#16:第5日 (4) ブラジル科学アカデミー
話はすぐに終わった。こちらへ笑顔を向けたファティマに尋ねる。
「レジーナって、渉外担当の?」
「そうですよ。あなたも何度もお話になったと思いますが」
「彼女、今日の午後から休みだと聞いたが」
「休みでも電話は受けてくれますよ」
「直接会って、スケジュールを調整してくれた礼を言いたいと思ってたんだがね」
「大丈夫ですよ。後で会えますから」
最後、ファティマはひときわ嬉しそうに言った。何か特別なことをするのだろうか。夕食に呼ぶとか? 俺はゲームに行かないといけないんだけど。
「それより、私の研究を聞いて下さい。
まず基本概念の説明。音声認識と音声合成による、特定分野の会話・質疑を実現すること。もちろん、マニュアル化できるレヴェルの内容であり、高度な専門知識を要する会話・質疑はまだ先の話。
実現できると、コール・センター業務の効率化とコスト削減、あるいは初心者向けチュートリアル業務への適用が考えられる。
既に、コンピューターのアプリケイションでは“ヘルプ”でこれを実現しているが、連続的な会話で質問を詳細化したり、質問者の意図を汲み取って先回りしたりすることは、まだ進化の余地がある。
さて、学習方法。学習データ――質問と模範回答のリスト――が存在する“教師あり学習”であることは明らか。ただし、学習データには“回答による次の質問誘導”や“ダメな回答”を多数含むため、質問と回答は単純な1対1の写像ではない。なおかつ、質問は声で為されるため、音声認識で文脈を正確に解析するための学習も必要である。単純な例では“長い質問を適切に切り離し、複数の質問とする”など。
ただ、この辺りまでは、普通の技術。従来からある。ファティマが研究しているのは、“先回り”あるいは“質問者が省略したキーワードの補完”。質問者が、適切な言葉を使わない――解らないから思い付かないのだ――のはよくあることで、人間なら意図を汲み取ることができても、アプリケイションでは難しい。
それを、新しいデータ・マイニング・ルールによって克服しようというのが、ファティマの研究テーマだ。
「アーティー、あなたの論文ももちろん参考にしていますよ」
「何か参考にできることがあるのかな。全然関係ないように思うが」
「本当にそう思いますか? 実は解っていてとぼけているのではありませんか」
「そんなことはないよ。俺は思い付くとすぐに言いたがるからね」
「質問と回答を結びつけるのは、ネットワーク上で出発地と目的地の経路を探索するようなものです。こう言えば、あなたなら解るでしょう」
つまり、そこにネットワーク・シミュレイションを使って、学習させようと。シミュレイションの繰り返しによる確率変動は確かに学習だけど、そんな応用はさすがに思い付かないね。
「学習済みのデータをチェックしていて、面白かったのは、ネットワーク上の経路を探すときのように、“意外な抜け道”があることでした。質問と回答を繰り返すのは、
「なるほど、質問者は最初に“期待する回答”を持っていて、それを想定して質問を進めることがあるけれども、回答側は前例から、その方向が間違っていることを察知する……」
「そういうことです。回答側は、
「そういう分岐が発生しやすい
「もちろん、それも研究していますよ。次に説明しようと……あら、もうこんな時間です。講演に行かないと」
ファティマの話しぶりが楽しいのですぐに時間が経つ。でも、講演するのは俺であって、君じゃないんだぜ。いつの間にか、俺と一心同体のように勘違いしてるんじゃないか。
講堂も、もちろん同じ建物の3階にある。入ったときの印象は、田舎の映画館という感じ。椅子は固定されていて、200ほど。そこに60人くらい座っている。
見たところ、若い奴が多い。そして女が30%くらい。今回は準会員の出席率が高い? 準会員は40歳未満の優秀な研究者から選ばれて、5年間でさらに優秀な業績を上げると正会員になることができると。
さっそくファティマの紹介を受け、挨拶をしてから、話し始める。リラックスして聴いているのは、既に内容を知っている連中だろう。しかし年が若いほど、真剣に聴いている感じがする。あるいは、細かい質問をするために、一言も聞き逃すまいとしてるのかなあ。
