#16:第3日 (3) 2.5次元の論文

 さて、移動体流動計測システムについて。資料はありがたいことに英語だ。しかし俺のために作ったわけでもないだろう。それをラーラが説明する。

 まずはモデル化。移動体は常時通信するもの、断続的かつ定期的に通信するもの、移動中に1回ないし数回だけ通信するものがある。

 常時通信と定期通信の移動体は軌跡が容易に追える。かつ、ルートが決まっていることが多い。

 1回ないし数回通信のもの――単発通信と呼ぶ――は受発信のタイミングも通信時間も様々で、その前後の移動軌跡を追うことは難しい。しかし、受発信がポアソン分布に従うとすれば、受発信地点とその時の移動方向を地図上にプロットすることで、移動体の全体的な流動を計測できるはずである、というのが趣旨。

 あとは移動体全体の受発信状況からポアソン分布のパラメーターを求め、モデル化した地図上で移動体流動をシミュレイションし、補正する。ここに俺の論文のシミュレイション方法が参照されている。

 そのパラメータを用いて、リオ・デ・ジャネイロ州各地区における実際のデータと比較する。車及び鉄道の移動データと比較するので、移動体流動データからは移動速度が遅いもの、つまり徒歩移動と思われるものを除く。すると、かなり精度よく一致する結果になった、とのことだった。

「何かご質問は」

 ラーラの足の震えがようやく止まった。一仕事終えたって感じだな。

「徒歩移動のデータは何かに使うのか」

「使い途を考えているのですが、何しろ途中で立ち止まるとか、立ち止まっていたところから移動を始めるとかの、普通の徒歩と違う状況のデータがたくさん混じってるので、いいものが思い付かなくて」

「行き先を確認するための通話だな。しかし、止まっている時間を外せば普通の徒歩のデータに近付くんじゃないか」

「はあ、そうかもしれません。やってみます」

「プロフェソールのご指摘はありがたいですが、補正した徒歩移動データは計算済みです。ただ、何に使うかは未定です」

 しゃべらなくても済むよう、と言っていたマネージャーが口を出してきた。まあこれくらいはいいだろう。

「昨日、交通局が、徒歩データを欲しいと言ってたよ」

「おや、そうでしたか。共同研究できるようなネタを持っているのかな」

 そう、俺が提案したんだけどね。

「それから、警察も欲しがるかもしれない」

「それは既に打診されましたが、計算した流動データだけでなく、個々のデータも全部渡せと言われたので断りました。たぶん、向こうはそこから他のデータを取り出したいのでしょう」

 マネージャーは穏やかに笑っている。さすが日系人。断るときでも笑顔。

「ええと、何か他にご質問は」

 マネージャーとの会話が途切れたので、ラーラが割り込んでくる。もうないよと言って欲しいのだろうが、そうはいかない。何しろ、昨日交通局も使われた論文がここでも俎上に載せられたのだから、俺も内容をしっかり記憶している。

 シミュレイションの条件について、ラーラを質問攻めにする。しかし、途中何度かしどろもどろになりながらも、ラーラは1ダースほどの質問を耐え凌いだ。なかなか根性ガッツのある奴だ。気に入った。

「最後に一つ。これはとても簡単な質問だ」

「何でしょう?」

「君の名前が入った論文はあるかい」

「1本だけです……」

「筆頭?」

「まさか! 末尾ですよ」

「その論文をくれ。後で読んでおく」

「スィン・セニョール……」

「ラーラ、ひとまずデジタル・データをお見せしたらどうかな。次の説明員が来るまでに、少し時間があるでしょう。プロフェソールが概要レスモくらいは読めそうだ」

「スィン・マネージャージェレンチ

 ラーラが手持ちのタブレットをささっと操作して俺に渡してくる。論文の表紙が表示されている。次に彼女は携帯端末ガジェットで電話をかけた。次の説明員は、果たして来られるのだろうか。

「今から来るそうです。3分以内にと」

「ラーラ、彼女が来たらオフィスに戻っていいよ。それまではここで待機」

「スィン・マネージャージェレンチ

 マネージャーは部屋を出て行った。待つ間、論文の概要アブストラクトを読む。おおむね、予想どおりのことが書いてある。

 時間があるので、末尾の参考文献を見る。二十数件の論文名が並んでいるが、確かに俺の名前と論文がある。コムブラテルやその前身の通信会社の論文と思われるものも多いが、その中に気になる著者名が。"Marcelo Henrique"というのはe-Utopiaのエンリケ氏では?

