#16:第5日 (5) 神経質な美女

 次は物理学者のところ。丸眼鏡をかけ、もじゃもじゃの顎鬚を生やしている。物理学は好きだけれども、難しい話はもちろん理解できない。いったい何を訊かされるのやら。

 気さくな挨拶を交わし、「まあ座って」と言われて椅子に座ると、なぜか皿に入った氷砂糖ロック・シュガーが出てきた。これが物理学と関係があるのか。

「合衆国からのお客には、出すことにしてるんですよ」

 物理学者はニコニコと笑いながら、氷砂糖を一粒口に含んだ。なるほど、それで意図を汲み取れと。

「一緒にペンチプライアーを出してくれれば実験ができたのに」

「ハハハ! 解ってもらえましたか」

 リチャード・ファインマンがブラジルへ行ったときのエピソードの一つだろう。ABCアカデミーの講演で物理学の参考書を批判し、“摩擦発光ルミネセンス”の説明として「暗いところで砂糖の塊ランプ・オヴ・シュガーペンチプライアーで潰せば、青い光が見える」とでもする方が、誰でも家で実験できて解りやすいのだ、と言ったのだった。

 その前にブラジルの科学教育制度を散々虚仮こけにしたので、ブラジル人は大いにショックを受けたはずだが、今ではジョークのネタにできるということか。そりゃ、100年近くも経てばそうなるかもな。

 さて、彼の研究テーマであるクォークの話を聴く。クォークには“色荷カラー”があり、“強い力”に関係するということくらいしか知らないので、理解するのが難しい。量子いろ力学となるともはや全く解らない。それでも、彼がスーパー・コンピューターを使いたがっているのは解った。

 ブラジルはTOP500に入るスーパー・コンピューターを数台保有しており、リオ・デ・ジャネイロ州の国立科学計算研究所にも1台あるのだが、州の予算の都合で電気代が満足に払えず、長期間停止したり、一部のリソースのみしか使えなかったりするそうだ。

 で、最後には、俺が財団で使っているような――本当に使っているのだろうか――スーパー・コンピューターが羨ましい、という愚痴のようなものになってしまった。それを俺に言われてもどうしようもないので、「とにかくいい論文を書いて、予算を認めてもらうしかないね」と言うにとどめる。ブラジルの科学がなかなか発展しないのは、こうして金をかけないところにも原因があるに違いない。


 最後は社会科学者の部屋へ。女で、髪が短く、背が高く、すらりとしている。見かけはファティマと対照的。そしてタイプは違えど、彼女もまた美人だった。もちろん、美人かどうかと研究の能力のあるなしが、一切関係ないことは理解している。

 専門は社会心理学。“社会における個人の心理学”であり“集団において個人の思考や行動がどのような影響を受けるか”を解明する学問。

「プロフェソール、あなたの数理心理学と非常に似ていると思いますが」

「こっちはそれを数式で表して、君は言葉で表そうということだと理解していいかい」

「私もたくさん数式を使いますよ。ただ、ほとんどは回帰分析でパラメーターの相関を調べるためのものですけれど」

 彼女の主なテーマは、集団の中の、二者の関係を調べること。特に、二者がコミュニケイションを取った前後で、挙動がどのように変わるかを調査し説明すること。

 簡単な例だと……対象となる二人に、あることについての意見を訊く。その後、二人にコミュニケーションを取らせる。対面の場合もあれば非対面の場合もある。コミュニケイションの後、再度同じことについての意見を訊く。その意見が、変わるか変わらないか、変わるならどのように変わるかを調べる。

 元々二人の意見が違う場合、話し合いの結果、一方の――概ね二人のうち主導的な方の――意見に同調することが考えられる。意見が最初と同じままでも、考え方に何らかの変化が見られるだろう。そういったことを調べていくのだそうだ。

「実験の結果、二人の仲が悪くなってしまうことはないのかな」

「そういうことも含めて調査対象ですので、ある程度は仕方ないことです。実験でなくとも人の仲は変わっていくものですわ」

「あるいは二人が無意識のうちに、君の理論に有利な結果を出そうとして、本来の自分の意見でないことを言う可能性は?」

「調査対象の意見を鵜呑みにすることはないです。目的以外の質問も適度に混ぜて、その内容から心理を推察するようにしています。また、コミュニケイションの内容も詳細に分析しますよ」

「一人からだと影響を受けやすいが、集団からは影響を受けにくいとか、あるいはその逆とか、そういったことを調べることは?」

「それは私の同僚のテーマですね。今日はあいにく出張で不在です。あなたの講演を聞きたいし、お話もしたいのに残念と言ってましたよ」

 そういう意見は鵜呑みにしないことにしている。礼を言って研究室を出る。


 さて、これでABCアカデミーでの今日の予定は終わった。時間もちょうどいいくらい。

「あと30分くらい取れませんか?」

 ファティマが魅力的な笑顔で訊いてくる。こういうときの30分はついつい1時間や2時間になるものだが、あいにくその30分すら捻出できない状況だ。

「今日はこの後、約束があって」

「それは残念です。私の話は途中でしたし、レジーナにも会っていただきたかったですし」

「レジーナは電話を架ければ声くらい聞ける?」

「今日は私からの電話には出てくれますが、あなたの電話には出ませんよ」

「じゃあ、明日か。でも、レジーナも休みだろうし、出てきてもらうのも申し訳ないな」

「そんなことありませんよ。きっと喜ぶと思います。それで、時間ですが、7時は他のテナントの都合があって入り口を開けられないそうなので、8時からでいいですか? 7時40分頃にホテルへ迎えに行きます」

