#16:第6日 (22) 夜の議論

 タクシーに乗ってレストランへ。予約席に向かい合って座ると、巡査部長が熱っぽい視線で見つめてくる。さっきのワインのせいで、既に酔っているのか。警察で見せていた、きつい目つきとずいぶん違っていて、色っぽい。

 ただ、こういう視線の女は要注意だ。女軍人アリシアという最悪の例がある。どうして巡査部長のことを、あの女と重ねてしまうのか。似たような雰囲気だからか。

「食事中に議論はしないんだっけ」

「ええ、しません」

「じゃあ何の話をしようか」

「あなたのトレイニング方法を教えて下さいますか」

 プライヴェイトを教えて欲しいというのでなくてよかったが、トレイニングねえ。

「食事向きの話題じゃないな」

「私は構いません。好きですから」

「身体にいい食材にこだわったりする?」

「普段は考えますが、今夜のような特別な食事では気にせず、何でも食べることにしています」

 俺も学生の頃から食事に気を付けていれば、プロのフットボーラーになれたかもしれない。

「出張のときのトレイニングはランニングと、部屋の中でできる筋力トレイニングが多い」

「普段はマシーンを使いますか?」

「もちろん使う」

 それを説明する前に、料理の注文をしなければならない。ただ、アイリスが気を利かせて、お薦めのメニューを用意してくれていた。内容を聞いて、それでOKということにしたが、この前、スサナが頼んだような低脂肪ロー・ファットの料理ばかりだった。

 いったいどこから着想を得てこのメニューにしたのか。それとも、俺のデートの相手が巡査部長と知っていて、彼女がアスリートであることも考慮した、というのなら驚くべき能力だ。栄養士に雇いたい。

 さて、マシーンを使ったトレイニング。鍛えたい部位と使うマシーン、動かし方を、腕から順番に説明していく。巡査部長は、まるで面白い小説のあらすじを聞くかのように、目を輝かせている。ワインと料理が来ても、態度は変わらない。

 手足や身体の動かし方は、言葉だけでは説明できないので、ときどきジェスチャーで示す必要があるのだが、食事中にこんなことをするのは初めてだ。難しい理論の討議をしながら食事を摂るより、消化が悪そうな気がする。

 メイン・ディッシュが運ばれてくる直前に、トレイニングの説明が終わってしまった。

「とても詳しい説明をありがとうございます。参考になります」

 ワイン・グラスを傾けながら、巡査部長が笑顔で言う。浅黒い肌でも、ありありと判るほど、顔が赤くなっている。警察官らしくない、匂い立つような色気が発散されている。

「さて、次は何の話をしようか。君のトレイニングでも聞かせてくれるのか」

「あなたのお知り合いのアスレティック・トレイナーに、私のことを紹介するとおっしゃっていましたが、どうなりましたか」

「そんなに興味があったのか。申し訳ないが、失念していた」

 というか、ここ二日はスサナとも時間が合わないんだよ。そりゃ、話すだけなら電話すればいいし、いなければメッセージを残すだけなんだが。

「その方は男性ですか、女性ですか」

「女性だ。スペイン人で、仕事で週末までここに滞在中」

「あなたもトレイニングについて話しましたか?」

「少しね」

「理論的ですか」

「理論も実践も大事にするね。そして、いろいろなアスリートのトレイニング方法を聞きたがる」

「私も会って話をしてみたくなりました。あなたの紹介ということにすれば、会ってもらえるでしょうか?」

 一番手っ取り早いのは、明朝、ビーチに来てもらうことなんだが、他にカリナもいそうだし、ハファエラもいそうだし、そうなったら収拾が付かないんじゃないかという気がする。

「何ならこれから電話してみようか。ヒルトンに泊まっているんだが、もう部屋に戻っていて、今夜中に会う時間を作ってくれるかもしれない」

「いえ、これから12時まではあなたと議論がありますので」

 やはりそう言うか。しかし、とにかくホテルの部屋へ戻ってから電話して、明日会えるかどうかを確認することにした。ランニングの後、スサナの朝食が終わってから、というのが一番無難な気がする。

 スサナとどんな話をしたかを訊かれ、「ドリルについて」と答える。メイン・ディッシュを食べる間に、動きを説明をする。「私も試してみたいです」と巡査部長が言う。しかし、実行したら胸が揺れて大変なことになるだろう。よほどしっかりと押さえつけておかないと。だからそのドレスでは明らかに無理だ。

「柔術にもフットワークが必要なのは理解するが、継続的な動きは必要かな。瞬発力を鍛えるトレイニングじゃないんだが」

「試合に勝つことだけを目的にトレイニングするわけではありません。私の場合、健全な肉体を構築するのも楽しいことなのです」

「ところで柔術は警察が取り入れている体術なのか?」

「いいえ、私が独自に取り組んでいるだけです」

 科学捜査研究課なのに、いつそれを活かす機会があるのかと思っていたが、単なる趣味なのか。


 食事が済んで、ホテルへ戻る。タクシーの中で「ワインを飲み過ぎました」と言って巡査部長がしなだれかかってくる。何となく危険な気配を感じてきた。

 部屋に入ると「酔い醒ましにシャワーを浴びても構いませんか?」。まさか最初からそういう計画だったのか。

「浴びた後、君が着る服がないよ」

「バス・ローブを1着貸して下されば結構です。帰るときにはドレスを着ますから」

「しかし、下着は……」

「まさか、私があなたに対して不誠実なことをするとお疑いですか?」

 巡査部長は笑みを浮かべず、切実な目になって言ったが、こういうのを信用するとろくなことがないんだよな。しかし、信用しないと答える理由がどこにも存在しないのでは、断りようがない。

