#16:第5日 (1) 昨夜、何が?

  第5日-2045年2月16日(木)


「今朝のあなたの声はとても快活に聞こえるわ。何かいいことがあったのかしら?」

 モーニング・コールを架けてきた我が妻メグが言う。もちろんあった。隣のベッドに誰もいないことだ。それは寂しいことではあるけれども、落ち着いて寝ていられる。夜中に女の悩ましい声を聞くことほど、安眠を阻害する要素はない。

 ただ、久しぶりに我が妻メグの悩ましい声を聞いてみたくもある。それにはもう少し我慢が必要だ。

「いつもと同じだよ。でも、昨夜は君の写真を抱きしめながら寝たから、特に目覚めがよかったんだろう」

「私が夢に出てきたのかしら?」

「まだだ。でも、きっと今晩だよ。ところで明日、こっちへ来るかい。一晩だけでもカーニヴァルが見られるよ」

「片道12時間もかかるのに、1泊だけなんて割に合わないわ」

「やっぱりそうか。君の頼みを聞いて、最初から連れてくればよかったよ」

「実は私も、黙ってそちらへ行ってあなたを驚かそうかと思って、調べたのよ。でも、今週は飛行機のチケットが全く取れないの。キャンセル待ちもすごい数だわ。やっぱりカーニヴァルの前はそうなるのね」

 メグをこちらに来させないよう、シナリオが作ってあるんだ。次の出張には必ず連れて行くから、と約束して、電話を切る。着替えて、ランニングに行こう。

 ビーチに出ると、霧雨が降っていた。走るのに不都合はない。むしろ、涼しくて気持ちいいくらいだ。撥水ウォーター・プルーフのサングラスがあれば一番いいが、なければタオルで顔を拭きながら走ればいいだけのこと。

 準備運動をしながら、海を見る。いつもより少し波が高いようだ。ビーチには気にするほどの風は吹いていないが、沖が荒れているのかもしれない。しかし、もう少しすれば、いつものように晴れるだろう、と信じる。ブラジルのビーチには青い空がよく似合う。

 走り出す。天気が今一つだからか、人の姿が少ない。もちろん、散歩は晴れてからの方がいいだろう。西の端までにいた人は、昨日の3分の1くらいか。折り返して向かう先、ビーチの端の岩山が、雨で霞んでいる。その奥に見えるはずのポン・ヂ・アスーカルは、霧で隠されていた。

 サクサククリスピーと気持ちのいい砂の音を聞きながら、ヒルトンの前に来ると、いつもスサナが立っていた辺りに、今朝は水着の女が。カリナだった。立ち止まって挨拶をする。

おはようモーニン、カリナ。今朝はここにいたのか。スサナは?」

おはようございますボン・ヂーア、アーティー。どうぞお続けになって。戻ってきたときにお話ししましょう」

 端まで行ってこいと。ひとまずそうするが、カリナの濡れた肌がやけに艶めかしくて気になった。

 ビーチの東端、岩山のカフェの下で折り返す。西へ向かう景色は、ビーチの半分から先が煙ってよく見えない。砲台も霞んで、ある場所がかろうじて判る程度。半マイルほど走って、カリナが立っていた辺りに来たが、彼女の姿もなかった。しかし、新しい足跡が西へ向かっている。それを追いかけるように走る。

 やはり半マイルほど行ったところ、昨夜のレストランの近くに、カリナがいた。散歩よりも少し速いペースで歩いている。追い付いて、声をかける。カリナが振り向いて笑顔を見せる。

「ランニングの代わりにウォーキング?」

「本当は私、あなたやスサナのように、毎朝走っているんですわ。運動のために。でも、走るには胸をしっかり押さえないといけなくて」

 つまり、スサナが来ていたようなスポーツ・ブラで。俺を見ていたカリナの視線が、一瞬、自分の胸に移る。しまった、俺が胸を見たのが、バレたのか。でも、言い出したのは君の方だぜ。

「準備をしてくれば、一緒に走れるんじゃないかな」

「どうでしょう? あなたやスサナには追いつけないと思いますわ」

「ところで、スサナは」

「今朝は体調が悪いから、ランニングをキャンセルすると」

「君に電話があったのか。それともホテルへ寄って聞いてきた?」

「いいえ、私、昨夜は彼女の部屋に泊めてもらったんですわ。彼女を送っていくときに、少しお話がしたいと言ったら、快く部屋へ入れて下さって」

 もしかしてそれは、俺に対する皮肉か。でも、シングルの部屋に宿泊者じゃない人を泊めるのは、本当は契約違反なんだぜ。

「話を楽しんだのか。スサナは寝不足?」

「いいえ、体調不良です。脚に力が入らなくて、とても走れないと」

 爽やかな笑顔で、そんな意味深長なことを言うんじゃない。もしかしてそれは、君とスサナがをして、それでスサナが疲れたということじゃないのか。君は男でも女でもいいのか。

