#17:第1日 (6) 質問の多い研究者
テーブルには料理と飲み物が用意されていた。立食形式。挨拶が済んだので、早速食べ始める。いや、俺と
料理を取ろうとしたら、
「大変魅力的なご夫人ですね。聞くところによると結婚してまだ1年半ばかりとか」
インド人の男が話しかけてきた。名前は何だっけ。インド人の名前って、1回聞いただけじゃたいてい憶えられないんだよ。そのことを察してか、彼の方から「チャンドラセカールです」ともう一度名乗ってきた。何だ、憶えやすいじゃないか。同名の有名な物理学者がいる。
「ああ、そうなんだけど、最近は出張続きで1週間おきにしか彼女の顔を見られないんだ」
本当は2週間見なかっただけだけどな。それでも朝晩に声だけしか聞けないのは欲求不満が溜まるんだ。
「出張にお連れになったのは今回が初めてですか」
「そう、ギリシャならどうしても行きたいと言うんでね」
だから連絡係として、と簡単に説明したが、インド人は「ほう、それは」と言った後で、「ところであなたの論文のことですが」といきなり話題を変えてきた。
「展示に使ってるシミュレイターの論文の件?」
「もちろん、そうです」
「何か質問でも」
何の論文を使ったんだったかな。『2.5次元ネットワークにおける移動経路選択とその変化の傾向、及びネットワークの進化について』だって? それ、前回のリオで初めて出てきたやつじゃないか。
「ネットワークの規模が巨大化すると、シミュレイションの数値に合わなくなると思うのですよ。つまり比例が線形ではなくなり、指数的に……」
「巨大化って、どれくらい大きなものを想定してるのかな。現実的には地球の大きさを超えるようなネットワークは想定してないんだけど」
「いや、もっと小さな、例えばユーラシア大陸くらいの大きさでも合わないのですよ、私の計算では。ですからそれを補完するような新たな項を挿入して、方程式を一般化すべきで……」
ユーラシア大陸だって大きすぎるだろ。そもそもシミュレイションできないよ。移動体がネットワークの端から端まで到達するのに何百時間かかるんだ。そんなレア・ケースまで想定して式を作ってるわけじゃない。
しかしインド人は自分の考えをひたすら述べる。国際会議でインド人の質問を止めるのは不可能とよく言うが、こんな場での議論でも止められないのかよ。明日の会議で俺はセッションの
「ヘイ、チャンドラセカール、食事中のドクター・ナイトをそんなに困らせてはいけないわ。質問は明日以降でもできるわよ」
インド人の女が助け船を出してくれたが、俺は議論する時間がないんじゃなくて、単に議論したくないだけなんだよ。立ち話で議論をすると際限がなくなる。質問があるなら箇条書きにしてメールで送ってくれればいいんだ。
「いや、明日から展示のブースに立つんだ。そのときに来訪者から質問を受けたら回答しないといけない」
「そのときはドクター・ナイトに電話して答えてもらえばいいのよ」
「そうすると余計な時間がかかる。あらかじめ答えを用意しておく方がいいんだ」
「ヘイ、ドクトル、私も質問があるわ。1回のシミュレイションに必要な電力量はどれくらいで、タイム・スケールを変えたら電力を節約できる可能性はあるの?」
ドイツ人の女が横から質問してきた。ドイツ語訛りの英語。やけに顔が長いな。いや、そんなことはどうでもいい。電力量なんて計測してるかよ。どうしてそんな値が知りたいんだ。スーパー・コンピューターの電気代なら経理部門に聞けば判るだろうけど、そういうのは俺じゃなくてミキかナナを通して問い合わせてくれ。
そして女の後ろではドイツ人の男が、自分も質問したそうな顔で立っている。クルー・カットで、研究者じゃなくて軍人みたいな顔をしてるな、いや、それはどうでもいい。どうして俺はこんなところで質問攻めに遭ってるんだ。
あっ、どうしてあんなところで日本人やクロアチア人と話し込んでるんだよ。そうか、コンシエルジュの習性が出て、人が多いところでは世話役を買って出たり、質問に丁寧に答えたりしてるんだ。特に非英語話者には、彼女の