「使ってくれて構わないが、この後の議論中に酒は出さないよ」

「もちろんですとも」

 巡査部長の姿がバス・ルームに消えた。この部屋に来る女はどうしてシャワーを浴びたがるんだろうか。

 楽な服に着替え、リヴィング・ルームのテーブルにオレンジ・ジュースを用意して待つ。しばらくして巡査部長が出てきたが、バス・ローブの前をきちんと閉じていた。それでも胸の盛り上がりは隠せないが、むしろ裾が乱れないように注意してもらいたい。

「プロフェソール、あなたもシャワーをいかがですか」

「いや、後にしておくよ」

 俺がいない間にベッドで寝られたら困るからな。

「さて、議論を始めようか。何か準備してきたものがあるのかい」

 ドレスによく合ったハンド・バッグを提げていただけだが、もちろんそれに資料類を入れることができるだろう。

「ありますが、最初の議論では必要ありません」

 そんなにたくさんテーマを用意して来たのか。何しろ、3時間だからな。

「聞こうか」

「その前に、ここでお話しすることを、他へ漏らさないようお願いしたいのです。受け入れていただけますか。警察で話ができなかったのはそのためです」

「もちろん漏らさないとも」

「ありがとうございます。ではまず、私の開発したシステムへの評価についてです。上層部からは評価が高いのですが、中間管理職からはあまりよろしくありません」

 技術系の議論かと思っていたのに、いきなり違うじゃないか。

「例えばどういうよろしくない評価が?」

「警察官の行動も監視の対象に入っているというものです。何がいけないのかとお思いになるでしょうが、要するに彼らは、自分たちの問題行動が指摘されるかもしれないのを、気にしているのですよ。だから警察官は監視対象から外すべきだと主張しているのです」

「監視しても全く問題ないと思うね。むしろ警察関係者というのは市民の見本になるべき存在であって、やましいことなど何一つないという態度を取ってほしいものだ」

「ありがとうございます。上層部も全く同じ意見でして、やましいことをしている一部の警察官から文句が出ているだけと思っています。しかし最近になって、私自身が、このシステムに監視されているのを好ましくないと思うようになりました」

 酔い醒ましにシャワーを浴びたはずなのに、巡査部長の顔がまた赤くなってきた。

「それはどういう理由で」

「簡単に言うと、誰にも知られたくない行動を取りたいと思うようになったからです」

「それはどういう類いの」

「正直に言うと、恋しい人のところへ忍んで行くのです」

 何ともロマンチックな話じゃないか。巡査部長らしくない。いや、俺は彼女の性格を詳しく知らないから、らしいとからしくないとかの評価はできないんだけれども。

「そいつのことが好きなら、堂々と行けばいいじゃないか。それともそれだと相手に迷惑がかかるとか?」

「そういうことです」

「相手にパートナーがいるとか」

「おそらく」

「でも、何か問題行動を起こさない限り、そのことは誰にも判らないんだろう?」

「そうですが、意図せずうっかり、ということもあり得ます」

「しかしまさか勤務時間中にそんなことをするわけじゃないだろう」

「もちろん非番中です」

「では、非番の警察官は監視対象から外すとしたらどうか」

「一般人はいついかなるときでも監視されるのに、特定の職業人だけが監視対象を外れる時間帯があるというのは、批判の対象になるでしょう」

「でもシステムの存在は警察官と一部の人しか知らないんだろう?」

「いずれ公になります」

「その時までに、君自身が問題を解決すればいいんじゃないのか」

「私はこの手の問題の経験が浅く、どのような行動を取ればいいのかよく判らなくて」

「同僚にでも相談すればどうか」

「数理心理学の権威であるあなたなら、様々な例をご存じだろうと考えて、議論をお願いしたのです」

「俺もさほど経験があるわけじゃない」

「実経験ではなく、シミュレイション上のこととして扱っていただければ結構です」

 そういうシミュレイションをしたことはないはずなんだがなあ。俺の記憶にも――頭の中の論文タイトルを検索してみたが――ない。

「そんなに重大で緊急の問題なのか」

「業務に支障が出ているのです。その人のことを考えて仕事が手に付かなかったり、システムを使って、その人の行動を調べたくなったりするのですよ。今も胸が苦しいくらいです」

 巡査部長が豊満な胸に手を当てる。バス・ローブをずらしたりしないように頼む。

「それで、相手は誰なんだ」

「それが……」

 熱のこもった視線で、巡査部長が見つめてくる。まさか、俺か。

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