「今日の彼女の仕事に差し支えそうかね」

「9時頃まで休めば大丈夫でしょう」

「ドリルを教えるのは明日かな」

「今夜を希望するかもしれませんから、後で聞いておきます」

「こんなところでも秘書役をやってくれるのか。ありがたい限りだよ」

「仲良くなった方には、いろいろしてあげたくなるものですわ」

 まあ、そうかな。予定を聞くくらい、大したことでもない。本来の仕事の片手間にできるだろう。アイリスの仕事も、頼めばカリナが引き受けてくれるんじゃないか。

「どうぞ、お続けになって。あなたがクーリング・ダウンをしている頃には追い付きますわ」

「じゃあ、また後でシー・ユー・レイター

 カリナを置いて走り出す。彼女に手を出さなくて、本当によかったと思う。ああ見えても実はカポエイラで鍛えた体力も持久力もあって、何時間も相手をさせられるのかもしれない。ああ、朝から余計なことを考えてしまった。

 マリオットの前に戻り、整理運動をしていると、カリナが早歩きでやって来た。それだけでも胸が大きく揺れている。朝からいいものを見せてもらった。

「今日もお迎えに参りますわ」

「昨夜言ったが、二つの順番がまだ判ってないんだ」

「心得ています。アカデミーに確認します」

「手数をかけるね」

「お気になさらず。大事なゲストのためですから」

 本当にそうなのかな。それもあるけど、俺を狙っていそうだし、それ以上の何かがありそうでもある。単なる有能な秘書兼痴女と思っていたが、あるいは重要なキー・パーソンではないか。

 ただし、それをどうやって確かめるかは、熟考の必要がある。迂闊なことをすると、スサナのように……

 一緒にホテルへ向かいかけたら、カリナが言った。

「あら、うっかりして着替えを持ってくるのを忘れましたわ。これではあなたのホテルで朝食がいただけません」

「それもそうだけど、出勤のための服はどうするんだ。今日も一昨日のを着るのか?」

「ご心配なさらず。妹に頼んで、家から持ってきてもらいますから」

「君も妹がいたのか」

「おそらく今日、あなたもお会いになると思いますわ」

 どういうことだ。州立大学か、アカデミーにいる? しかしカリナは答えず、含みのある笑顔を残してヒルトンの方へ戻っていった。すごい尻の振り方。それもカポエイラのトレイニングなのか?

 部屋に戻り、シャワーを浴びて着替え、朝食を摂って、アイリスを待つ。9時10分、いつもの黒い服で彼女が現れる。どうして決まって10分過ぎなのだろうか。きっちり遅れるというのは意図がよく解らない。

「昨夜は女性が二人お越しでしたか?」

 どうして気付くんだろう。畏れ入った嗅覚だな。

「日付が変わる前に帰ったよ」

「そうですか。ええ、別にどなたがお越しでも、当ホテルとしては構わないのですが」

 だったら嗅ぎ当てるなって。それはそれとして。

「マルーシャの行き先を、知り合いに調べてもらったんだがね」

「何かお判りになりましたか」

 月曜日の10時に市立劇場へ行って、それ以後が不明、と説明する。変装したとか、マラカナンへ行ったとかは言わなかった。余計なことを言っても、アイリスには解らないだろう。

「劇場ですか。では、シェラトンに伝えて、劇場に連絡を入れてもらいます」

「そうしてくれ。それと、君に頼みたいことが一つ」

「承りますわ」

「月曜日に、エスタディオ・ド・マラカナンで何かイヴェントが開催されたか、調べられるかい」

「調べられますが、確かエスポルテ・エレクトロニコのゲームが開催されていたはずですわ。他のお客様に案内した憶えがあります」

 エスポルテ・エレクトロニコ、eスポーツのことか。確かに、カリナはエスタヂオ・ド・マラカナンでeXorkのエクシヴィション・プレイをやったと言っていた。夜だけかと思ったら、昼にもあったのか。

 マルーシャがそれを見に行った? いや、あるいは出場したのかも。変装して、というのがよく解らないが、エクシヴィション・プレイでは観客の前に姿を現す必要があって、ということからか。

 数万も観客がいれば、彼女を見て世界的オペラ歌手だと気付く奴もいるはず。それを避けるために変装した、とも考えてはどうか。

 実在する人物に化けたのは? それは、ある有名なゲーム・プレイヤーに取って代わるためと考えればいい。

 しかし、なぜそうする必要があったかは解らない。彼女だって、知名度を利用すればゲスト・プレイヤーとして参加するという手もあったはずだ。その場合、俺と組むことになっていたかもしれない。ゲストはZチームだけしかないから。

「今日の予定をお知らせします」

「頼む」

 10時からリオ・デ・ジャネイロ州立大学、2時からブラジル科学アカデミー。迎えはアカデミーから来る予定。州立大学でも俺の“付き添い”をしてくれるらしい。同校出身だそうだ。ドトール・モイセス。

「とてもお綺麗な女性だそうです」

 どうして君がそんなことを知ってるんだよ。それとも、対外的に有名な研究者なのか。それはさておき。

「もう一つ、君に頼みたいことがあった」

「承りますわ」

「ミラマー・ホテルに泊まっている、アルセーヌとオーレリーという二人と連絡が取りたいが、できるだろうか」

ファミリー・ネームソブレノーメはお判りにならないのですか?」

「判らない。だからこそ君に頼みたいと思って」

「やってみます。連絡が取れる場合、あなたからなさるのでしょうか、それとも……」

「こちらから電話するか、会いに行くと伝えてもらえれば」

「スィン・セニョール」

 彼らに、マルーシャ捜しを手伝ってもらいたいのだが、受けてくれるだろうか。

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