#16:第3日 (5) ブラジルの音楽
運よく空いていた窓際の席に、向かい合って座る。ニコーリがエストロゴノッフィを注文する。ブラジル風ビーフ・ストロガノフだそうだ。それからパステウ。小麦粉の生地に具を詰めて揚げたもの。VRゲームの世界なら
「プロフェソール・アーティー」
だから、本当はその呼び方はダメなんだって。
「質問か?」
「はい。2.5次元という言葉です。あれは何を意味しているのですか?」
「2.5次元は地理情報システムの用語だよ。3次元データを、2次元に投影表示することだ」
「3次元ネットワークを想定していると……」
「正確には3次元ではないな。平面のネットワークと交差しないショートカット経路を、3次元的にジャンプしているかのように扱ったに過ぎない。つまり、高さそのものに意味はない」
「
「そのとおり。ただ、距離は定義しても差し支えないんだがね。してもしなくてもどっちでもいい。それともう一つ、平面ネットワークを2面定義し、その2平面間を経路で結ぶネットワークを考える。2次元の重層化なので、2.5次元」
「それは例えばどのような……」
「君が研究を説明するとき、衛星通信の例を出したな」
「はい」
「多くの衛星通信は、地上の2点間の通信を衛星が中継する役割を果たす。しかし、衛星が複数あって、衛星間でも通信ネットワークを構築しているとしたら?」
「あっ……なるほど。地上ネットワークと、衛星間ネットワークが、重層化ですか」
「そういうこと」
通常、通信衛星は静止軌道上で運用され、衛星間の通信は行わない。しかし20世紀末、低軌道上に数十個の衛星を打ち上げ、衛星間ネットワークを用いる電話及び情報通信サーヴィスがあった。イリジウムという。合衆国と日本だけで運用されたが、費用がかかることから破綻と再開を繰り返し――まるでブラジルの通信会社だ――2050年頃にようやく全世界運用となった。
俺の論文の“2.5次元”はイリジウムをモデルにしたものではないが、概念は似たようなものだ。
「そういう衛星通信ネットワークが本格運用されると、私たちの研究は根本からやり直しが必要ですね」
まあね。俺は本格運用されている時代から来たから、知ってるだけで。
「そう。しかし、すぐにそれを利用できるかというと、費用面で難しい。ある一定以上の通信量がないと、対費用効果が低い。主に地上中継局の設置と保守費がネックになるだろう。それこそ電気通信局と折衝が必要じゃないかね。だから君たちは2通りの研究をする必要がある。衛星通信ネットワークを使う場合と、使わない場合」
「使う方が面白そうです」
「君がどちらをやるかは、上司と相談してくれ」
料理が出て来た。エストロゴノッフィはライスにビーフ・シチューをぶっかけた感じ。パステウはパイ包みを揚げた感じ。少なくとも高級料理ではないと思うが、ニコーリはなぜこれを俺に食べさせたかったのだろう。
「さて、2.5次元の意味はそれだけではない。重層化以外に、もう一つの手段がある」
「何ですか?」
「それを君に考えて欲しい」
「最後にいただいた課題がそうですか」
「そのとおり。負の依存、つまり見かけの距離が離れると、通信経路が短くなる場合だ。そんなに難しくない。しかし、俺が何からそのヒントを得たかは、君にはおそらく想像できないと思うね」
「はあー」
ニコーリはキー・パーソンかもしれないのに、彼女に俺がヒントを出すってのはどういうことなんだろうな。話を無理矢理変えてみよう。
「ところで君は、ヴィデオ・ゲームに興味はあるかい」
「いえ、ありません」
「スポーツは」
「ありません」
「フットボールも?」
「ルールを知りません」
「格闘技は?」
「ありません。身体を動かすのは苦手です……」
「サンバも?」
「見たことはありますが、やったことはありません」
一つ一つ訊いてられないな。
「じゃあ、君の趣味は何だ」
「音楽を聴くことです」
「ボサ・ノヴァとかカリプソとか?」
「いいえ、ショーロやフォルクローレ……」
フォルクローレは解るが、ショーロは知らんぞ。どんな音楽なんだ。ジャズのようなものか。聴かせてくれるって? スカートのポケットから
「どうした」
「
「そのまま聴くからいいよ」
再生を開始してもらって、
「ありがとう。音楽の知識が一つ増えた」
「プロフェソール・アーティー、あなたの趣味は……」
「アメリカン・フットボールだよ」
趣味ということにしておく。「すいません、興味がなくて」とニコーリが謝る。別に、謝ってもらうほどのことでもない。合衆国以外ではだいたいそうなんだから。むしろ興味を持って聞く女が少数派なんだよ。
