね」
「すばらしく丁寧なご意見と解析をありがとうございます。以上を踏まえて、ミスター・ブルー、いかがです?」
「
エリックは椅子の背にもたれ、頭の後ろで腕を組みながら言った。この仕草をするときは、本気で相手の意見に感心しているとき、という噂だ。言葉遣いがいつもより少し丁寧になっているから、実際にそうなのだろう。
「報告は全部読んでいますし、この二人はとにかく目立ってますからね。まあ、あまりいい意味ではないですが」
「情報収集のために、また誘惑すると思います?」
「
「そう、カナダやノルウェイのときのように」
「あれは、誘惑ではないと僕は考えますね」
「
椅子が少しきしむ音がした。エリックが椅子の背にもたれるのをやめたようだ。前のめりになっているということか。
「先ほど言った、精神的な依存ですよ。つまり、彼女こそ彼に誘惑されているんです。もちろん彼にそのつもりはありませんが」
「アッハ! じゃあ、ステージの終わりに、退出を引き延ばしてボナンザを食事に誘ったりするのも?」
「僕はそう見ますね」
「そういう見方があったのか。しかし……」
「何です?」
「彼女の心の中には、別の男がいるように思うんですよ」
「それはどこのシミュレイションで判ったんです?」
「いや、まだ僕の推定で、確証はないんですけど」
「なるほど。だから彼女がボナンザに誘惑されるはずはない、彼女の方からしているはずだと」
「そうなんですけどね。あるいは、対象が変わったのかな」
「心の中で思いを寄せる男性が、ボナンザにすり替わった? ステージを重ねるうちに」
「もちろん、まだ確証は何もないんですけど」
「そういう見方は、観察の趣旨に合わないので、やめませんか」
「確かにそうです」
また椅子が鳴った。エリックはたびたび座り直しているようだ。
「アビー、じゃなくてグレイ、僕らのさっきの発言を記録から削除してもらえる?」
「どの部分からです?」
「誘惑すると思うかってレッドに聞いたところから」
「趣旨に合わないから」
「そう」
「了解です」
ただ、あの発言はオニール博士に報告する必要があるだろう、とアビーは考えた。エリックが
そしてオニール博士も、もしかしたら、
「論文が書き上がりました。シミュレイションを止めて、読んでみてはどうでしょうか?」
トリッシュが言ったが、オリヴァーが「いやいや」と止める。
「このままではいかにも質が悪い。頭から書き直すかもしれません。もうしばらく待ちましょう」
「了解です」
アビーが答えて、シミュレイションをそのまま流すと、オリヴァーの言ったとおり、
それは単なる手直しではなく、大幅な書き換えになっているのだが、文章の質が驚くほど向上しているのが、少し見ているだけで判った。まるで画家が、ごく簡単な
「長めの
エリックが呆れたかのように呟いたが、アビーも同感だった。彼女の経歴はウクライナ対外情報庁の
あるいは、
彼女は本物の“
「もう書き上がったよ。すごいな」
「ふむ、内容も文章も悪くないです。ただ、論旨に一部弱いところが……しかし、これはもしかしたら、わざと“穴”を開けているのかもしれませんね」
「穴?」
「誰かに、そこを質問してもらうためですよ。おそらくはボナンザから」
「なるほど」
エリックとオリヴァーが二人で解り合っている。そういうのも、観察の趣旨に合わないのではないか、とアビーは考えたが、指摘はしなかった。
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