ステージ#17:海上の迷宮 (Wind blowing on the Aegean.)
#17:観察の準備
財団にて-2XXX年Y月Z日(月)
財団の研究員アビー・マイルズは、予定の時間よりも10分ほど早く地下のシミュレイション室に来た。
そこにエリック・ネイサンが来ているのは判っている。以前なら昼寝をするために早く来て、中の灯りを消し机に突っ伏していた。
しかしここ1、2週間ばかりは違っているようだ。少なくとも灯りは点いているし、シミュレイターの端末で何か作業をしている。
アビーはそれを直接見たわけではない。しかし灯りのことは設備予約システムで「使用状況」を見れば判るし、端末のことは建物内のネットワーク管理システムでやはり「使用状況」を見ればいい。
ただし後者の場合、それで判るのは大容量のデータ通信をしていることだけであって、データの中身までは判らない。それは適切に暗号化されているからだ。
しかし通常なら端末がデータを大量に受信するだけなのに、エリックの場合、端末から送信している。しかも彼のオフィスの端末とデータをやりとりしている。それが普通のデータでないことくらいは、アビーにも判る。だが何をしているのかエリックに尋ねても、素直に教えてくれることはないだろう。
「ハイ、アビー、
「ハイ、エリック。時間があるので、あなたと一緒にお昼寝をしようと思って来たのよ。今日は寝てないの?」
「僕の生活リズムはよく変わるんだよ。今はシミュレイションが終わった後に寝て、足りない分は夜中に寝るんだ」
「あら、そうだったの」
「寝たいんなら灯りを消すよ? ホログラム・ディスプレイも輝度を下げれば気にならないと思うけど」
「お昼寝は冗談よ。本当はあなたと少し話そうと思って」
アビーはエリックの隣の席に座った。シミュレイターのテーブルは丸形で、席は四つ、それぞれ90度の角度を為す位置に置かれている。テーブルの中央には観察対象とその周りの風景が、立体的に表示される仕組みだ。
観察者は、それと目の前のホログラム・ディスプレイを見ながら観察を行う。
「真面目なアビーが堕落した僕に何の話をするんだろう?」
「他の人には話せないようなことよ」
「
「あなたは
そのことを、パトリシア・オニール博士から確認するよう、アビーは言われたのだった。ただしパトリシアの指示だとは言わずに。
「
そのときのエリックの表情は、いかにも自然に驚いている感じだった。アビーが思わず「
「気にならない? みんなが気にしてるのに。彼女はいったい何が目的で、仮想世界に留まってるのか」
「それ、みんなが気にしてるの? 知らなかったな」
知らないのは当然で、それに気付いているのはエリック自身と、エリックから報告されたパトリシア、そしてパトリシアから知らされたアビーだけだ。
「彼女が
「
7色のターゲットのうち、
現に
他に失敗したのは、ボナンザと分け合った
ただ不思議なのは、ターゲットのカラーはステージ終了まで明らかにされないのに、なぜか
「とにかく、
「そうかもね。でも今日は
「彼女が何を考えているか、調べられるのかしら?」
「さあ。考えるという行動をしていることは、脳の使用率グラフを見れば判るけど、中身は行動に表れるまで判らないからね」
それはエリックの行動とも似ている。端末間の通信をしていることは判っても、その中身は暗号によって保護されているのだ。
「心理学的なアプローチを使うとか」
「例えば?」
「言葉に対する反応を見るのよ」
「キー・パーソンか
「そうじゃなくて、第二仮想記憶に言葉を“
「
全ての
さらに現世での記憶――本来脳内に格納されている記憶――を打ち消すためのデータもある。上書き記憶という。
ステージの進行中に、
「でも、結局はその後の行動を見て、解析する必要があるよね」
「心拍や発汗の状態を見ることもできるわ。
「ああ、なるほど」
感心したような顔をしているが、エリックは既に自分でそれを思い付いていたに違いない、とアビーは考えていた。
「で、アビー、君がそれをしようって言うのかい?」
「私はしないわ。シミュレイション中に、ステージと無関係な知識を
