#16:第3日 (4) 一つの課題
「抜本的改良の予算と工期と言ったが、君はそれを計算したことがあるかい」
いきなり
「膨大になることは直観的に解りますが、計算したことはありません。計算するのもかなりの時間がかかりそうですが……」
「計算するなよ、ニコーリ。しようとも思うな。君が研究者でいられなくなる」
「何ですって?」
「プロフェソールの言うとおりだ、ニコーリ。若い研究者が予算だの工期だのを考えてはいけない。もちろん、上からはそういうことを考えろと言うけれどね。しかし、若いうちは研究のことだけ考えるんだ。自分が面白いと思うことをやればいい。そうですな、プロフェソール?」
マネージャーが、半笑いで口を挟んできた。
「ニコーリ、君は理解力のある上司を持って幸せだぜ」
「そうおっしゃっていただけるのは嬉しいですが、私にはどういうことだか……」
「そのうち解る。さて、研究内容について質問しよう。最適ネットワークを求めたが、それは現時点の
「
「では、予想してみてくれ。最適なネットワークの形状は最終的にどのような特徴を持つものになるか?」
「…………」
ニコーリが固まってしまった。考えているようにも見えない。しばらく待つ。
「……解りません。あるいは、均質化された矩形状ネットワークになるのでしょうか?」
「逆だ。地形データに近くなる。標高が低いところは密に、高いところは疎になる。つまり現状とさほど変わらないはずだ」
「本当ですか!」
「人口密度分布の最終形態がそれなんだよ。もちろん、移動経路と手段が最適化されているという条件が付く。ただ、例外になる地点はいくつもある。それは例えばどこか?」
またニコーリが固まる。通信じゃなくて、地理の話になっているからかな。
「……標高が高くても、人が集まるところ」
「その例は?」
「……コルコバード山の上とか」
「正解だが、それはどのような理由によるものか?」
「宗教的な意味合いを持つ場所、ですか」
「グッド。では他に、高地でも情報伝送路が強化されるべき施設はどこか」
「……飛行場」
「
ニコーリが考え込む。「そこは町とはさほど関係なしに人がいて、しかも重要な施設なんだ」とヒントを出してみる。
「軍事施設ですか?」
「そのとおり。さて、余談はこれくらいにして、シミュレイションのアルゴリズムのことを質問しようか」
衛星通信は地上での距離や経路を無視した使い方ができるが、地上の拠点局設置に大きなコストがかかることと、通信衛星の処理能力の上限という制約がある。それをアルゴリズムに適切に反映しているか。
しかし、5、6個の質問で、ニコーリがその制約と、俺の論文の内容を正しく理解していることが判った。答え方も理路整然。俺の意地悪な質問に対して臆するところもない。
「君の理解度の高さには感心した」
「あ……
「その優秀さを見込んで、課題を出そう。俺の論文に書かれた、“高速移動”の時間が2点間の距離に負の依存をするのはどんな場合か、その具体例を想像してくれ。解らなくても気にすることはない。仕事の合間に考えればいい。今日は何かトラブルに巻き込まれていたんだって? その処理が済んでからでいいよ」
「いえ、その
「ほう、それはよかった」
マネージャーの顔を見てみる。彼は「そうなのか?」という顔をしている。解決の報告が上がってきてないのかな。
「それで、プロフェソール、答えはいつまでに……」
「君の都合次第で、いつでも構わないよ」
「解りました」
ただし、今週土曜日の24時まででないと、間に合わないけどね。とにかく、これで終了かな。マネージャーはさっさと帰ったりせず、先ほどの研究論文のことで俺にいくつか質問をしてきた。管理職になっても研究内容を細かく理解しているようで、素晴らしい。この研究に長く関わってきたのかな。論文に名前があるかも。
その間に、ニコーリは片付け――といってもディスプレイの電源を切るくらいしかないのだが――を終えて、黙って突っ立っている。マネージャーと話をしていても、その視線を感じる。
最後にマネージャーと握手をして別れの挨拶。ニコーリも挨拶するのを待っていたのだろうか。
「ところで、この部屋に来たときに、何か混乱していたようだが、あれは何だったんだ?」
マネージャーが部屋を出て行っても、まだぼさっと突っ立っているニコーリに訊いてみる。目の輝きが、さっきまでと違っている。それどころか、目の焦点が合っていない……と思って見ていたら、いきなり身体が崩れ落ち、床に尻餅をついてしまった。
「おい、大丈夫か?」