全く、明日からの彼女の行動が心配になってきたぞ。
「電力量なんて気にしてないんだ。使いすぎなら経理部門から注意されるはずなんで、それがない限り目一杯使うことにしている」
「ドクター・コレサー、まだ僕が質問中なんだよ、後にしてくれ」
「チャンドラセカール、だったらあなたが式を立ててみたらどうかしら。その上でドクター・ナイトと相談すればいいのよ」
「彼が答えを用意しているかどうかが知りたいんだよ、ハリシャ。それに僕が式を立てて検証しようにも、シミュレイション環境がない」
「ドクトル、合衆国では最近停電が起きないの? ドイツでは発送電が分離されたせいでたびたび停電が起きるのよ。そのたびにコンピューターがダウンしてシミュレイションがストップするの。それともマイアミ
「アドリアンヌ、我々の事情は彼やマイアミ・オフィスには関係ないよ。それにドクトル・チャンドラセカールの質問がまだ終わっていない。僕も質問したくて待ってるんだ。順番にやろう」
お前ら、どうして俺に質問ばかりするんだ。せめて論文じゃなくて、マイアミでの結婚生活のことを聞け。
11時半に夕食会が終わり、部屋に戻ってきた。食べるには食べたが、議論ばかりで胃に入れたものを消化した気がしない。おまけに
「明日の予定をお伝えします」
おまけに、今は秘書モードに入ってるし。ソファーに腰かけた俺の前に立って手帳に目を落として、まるでオーストラリアのときのようだよ。
「明日は8時45分、エントランス前に集合です。ホテル前からマイクロ・バスによる送迎があります。9時に会場入り。クレタ・コンヴェンション・センター。財団のブースで展示の確認及び他の方々と打ち合わせ。10時からオープニング・セッションに参加。開催者の挨拶の後、あなたの基調講演があります。15分間」
そんな予定は俺の頭の中にないが、壇上に立ったら勝手に言葉が出てくるだろうと期待する。
「以降は他ブースの見学、またはセッションの聴講をご自由に。ただし3時からあなたが
どうしてオンラインで読めないんだ。ただ、今から読む気はしないけど。
「展示の終了は6時。会場がクローズとなります。6時半と7時にホテルへの送迎バスが出ます。8時から改めて財団関係者の夕食会があります。今日のような立食ではなく、フォーマルなものです」
席はインド人の隣にならないようにしてくれ。できれば日本人がいいな。
「君はどうするんだ」
「最初は付いて行くけど、あなたの基調講演の後は自由にしていいと言われているわ。だから観光ツアーに参加しようと思って」
「どこへ行くんだ。クノッソス宮殿?」
「それは明後日の
ファイストスは島の南部にある、青銅器時代の遺跡。午前中にクノッソス、午後からファイストスというツアーがあるのだが、それに途中参加するらしい。
「君が一人で行動するのは心配だな。写真を撮ってあげようと優しげに言う奴には特に気を付けてくれ」
「そんなに心配してくれるのに、どうして私を置いて何度も海外出張に行ってしまうの? 一人で留守番するのはとても寂しいのよ」
何度もって、まだ2度しかないと思うんだけど。ハンガリーとブラジル。それとも、その他にもあったことになってるのか。
「今後は全ての海外出張に、君を連れて行くことにするよ」
「国内出張でも宿泊するときは連れて行って欲しいわ」
そんな出張があるのか。どこへ行くんだ。カリフォルニアのサニーヴェイル辺りか。
「財団からは旅費が出ないだろう」
「私が費用自分持ちで勝手に付いて行く分には問題がないんでしょう?」
その費用は君の貯金から出すのか、それとも俺のサラリーから抜くのか? まあ、どうせ仮想世界では金の心配なんてないんだけど。
「24時間以上、俺と離れているのに耐えられないのかね」
「あなたは違うの?」
「もちろん耐えられないよ」
本当は24時間かける14日間耐えたんだけどね。
いや、それよりそろそろビッティーと通信する時間だろ。外へ……ビーチへ出ないといけないのか? このままだと
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