「じゃあ、
「誰かがそれをしようとしてるんじゃないかって、思ってるのよ。あなたならやりそうだわ、エリック」
「僕はそんなことしないさ」
「じゃあ、他の誰かがそれをしようとしてないか、見張ってくれる?」
「僕にそれを頼むのかい」
「あなたがそれを見張ろうとしてるなんて、誰も考えないでしょう?」
「アッハ、逆説的なんだな。考えておくよ」
「そう。できれば今回のシミュレイションからにして欲しいけど」
「今回の他の二人はやりそうもないけどねえ」
シミュレイション室のドアが開いた。男性と女性が一人ずつ入ってきた。オリヴァー・ブランデルとトリッシュ・フリードマン。
オリヴァーは35歳。落ち着いた穏やかな顔つきで、精神科の医者のよう。観察部門のメンバーで最年長。そしてサブ・リーダーでもある。
観察部門は基本的に若手ばかりで構成されていて、それは“観察”が研究の基本となるから。技術者・研究者は入社5年以内に1、2年程度は観察部門に配属されるものだが、抜きん出た技量があれば配属されないこともある。エリックのように6年以上も研究部門にいた後で、観察部門へ転属になるのは例外中の例外だ。
トリッシュは24歳。ゲルマン系の整った顔立ちだが、表情に乏しいところは“
「ハイ、アビー、エリック。君たち二人が話しているところを見るのは初めての気がしますよ。二人とも、どこにでも現れるんですけどねえ」
「ハイ、オリヴァー。あなたの言うとおりかもしれないけど、私は他の人のところによくいて、エリックはいろんな場所にいるだけだから、じゃないかしら?」
「ああ、なるほど、そうかもしれませんね。エリックは思いも寄らない場所に現れるけど、そこで誰かと話してるわけじゃないから」
オリヴァーが楽しそうに話す。トリッシュはアビーと目を合わせたが、何も言わなかった。オリヴァーはエリックの向かいの席、トリッシュはアビーの向かいの席へ。二人の前にホログラム・ウィンドウが立ち上がる。
4人のログインが終わると、それぞれの前のサブ・ウィンドウの色が変わった。エリックは海の青、アビーは
「OK、私、アビーがグレイですので、進行を務めます。皆さん、資料はご覧になっていると思いますが、本日の
なお第4ステージにおける他者とのターゲット同時確保、いわゆる“半数獲得”のため、競合が発生しています。競合者はJ-13・ボナンザ。今回も同じステージ内に存在します。彼と
アビーからは、両隣のエリックとオリヴァーの表情が見えている。エリックはテーブルに片肘を突いて、オリヴァーは椅子の背にもたれて腕を組んで、笑みを浮かべながらアビーの説明を聞いていた。
向かいの、トリッシュの表情はよく見えない。ホログラム・ウィンドウの光が邪魔になっている。
「今回のステージのタイプはGC-12。
「
本当に短い一言だった。アビーは「ミスター・レッド?」。
「
オリヴァーは観察部門の中で最年長だが、言葉遣いが常に丁寧だ。
「ミスター・グレイ?」
「
「リーダーのウォードに直接尋ねていただけますか? ともあれ、それは観察記録の中に付帯事項として記録しておきますけど」
アビーは端末を操作して発言を記録した。それから
「キー・パーソンズは5人、共通型です。うち一人が最重要で、その人物に会うことがクリアに必須ですが、それには残り4人のうち二人に会い、適切な関係を構築する必要があります。
「
意外にもトリッシュが訊いてきた。
「事前申告はありません。ただし彼女は初日のうちに名前を変えることが多いですから、今回もその例に従うでしょう」
「了解です」
「GC-12ということは、我々も
オリヴァーが落ち着いた声で言った。
「あら! 忘れてました、ごめんなさい」
いつものように大事なことを一つ失念してしまい、アビーは苦笑しながら端末を操作して、四つのアヴァターを表示した。この場にいる4人とほとんど同じ姿だ。
「ただし彼らは
「了解です。ありがとうございます」
「他にはありませんか? では、観察開始です。
4人のアヴァターは消えて
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