 ラーラに訊いても知らないかもしれないな、と思っていたら、廊下をバタバタと走ってくる音がした。せわしないノックの後、ガチャッと大きな音を立ててドアが開く。

 焦り顔の女が現れた。ラーラ同様褐色の肌だがヨーロッパ系の顔つきで、黒く長い髪を三つ編みにして両脇に垂らしている。そして丸い銀縁眼鏡。高校生なんじゃないかと思うほど、幼く見える。美人というよりは美少女か? そこまで若くはないか。

 その女は、ラーラと俺の顔を交互にまじまじと見ながら言った。

「財団のプロフェソールが来てるのよね?」

「そうよ、彼が」

 ラーラが答えると、女はさらにまじまじと俺の顔を見た。ここまで見られるのは初めてだな。一応、挨拶しておくか。

「ハロー、お嬢さんレディー。財団のアーティー・ナイトだ。初めまして」

冗談でしょブリンカンド!?」

 女は叫んだが、怒っているわけではないらしい。明らかに動揺している。視線を逸らして、何か呟いている。「こんなに若いと思っていなかった」って? ラーラは俺の顔を知ってたぜ。どうして君は知らないんだよ。

「ニコーリ、こんなところでなぜ立ち止まっている。早く入りなさい」

 女の後ろから声がした。聞き覚えがあるな。最初に挨拶した、もう一人のマネージャーだろう。追い立てられるようにして女が部屋に入ってきて、ラーラと立ち位置を変わる。ラーラにタブレットを返すと、「ありがとうございましたムイト・オブリガード、プロフェソール。よい一日を」と挨拶して出ていった。ハゲで大柄な黒人のマネージャーが俺の横にどっかと座る。前の女はまだ狼狽している。

「ニコーリ、プロフェソールに自己紹介したかね?」

いいえナンマネージャージェレンチ。まだです。失礼しました、プロフェソール、自己紹介が遅れました。ニコーリ・オリベイラです! とても光栄ですムイト・プラゼール!」

「ハロー、ニコーリ。俺の自己紹介はさっきしたよな。彼女は何年目?」

 後の質問は隣のマネージャーへ。

「3年目です」

「さっきのラーラと一緒か。同期で一番優秀?」

「まあ、優秀な部類ですな。今日は志願したんですよ」

 なのに俺の顔を知らないわけ? どういうことなんだか。

 さて、説明資料の準備はできたかい。通信ネットワークの最適化モデル構築だっけ?

 大型ディスプレイに資料の表題は表示されているのに、ニコーリはうつむいて目を閉じてブツブツと何かを呟いて、いっこうに説明を始めようとしない。マネージャーが横から補足。

「少し待ってもらえますか、プロフェソール。彼女は知らない人の前で話すとき、ちょっとした呪文フェイチーソを唱える癖がありましてね」

「ああ、なるほど。財団にはいないけど、大学にはいたよ」

 日系人だったよ。何を唱えてたかは、絶対に教えてくれなかったけどな。

 しばらくして、ニコーリが顔を上げる。目が輝いて、据わっている。俺の方は見てないけど。

「では、説明を……」

 そして話し出す。研究の背景について。旧来の基幹ネットワークは、まず大都市を結ぶ網目メッシュ状ネットワークを構成し、次に小都市に対して基幹線から分かれる枝線ブランチを伸ばしていた。どちらも基本的には、道路沿いである。基幹線は幹線道に沿い、枝線ブランチは支線道沿い。

 ネットワークの通信量が比較的少ない時代は、それで十分間に合っていた。少し増えても、基幹線を強化するとか、枝線ブランチどうしを接続して網目メッシュを細かくするという対策で十分だった。

 しかし、携帯電話の普及やマルチメディア通信による通信データの増加により、だんだんと乖離が起こってきた。長距離移動には車でなく飛行機を使うように、基幹ネットワークの抜本的改良が必要になったのだ。

 これには迂回路も適切に考慮しなければならない。つまりは経路の多重化が必要である。平面ネットワークだけでなく、衛星通信を用いた3次元ネットワークを利用するなど。

 そこで従来のネットワークを、遺伝的アルゴリズムにより進化させることを試みた。そこに利用されたのが……

「プロフェソール、あなたの論文です。『2.5次元ネットワークにおける移動経路選択とその変化の傾向、及びネットワークの進化について』」

 この時だけ、ニコーリは俺の目を見据えながら言った。仮想世界では初めて出て来た論文名だが、俺の記憶には適切に追加されていた。ただし、詳細まではまだ思い出せない。

 ニコーリはまた俺から視線を切って話を続ける。身振り手振りがだんだん大きくなってきた。リズムに乗ってきたという感じか。ただしラテンではない。

 俺の論文の概要が説明される。ネットワーク上での人の移動をシミュレイトするが、ときどきネットワークの一部が切れる。その時の迂回路の選択により、強化すべきラインが導出される。切れたところの復旧と同時に、強化すべきところもつなぐ。それが“進化”だ。

 また、2.5次元ネットワークは高速道路のある道路ネットワークに似ているけれども、“高速移動”の時間が2点間の距離に依存しない――固定値あるいはをする場合も含む――という性質を持つ。

 これは衛星通信を部分的に使用する通信ネットワークに応用できるはずである。そこで既存のネットワークと通信量トラヒックの情報を用いてシミュレイションを行い、遺伝的アルゴリズムにより最適ネットワークを導出した。

 現時点では、これに基づく抜本的ネットワーク改良は、予算的にも工期的にも難しい。コムブラテルだけでできる事業ではない。よってネットワークの部分的改良ポイントを決定するのに用いている。しかしいずれは電気通信庁と他の通信事業者と協力し、達成する計画を立てたい。論文は既に電気通信庁へ報告済みで、高い評価を得ている……

「以上ですが、何かご質問は」

 ニコーリがまた、俺の目を見た。これは俺が催眠術をかけられるような状態じゃない、自己催眠にかかってるな。

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