#16:第1日 (11) 別世界の出来事
「そんなに有名な劇場なら、君はそこでオペラを演じたことがあるんじゃないのか」
食べながらしゃべっているのに、俺より早く肉を食べ終わってしまったマルーシャに訊く。肉を飲んでいるかのようだった。
「いいえ、無いわ。行ったこともない。だから一度、見てみたいと思っていたけれど」
「リオから出られないか、あるいは出るには何か条件があるか」
「ええ、そう」
答えながら、俺の皿の肉を見ないでくれるかな。欲しけりゃ、もう一皿頼みなよ。
「ブラジルで他の有名な劇場はあるのか」
「少ないわ。サン・パウロ市立劇場と、北のナタウにあるアルベルト・マラニャン劇場くらい」
「そのどちらかに行ったことは」
「いいえ、どちらも」
「ブラジル自体、来たことが初めてなのか」
「ブラジリアに一度だけ」
「それは何の目的で」
「観光」
嘘だろ。ブラジリアは首都として、山の中に造られた計画都市だ。ワシントンDCよりももっと見どころが少ないはずで、おそらくはスパイとして何らかの調査に行ったんだろうな。
「そういう状況だとすると、とにかく君は、明日から何もすることがないわけだ」
「静養に来たんだから、それで構わないわ」
「街を歩いて、キー・パーソンと巡り会うことに期待するのか」
「そう。でも、もしかしたら今朝襲ってきた人たちが、そうだったかもしれない」
「それは穏やかなじゃないな。暴行されてまで、ターゲットのヒントを得ようとは、君だって思わないだろう」
「もちろん」
「やっぱり例のフランス人の男女と仲良くしておく? 前回だって、ジゼルと仲良くしたのは、それなりに役立ったんだろう?」
「ヴァケイション中の
「ヴァケイションと言えば、一つ訊きたいことがある」
「何?」
ようやく肉を食べ終わったと思ったら、すぐさまデザートが来た。アイス・クリーム。ジャボチカバという熱帯植物を使っている。葡萄を薄くしたような味だが、必要以上に砂糖を加えていて、猛烈な甘みのせいでフルーツの風味が飛んでいる気がする。
いや、だから、アイス・クリームを飲むなぁっ!
「君はおそらく2度目のヴァケイションに行っていると思うが」
「ええ」
だめだ、甘みで舌の感覚が麻痺して、少しずつしか食べられない。
「最初はもちろん、スペインだった。あの時、会ったよな。2度目はどこへ行った」
「マイアミ」
「合衆国か」
「ええ。あなたがいたわ。キー・パーソンとして」
キー・パーソンか。まあ、俺はその時、ウクライナのステージだったはずだから。いや、待て、キー・パーソン?
「君はヴァケイションだったのに?」
「他の
「そういうことか。フットボール・プレイヤー?」
「財団研究員」
「パート・タイマーの姿を見せずにほっとした。もっともそれは、フォート・ローダーデイルだけどな」
「あなたは、女性の
「君の方から誘った……わけじゃないんだろうな」
「ええ、でも、はっきり断らなかった私がいけなかったのかもしれない」
いけなかった? 何が? まさか、親しくなっただけじゃなくて、深い関係に陥ったのだろうか。アイス・クリームの味がしなくなってきた。
別世界の出来事とはいえ、俺とマルーシャが恋人どうしになる? そんなシナリオが、果たして成立するのだろうか。
いや、その世界の“アーティー・ナイト”は、俺自身とは違って、性格を多少調整されているはずで、俺の本来の女好きが強調されていれば、あるいは……
あれ、俺のアイス・クリーム、いつなくなったんだ?