「何なら地下鉄で来ても構わないが」

「車を出すくらい、何でもありませんよ」

 朝の8時頃というと交通渋滞が激しいのではと思っていたのだが、休みのところが多いとなると、さほど心配しないでいいのかもしれない。そして7時40分だと、ランニングをやめることになるから、スサナに予告しておかないといけないだろう。代わりの約束を求められるかもしれないが。

 1階までファティマに送ってもらい、別れの挨拶をする。さて迎えは、と辺りを見回すと、向かいの建物の前にカリナがいた。今日のブラウスは一段と胸の谷間を強調している。

「車は少し離れたところに置いています」と言われ、付いていく。この辺りは一方通行が多いので、路駐すると大通りへ出るのに苦労するそうだ。

 東へ200ヤードほど歩き、見覚えのあるプレジデンチ・アントニオ・カルロス通りを横断歩道で渡ると、駐車場があって、そこに車が停まっていた。そしてその横に佇む、神経質な顔つきの美女。見覚えがある。

「二人で後ろへどうぞ」

 カリナがそう勧めて運転席に乗る。待っていたのはベチナだった。どうして二日も連続で、俺を追いかけてくる女子学生がいるのか。

「やあ、ベチナ。講演の質問の続きを思い付いたのかい?」

「ええと、それは……」

 後ろのドアを開けてやって、ベチナを乗せる。反対側から乗り込むと、カリナが車を出す。すぐにアウミランテ・バホーゾ通りに入り、西へ向かう。この先には大聖堂があるから、一昨日と同じルートを走るわけだ。

「ベチナがあなたに会いたいというので、連れてきたんです。家から私の服を持ってきてもらったことですし」

 お礼というわけか。しかし、いったい何着持ってきてもらったことやら。

「それで、何か話したいことが?」

「大学で質問したときに、私が法学を専攻していることを、自己紹介しました」

「うん、憶えてるよ」

「私、卒業したら合衆国へ行って働きたいんです」

「法律関係の仕事に就くには、法学校ロー・スクールへ通って、司法試験バー・エグザムに合格しないと。ただ、法学校の学費は高いよ。授業に付いていくのは大変だから、学費を稼ぐために働いている時間はない。当てはあるのかな」

「ありませんので、まず仕事をして、お金を貯めてから法学校ロー・スクールへ通おうかと」

「仕事の当ては」

「財団に仕事があれば、紹介していただきたいんです」

 何か、無茶苦茶なことを言っている気がする。こっちで稼いでから合衆国へ行くという方法もあると思うんだけどね。そりゃ、稼ぎの額が全然違うかもしれないから、時間がかかるだろうけど。

 でも、彼女の場合はおそらく“合衆国へ行く”ことが目的になってるんじゃないかなあ。本末転倒プット・ザ・カート・ビフォア・ザ・ホース

「ドトール、一言よろしいかしら」

 運転席のカリナが割り込んでくる。リアヴュー・ミラーに目が映っている。

「どうぞ」

「彼女は単に、あなたに付いて行きたいと思っているだけです」

 やっぱりそうなのか。ベチナの顔を見る。首まで赤くなっている。どうやらカリナの言うとおりらしい。

「合衆国は君が思っているほどいいところじゃないと思うけどね」

「いいえ、あなたがいれば、どこだって……」

「ベチナ、ドトールは結婚してらっしゃるわよ」

えっウェ……」

 そっちかよ! 何なんだろう、このステージは。俺と話がしたい、約束を取りつけたいと言う女は、話じゃなくてが目的じゃないかって思えるのが多いんだよ。カリナは絶対そうだし、巡査部長サージャントだってどうも怪しい。ハファエラだけはどうだか判らないけど。

「残念だが、そういうことだ」

「……では、帰国するまでに、お話する時間を作ってくれませんか」

「同じリクエストをする人が何人かいて、まだスケジュールを決められていない。君のための時間を取れるか判らない状態だ」

「……土曜日の、何時の飛行機でお帰りですか?」

 見送りに行くと思わせておいて、同じ飛行機のチケットを取ろうというんじゃないだろうな。

「夜遅い便だと思うが、時間を憶えていない」

「解りました……」

 何が解ったのか。さっきまでと違って笑みを浮かべているが、何となく怖いぞ。見かけはおとなしそうだけど、もしかして無茶をするタイプか。カリナに性格を聞いておく? しかし、カリナにもこれ以上借りを作るわけには。

「ベチナ、中央セントラウ駅の前で降りてね。e-Utopiaへ、あなたを連れて行くことはできないわ」

「解ったわ、カリナ」

 そのまま会話はなく、数分後に車は駅前に着いた。ベチナは素直に降りたが、意味ありげな笑みを浮かべて見送っている。背筋が寒くなる。

「ローナについてアドヴァイスすることになっていましたわね、アーティー」

 そうだ。それもあったんだった。しかし、ベチナが何を企んでいるかと思うと気になって、ゲームのことをおちおち考えてられないよ。

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