話し終えると質問を受ける。さすがに学生たちよりも食いつきがいい。しかもプログラミングやシミュレイターの性能ではなく、理論の方ばかり。そしてそれらにちゃんと答えられる俺にも驚く。質問に対して、頭の中から勝手に答えが出てくる感じ。さっき、ファティマの研究を聞いたからかもしれない。
終わりの方になってくると、講演とは関係ない質問も出てくる。
「あなたが財団に就職したのは、新型スーパー・コンピューターの用途のアイデアを応募して採用されたから、というのは本当ですか?」
どこからそれを聞いた。昨日、ISTでイザドーラ・パリスに話しただけだぞ。
「いいえ、違います。マイアミ大で学士論文を書いたときに、没になったアイデアがあるんですが、前年に退官した教授が大学へ遊びに来たとき、それを冗談で話したんですよ。そうしたら、4ページのブリーフ・レポートに仕立てろ、紹介状を書いてやるから、それとレポートを持って財団へ行け、住所はここ、日時はこれ、と指示されたんです。そして当日行って、財団の、ある研究部長に内容を説明したんです。その時の反応はたいしたことなかったんですが、3日後にメールが来て、卒業したら準研究者として仮採用するから、16ページのレポートを作っておけと。それで就職して、正研究者になって、今に至るというわけです」
これはさすがに笑いが起こった。大学の友人が、とある企業に就職したときのエピソードを脚色したのだが、本当の経緯を話す必要はないだろう。何しろ“仮想記憶”の中に入ってない。ビッティーに訊いておいた方がいいかもしれないな。
「もちろん今のは冗談でしょうが、何か重要な研究に参加されたんですか。それは話してはいけないとか……」
「そういう記憶はないですが、とにかく私は自分のアイデアを説明するのがうまいと言われることが多くて、話しているうちに相手も解った気になってしまうようです。もちろん、学士論文の発表の時も褒められました。財団に入ってからもすいすいと正研究者になり、
今度の笑いはもう少し大きかった。これも大学の友人で、
「確かに、プロフェソール、あなたの講演は解りやすかったです。ただ、論文は少し解りにくいところがありました。これも説明してもらったら、解った気になりますかね?」
「論文は、論理の展開や結論は読まずに、シミュレイションの方法と結果の数字だけを見た方がいいですよ。そこに嘘は書いていませんし、図と数字だけなら騙されることもないでしょう」
二度笑わせたら、三度目以降は笑いを取るのが楽だ。学生たちもこうした質問をしてくれたら、講演を聞くのが楽しかったろうに。しかし、講演内容を忘れて、最後の質疑のところだけが記憶に残るという弊害があるけれども。
講演の後は、すぐさま研究説明へ。数学が一人、物理学が一人、社会科学が一人。持ち時間は一人45分。
最初の小太りな数学者は、ゲーム理論の純粋数学的な研究を話してくれた。もちろん、経済学の話は一切なし。
ただ、やはり数学者は概念的な説明に終始することが多いので、こちらからたびたび「具体例を示してくれ」と言わなければならなかった。数学者は苦労して例を考え出してくれたが、それがあるとやはり解りやすい。しかし、ある理論の説明がいよいよ佳境、というところで、彼の口がぴたりと止まってしまった。
「どうしたんだい?」
「ちょっと待ってくれ! 少し黙っててくれないか。うーむ、うーむ……」
数学者はそのまま考え込んでしまった。もしかしたら、例を出して説明しているうちに、自分の理論に間違いを見つけたか、あるいは今まで考えつかなかった新しいアイデアが閃いたのかもしれない。
15分待っても説明が再開しないので、ファティマと相談して、彼の元を辞すことにした。話しかけても反応がないので、ファティマがメッセージを書き残す。もちろん別れの挨拶も返ってこない。これほど集中できるのは素晴らしいことだと思った。研究者には必須の資質だろう。
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