「俺の方から尋ねておいて申し訳ないが、これ以上聞くのをやめることにする」
動揺してしまっている。この先を聞いたら、今後、彼女と仮想世界で対戦する上で、妙な意識が働きそうな気がしてきた。
「ええ、構わないわ。私も、以前のステージのことを思い返すのは、そんなに好きじゃないから」
マルーシャはとっくの昔にアイス・クリームを食べ終えて、俺の方を見ているような、見てないような、中途半端な視線を保っていた。
「そろそろ帰ろうと思う」
10時半になっていた。12時には
「ディナーに付き合ってくれてありがとう」
「不安は多少安らいだかい」
「いいえ、まだ続いている。でも、これから先は、一人で何とかするわ。しなければいけないもの」
「何なら、君のところへメグから電話させようか。きっと彼女も喜ぶぜ」
「どうしても我慢できなくなったら、お願いするわ」
食事代は、マルーシャのルーム・チャージに加算されるようだ。後で何かしらお返しをした方がいいだろう。
レストランを出て、エントランスまで彼女は見送ってくれた。タクシーが1台だけ停まっていたので――これももしかしたら彼女の力ではないだろうか――、それに乗り、マリオットまで行くことにした。夜の道路は空いていて、15分で着いた。
「それよりセニョール、お尋ねの、オペラ歌手の滞在先が判りましたよ! マリオット・ホテルです。部屋番号も、電話番号も教えてもらいました!」
礼を言い、調べたスタッフと君の分だ、と言って、5レアル
「ヘイ、ビッティー」
周りに黒幕が降りてくる。場所はマリオットの屋上。『ムーン・ラウンジ』と名の付いた
「ステージを中断します。
俺は半袖だというのに、アヴァター・メグは長袖のスーツ姿だ。もしかして、合衆国のオフィスにいるイメージかな。北半球は冬だから。でも、マイアミならそんなに寒くないはずなんだがなあ。
「グッド・イヴニング、ビッティー。君が姿を借りている、我が妻メグは元気にしてるかい」
「パートナーの安否は、電話で直接ご確認下さい」
「この後、電話がかかってくることになってるんだ。ところで、彼女をこのステージの途中から呼ぶことはできるのかな?」
「ステージのシナリオに関しては言及できません」
言えないということは、あるいはそういうシナリオがあるかも、ということと受け取る。
「判った。電話で、来たいかどうか訊いてみよう。本題の質問だが、リオ近郊のファヴェーラがどれくらいあるか、地図で見せてくれないか」
「リオ・デ・ジャネイロ市内だけで500以上あり、市当局が把握していないものもありますので、表示しきれません」
500以上! しかも市当局が把握してないって。隠蔽しようとしてるのか?
「そうは言っても、仮想世界として都市を再現する上で、ファヴェーラとして設定された場所があるんだろう? 市の中心部からこのコパカバーナまでと、もう少し西の、何と言ったかな、ヴィジガウという範囲まででいい」
「ヴィジガウまで表示すると範囲が広すぎます。まず、コパカバーナ周辺を表示します」
足元が、地図に変わる。いつもながら、俺が立っている場所がちょうど現在地だ。弓なりのビーチを南に擁し、東はプリンセーザ・イザベウ通りの辺りまで、北はサン・ジョアンという岩山まで、西はマロカという岩山とコパカバーナ要塞まで。それがコパカバーナの範囲。
その中に、五つばかり赤く塗られている地域がある。もちろん、それがファヴェーラ。どれも岩山の裾に貼り付くような感じ。一番広いのが西の、イパネマとの間にある。俺が引ったくりに遭った現場に近い。
「西にあるのは何という地区?」
「パヴァン・パヴァンジーニョと呼ばれています」
「ジーニョってのは小さいっていう意味じゃなかったっけ」
「そのとおりです」
「パヴァンは?」
「孔雀です」
優雅な名前が付いているのが皮肉だな。
「この仮想世界では、ファヴェーラは危険な地域として設定されている?」
「お答えできません」
「そこへ行ったら大怪我させられたり、殺されたりすることもあるだろうか」
「お答えできません」
シナリオによっては、そういうこともあるってことだな。もちろん、そこへ行って喧嘩を売ろうなんて気はさらさらない。
「この近くで最も大規模なファヴェーラは?」
「ロシーニャです」
「表示してくれ」
足元の地図が、西にスクロールした! イパネマ・ビーチの西に、ごつごつした岩山が海岸線に張り出しているところがあるが、そこから一山越えて、そのさらに北側の山との間の、盆地になったところだった。
「その南がヴィジガウ?」
「はい」
「シェラトン・ホテルは」
岩山が張り出したところに、ほんの狭いビーチがあって、そこがシェラトン。その西側、山の裾野に、東西に長く広がっているのがヴィジガウ。ただし、ヴィジガウと呼ばれる地区の全てがファヴェーラではなく、あくまでも山に張り付いている部分がそうだということらしい。
「ロシーニャとヴィジガウの間の山に、名前は付いているか」
「モーホ・ドイス・イルマンスです。
なるほど、尖った岩山が、二つ突き出しているように見えるからだろう。マルーシャはあんなところに放り出されたのか。可哀想に。いったい、どうやって下りてきたんだか。
「ありがとう、ビッティー。今夜は終わりにしよう」
「ステージを再開します。おやすみなさい、アーティー」
「おやすみ、ビッティー」
幕が上がって、星空が帰ってきた。さて、
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