昼食が済むと警察へ行くのだが、ニコーリはそこへ送り届けろとは言われていないらしい。ならば、俺が一人で行こうと思う。場所がよく判らないが、タクシーに乗ればいいだろう。
名残惜しそうなニコーリと別れ、通りを渡り、ショッピング・センターの横からタクシーに乗る。狭い町中の道を、南、西、南とジグザグに走っていると、
「セニョール、チラデンテス広場ですよ」
運転手が何気ない感じで言うが、こんなところにもチラデンテス広場が。独立の英雄だろうと言ってやると、「そうですが、ここの広場は銅像以外何もなくてねえ。見に行くなら
宮殿はどこにあるのか訊くと、旧大聖堂の近くとのこと。もしかして、マルーシャと旧大聖堂を見に行ったときに、すぐ横を通ったのではないか。なぜ彼女は教えてくれなかったのか。
広場の角を西に折れて、道の両脇に木が生い茂るゴメス・フレイレ通りを抜けると、警察本部の横に出た。これまでにリオで訪れた、どのビルディングより古めかしい。警察というのはそんなに金がないのかと思う。
入り口には衛兵の如く立ち番がいるが、これはどこの警察でも同じ。受付に行って、財団のアーティー・ナイトだと名乗る。ラテンと黒人の混血らしい女の受付係が、驚いた顔をする。そんなに目を剥くことはなかろう。
「あなたを迎えに行った者がいるはずですが?」
「どこに」
「コムブラテルです。2時15分前に行くと、連絡しておいたのに……」
行き違いか。向こうの受付係のヘマだな。受付係は電話を架けた。迎えに行った奴に連絡してるのだろう。一度切って、別のところへ架け直す。
「代わりの案内者がすぐ参ります。そこへかけてお待ちください、プロフェソール」
狭いロビーに、くたびれたベンチが置いてある。受付前にいると邪魔になるので、ベンチへ行ったが、座らないでおく。ベンチと同じようにくたびれた感じの老人が座っている。
5分ほどで、若くて背の高い黒人の男の警官が大慌てやって来て、受付係に聞いてから、俺に声をかけてきた。
「迎えが行くことをご存じなかったので?」
「聞いてないね。迎え人には申し訳ないことをしたな」
「とにかくこちらへお越し下さい」
くたびれたエレヴェイターに乗って上へ。最上階かどうかは判らないが、通された応接室はそれなりに立派だった。警察官よりはスパイのような鋭い顔つきの署長が、笑顔も見せずに挨拶する。
「
「そうでもない。俺の論文は、犯人の事前行動や逃走経路を推論するにも使われてると聞いてるんでね」
前回のハンガリーで、それを聞いた。俺のシミュレイションの中には、犯罪者は出て来ないはずなんだけどな。
「それなら話が早い。しかし、リオ文民警察ではそこまで研究していないので、それをやっている都市を二、三、紹介してもらえると助かるよ。今回は主に市民の行動監視の例を説明する。カメラ映像を用いるのだが、もちろん市民一人一人を監視するわけではなく、集団の中から規範に外れた行動を抽出しようという試みだ。詳しい説明は他の者がするので、私の方からは近年のリオの治安について話そう」
ソファーに向かい合って座る。署長の他にお偉方はおらず、俺をここまで案内してきた警官が、入り口のドアのところに立っているだけだ。
資料を見ながら話を聞いているうちに、ドアに控えめなノックがあったが、署長はそれに答えず、どうやら立ちん坊の警官が応対している。俺はドアに背を向けているので、見えない。密やかな話し声の後、ドアが閉まった。
10分ほどで署長の話が終わると、「この後は、彼女が説明する」とドアの方を指した。振り返ると、浅黒い肌でクルー・カットのように短い黒髪の美人警官が立っていて、俺に敬礼している。さっきの間に入れ替わったのか。
美人なのだが、目つきがきつく、警官よりも軍人に近い。しかしプロポーションが素晴らしすぎる。ベージュのシャツの胸がパンパン、スラックスの尻もピチピチだ。
女で、軍人で、胸が大きいとなると、最悪の例を一人知っているので、思わず警戒してしまう。
「科学捜査研究課、
名前がアリシアでなくてよかった。しぶしぶ立ち上がり、
「サルジェンタ・アンゲラ・マシャドです。
怜悧な表情によく似合う、低めのハスキーな声だった。目が全然笑ってない。こちらへ、と言われ、応接室を出て廊下を付いて行く。尻の形が素晴らしすぎるので目を背ける。
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