近寄って、助け起こすために手を差し伸べたが、ニコーリは呆然としている。しばらくの後に差し出された俺の手に気付き、「ウアゥ!」と小さく悲鳴をあげ、怯んだ表情になった。
いや、違うな、これは。照れてるのか。顔色はさすがに判別がつかない。
「どうした?」
「ウアゥ! プロフェソール、あなたがそんなに若い方だなんて、思ってませんでした」
そう呟いてるのは聞いた気がするんだが、どうしてそう思ったかが問題だよなあ。
「誰か他の研究員と勘違いしたかね」
「はい」
「論文には俺の顔写真が入っているのに?」
「あれは若いときに撮った写真をずっと使っているのだと思っていました」
そんなことする研究者っているのか? いや、女でたまにいるな。若くて、モデルみたいに写りのいい写真を長く使うのが。最新の顔写真にするのは、義務じゃないからなあ。
「財団のウェブサイトで俺のプロファイルが見られるだろう。毎年、誕生月に撮った写真に更新している」
「それ、拝見していません」
「論文の本文しか読んでないのか」
「はい」
「若いからって、そんなに驚くことかね」
「でも、私の兄より若いなんて」
何歳なんだよ、君の兄貴は。俺より確実に老けて見えるのか? そんなこと、俺のせいじゃないだろう。
「とにかく、立てよ」
スカートがまくれ上がって、太腿が丸見えなんだよ。それくらい気付けよ。
「立てません。足の力が抜けてしまいました」
「じゃあ、どうやって部屋を出ようか。君がこの後、建物の外まで俺を送ってくれるんじゃないのか?」
「スィン・プロフェソール! そうでした、そうでした。あなたを、昼食へ連れて行きなさいと言われていて……」
そうなのか。そんなことは聞いていなかったぞ。アイリスはスケジュールを本当に確認したのか。
「ああ! でも、レストランがきっとあなたに合いません。もっと若い方のための場所を選ばないといけませんでした……」
ニコーリが頭を抱える。そんなことで困る女、初めて見た。というか、腰が抜けてから後のしゃべり方は、研究の説明をしてるときと全然違うなあ。今のは、単なる頼りない若い女だよ。遅れて部屋に入ってきたときと同じ感じだ。君も多重人格かい。
「とにかく、外へ出よう。俺が抱きかかえていけばいいか?」
「ウアーウ! そんなの、恥ずかしいです! 恥ずかしいです!」
頭を抱えたまま、上半身をぶんぶんと回す。扱いづらい女だ。ただ、早く立てって言ってるだけなのに。しかし3分待って、俺が片手を持って、もう一方の手で机にしがみついて、ようやく立った。まだ足が少し震えてるけど。
「さて、どこのレストランへ行く?」
ゆっくりと歩いて部屋から出て、エレヴェイターに乗って、壁にもたれかかりながらかろうじて立っているニコーリに言う。
「お待ちください、今、探してます……」
「どこだって構わないよ。ファスト・フードでもいいんだ」
「そんなところ、許されません! 私が怒られてしまいます!」
誰に? 昨日案内してくれたヘーベは、俺をポン屋へ連れて行ったんだぜ。大喜びでさ。エレヴェイターを降り、建物の外へ出たところで、ニコーリの足が止まった。
「レストランはあっちなのですが……」
東を指差す。
「そうか。それで?」
「でもあっちへ行くには、道路を渡らないとタクシーが捕まえられません……」
そんなに遠いのか? 400メートル? 4分の1マイルだろ。それくらい歩こうぜ。
「あなたを歩かせてよいものでしょうか……」
「俺はトレイニングのために朝夕5、6マイルは走ってるんだ。何なら走っていくか?」
「いえ、私が追いつけません……」
もちろん、一緒に歩いて行く。隣を歩いていいかって? いいに決まってるだろ。
「あなたと並んで歩いていると、デートをしていると思われてしまいます……」
それの何がいけないんだ。一緒に昼食へ行くなんて、デートみたいなものだろ。こういう面倒くさい考え方をする女、過去に何人かいたなあ。
「あの、プロフェソール」
「アーティーと呼んだら返事するよ」
「ウアゥ!」
ニコーリが頭を抱える。また尻餅をついたらどうしようかと思った。ニコーリはしばらく頭を抱えながら歩いていたが、何か呟いた後で手を下ろし、意を決したように言った。
「プロフェソール・アーティー!」
本当は却下だぜ、それ。
「何か?」
「昼食の間、あなたの論文のことを質問してよろしいでしょうか?」
「もちろん、構わない」
ただし、さっきの課題の答えは言わんよ。
プレジデンチ・ヴァルガス通りから1本北のマレシャウ・フロリアノ通りにあるカサ・パラディノという店に入った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます