#16:第2日 (8) 秘書の仕事
カリナが運転席、俺はもちろん助手席に乗って、車が走り出す。水素燃料車のエンジン音は、昔のガソリン車によく似ている。ただし、燃料の匂いはない。
「ところで君は支社長秘書なのに、支社長のそばにいなくていいのか」
「今日はもう退社時刻が近いですし、支社長は私がいなくても、何でも自分でやる人ですわ。午前中にスケジュールをまとめれば、午後はあなたのような面会者の対応が私の主な仕事です」
「今日は俺の他に誰か来た?」
「いえ、どなたも。訪問の打診はあったのですが、支社長のスケジュールが3時まで空かなかったのでお断りしました」
「俺は運がよかったか」
「いえ、アカデミーからの連絡がもう少し遅れたとしても、あなたの方を優先したと思いますわ」
訪問者は俺以外の
もちろん、ゲームの中だけでなしに、仮想世界に実在する
「それはそうと、ホテルへ送ってくれるのなら、ヒルトンへ頼む」
「あら、JWマリオットと伺っていましたが?」
「人と会う約束があるんだ」
「そうでしたか。この後、夕食に誘っていただけるかと期待していたんですけど」
いや、君、支社長秘書だろ。どうして俺なんかに期待するのさ。そりゃ、君の容姿は十分魅力的なんだけどね。別に、ベッドの中までは期待しないけど。
「もし俺がゲームに参加するなら、君とは明日以降も会えるさ」
「ええ、ぜひ参加して、ステージを勝ち進んでいただきたいですわ。そうしたら毎晩あなたにお会いできますから」
「6時以降のゲームなら、君は帰宅してるだろう」
「いいえ、残業してあなたの送り迎えをしろと、支社長が言うに違いありません」
「それは秘書の仕事なのか?」
「支社長のゲストの対応をするのが、支社長秘書でなくて、誰がするとお思いになります?」
簡単に論破されてしまった。アイリスでなくて、彼女に今回の秘書役をしてもらいたいくらいだ。
「じゃあ、俺がこの後ゲームに参加するって言うかもしれないから、君は8時前まで残業するつもりなんだ」
「つもりではなくて、もう残業命令が出てます」
「いつそんな命令が?」
「あなたがいらっしゃると決まったときからです。8時までは、あなたのお近くで待機します」
なるほど、だから夕食に誘われることを期待して。いやしかし、この後スサナと会うときに、ちょっと邪魔だなあ。しばらく離れていてくれと頼めば、聞いてくれるんだろうけど。
「待ってる間、何もすることがないじゃないか」
「待つことも仕事のうちです。それに支社長のスケジュール管理は、車の中にいてもできます」
そりゃそうだろうな。エンリケ氏の近くにいなきゃいけないのは、彼を人と会わせるときくらいだ。その他は電話やラップトップでどうにでもなる。
「しかし、俺がゲームに参加すると、終わるのは11時頃。君はそれまで残業するつもりか?」
「ええ、もちろん。一般の参加者は、会場と自宅あるいは宿泊先までの行き来は自己負担ですが、あなたは支社長招待の特別参加ですから、私が責任を持ってホテルまでお送りします」
「君の自宅はどこか知らないけど、帰るのは12時を過ぎるんじゃないか」
「ご心配でしたら、私をあなたのお部屋に泊めて下さいます?」
そういうことを言って、俺を困らせようとしてるな。困るに決まってるだろ。
「寝る前と起きるときに妻が電話してくるんで、その間は誰も部屋に入れるつもりはないんだ」
「残念ですわ」
何が残念なんだか。道路は渋滞していて、車は30分ほどでヒルトンに着いた。5時少し前で、ちょうどいい。
「お部屋にはいらっしゃいませんが、間もなくお戻りになると思いますので、ロビーでお待ちください」
ここでも約束を破られてしまった。しかし、彼女と何を話すか考えていなかったので、それを考えることにする。
いや、違う。ボールを投げるところを見せることになっていたんだった。ホテルにボールを取りに戻って、ついでにトレイニング・ウェアに着替えた方がいいんじゃないかな。
「お会いになれなかったのですか?」
もしかしてそれが嬉しいのか?
「ホテルに取りに行くものがあるのを忘れてた。マリオットまで5分で行けるだろう?」
「もちろんです」
助手席に乗り込むと、カリナがすぐに車を出す。アトランチカ通りは相変わらず車が多いが、渋滞はしていない。マリオットに着き、5分後に出てくるから、道路の反対側で待っていて、とカリナに言っておく。
部屋に戻って着替え、ボールを持って外に出る。カリナは中央分離帯に車を停めて待っていた。本当は乗り入れてはいけないはずだが、5分くらいなら許されるのだろうか。ブラジル人はルールに対して非常に鷹揚だ。
「あら、これから運動をなさるのですか?」
「フットボールの練習を見せることになっていてね」
「私も拝見してよろしいですかしら」
車をスタートさせながら、カリナが言う。
「ボールを投げるところを見るのは、楽しそうに思うかね」
楕円球を見せながら訊くと、カリナが嬉しそうに微笑む。
「ボールを蹴るのを見るより、面白そうに思いますわ。私、
まさかブラジル人が、サッカーを退屈だと言うとは思わなかった。俺ですら、華麗なドリブルとか、絶妙なパスとか、コーナー・キックからのセット・プレイとか、キーパーの
しかし、
アソシエイションは、地味な好プレイがあってもすぐに次のプレイに移ってしまい、反芻している暇がない。大いに盛り上がるのは、確かにゴールの時だけだ。
あとは、応援そのものを楽しむというアソシエイションのスタイルにはなじめないかな。ゲームにかこつけて騒ぐのが目的という奴すらいる。プレイはどうでもいいのかと。
と、こんなことをカリナに言っても解ってもらえるかどうか解らないので、見たければどうぞ、と言っておく。
予定どおり、ぴったり15分でヒルトンに戻ってくると、ロビーにスサナがいた。「ちょうどよかったわ。今帰ってきて、あなたが待ってるって聞いたところよ」と言う。彼女もトレイニング・ウェアを着ていた。アスレティック・トレイナーなら当然だろう。
「さっそく見せてもらえるのかしら。じゃあ、ビーチへ出ましょうか」
「一つ相談が」
「何?」
「もう一人、見たいと言う女性がいるんだ」
仕事の帰りにここまで送ってくれたんだが、と言いながら外に出て、スサナにカリナを紹介する。「オーラ!」と言いながら二人でハグをしてキス。美人どうしなので、何と絵になることか。これがブラジル式なのだろうが、俺にハグをしてくれる女はいなかったなあ。どうでもいいことだけど。
アトランチカ通りを渡り――ほとんどの車はホテルの横の交差点でプリンセーザ・イザベウ通りに折れて行くので、ホテル前は車通りが少ない――ビーチへ行く。月曜日の夕方だが、人はたくさんいる。泳いでるのもいる。しかし、波打ち際に多くて、道路寄りには少ないので、そこを使うことにする。
いつもの、コインに当てる
「着替えてきた方がよろしければ、水着になりましょうか?」
「持ってるのか?」
「車にあります。昨日ビーチへ行って、今週末も行くつもりなので、洗った後で入れておいたんです」
カリナの水着姿が見られるのは素晴らしいことだが、強要してもいいものか。いや、彼女の方から提案してるんだった。
「暑くないのなら、そのままでもいいよ」
「暑いです」
水着になりたいのかよ。しかし、もしかしたら30分くらいじゃ済まないかもしれないし、そうなったらスーツ姿はつらいだろう。ジャケットを脱いでも暑くて耐えられないというのなら――耐えられそうに思うんだけどなあ――、着替えてきた方がいいに違いない。
5分で戻りますから、と言ってカリナはホテルの方へ行った。その間に、準備運動をする。しかし、どこで着替えるんだろう。車の中で? まさか。ホテルの手洗いでも借りるのかな。
いや、スサナ、君まで準備運動することないって。
「他の人が身体を動かしているのを見ると、私も動かしたくなっちゃうのよ。気にしないで、進めて」
意味が解らないけど、まあいいか。5分では準備運動が終わるはずもなく、カリナが戻ってきた。グリーンのビキニ! しかも極端に面積の小さい、ブラジリアン・ビキニ!
もしかして後ろはストリングで、尻がほとんど見えているというスタイルではないだろうか。気になってボール・コントロールが狂ったらどうしよう。
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