#16:第1日 (10) ファヴェーラ
車が走り出すと、マルーシャが言った。
「ディナーの前に、あなたに見てもらいたいものがあるの」
「何でもどうぞ」
「少し、不快になるかもしれないけれど」
「心の準備をしておくよ」
何だろう。あまり良くないタイプの人物を紹介されるのかな。しかし、彼女は午後からほとんどずっと俺といたから、キー・パーソンと会っている暇はなかったはずだし。
5分ほど走り、街中から海岸沿いへ出て、左手にホテルらしき建物が見えてきたら、マルーシャが運転手に言った。
「少し先の、ホテル・シャリマーの前まで行って」
「シャリマー!? 誰か会う人でもいるんで?」
「いいえ、そこから景色を眺めたら、すぐに戻るから」
「スィン・セニョリータ」
運転手はあまり気が進まない感じの返事だった。なるほど、あまり良くない景色を見せられるんだな。
シェラトンの前を通り過ぎ、海に突き出した岬に沿って
「そこを右に入って、停めて」
「! スィン・セニョリータ」
ミラーに映った運転手の顔は、あからさまに嫌そうだった。しかし指示どおり右に曲がる。いきなり坂になっていて、少し上がったところで道が二手に分かれていたが、マルーシャはそこで停めさせた。
すぐに戻るので、転回して待っているよう運転手に言って、車を降りた。北を向いて立つ。
「そこに、岩山が見えるかしら」
「あるようだな」
真っ暗なので見えにくいが、上空の星を消している黒い物体が、見上げる先にあるのが解る。リオの中にいくつもある、巨大な岩山の一つだろう。
「私は初め、あの上に立っていたわ」
「ほう」
ステージ開始時に、俺は高いところに立たされることが多いが、今回は彼女がそうだったということか。
「あんなところにいて、よくあの時間にコパカバーナ・ビーチに来られたな」
「とても朝が早かったの。日の出直後だったわ」
「そんなに時間差が?」
俺がビーチに現れたのは10時頃だぞ。4時間くらい差があるじゃないか。
「歩いて降りてきたら、ここに出るの。その前に、ファヴェーラの中を通り抜けたわ。知っているかどうか、リオのスラム街。ここはヴィヂガウといって、最も大きなスラム街の一つ。この左手の、岩山の斜面一帯に広がっているの」
「あるのか、やっぱり」
何かの本で読んで、そういうのものがあると認識していたが、実物を見せられるとはね。しかし、真っ暗で――スラム街には電気が来ていないので――何も見えない。
それに俺はスラム街を嫌ってはいない。大都市の近くには往々にしてそういう場所があって、その労働力で都市が成り立っている場合もある。
「降りてきたときに、襲われたわ」
「!」
「正確には、襲われかけた。運良く逃げられたの」
「運良くって……」
君、格闘技も得意そうだから、簡単に逃げられるんじゃないのか。今回はそうでもなかったのか。相手がたくさんいたとかか。
「その経緯を詳しく言うつもりはないけれど、この仮想世界のファヴェーラの住人には、そういう人もいるということを、憶えておいて欲しいの。もちろん、貧しいだけで、善人だっているに違いないし、ほとんどがそうだと思うけれど」
「解った。ご忠告痛み入る」
俺の鞄を引ったくろうとした連中も、やはりファヴェーラの住人なんだろう。奴らは軽犯罪者だけれども、女を襲うような暴漢もいるってことだ。
「傷は付けられなかったか」
タクシーに戻りながらマルーシャに訊いてみる。
「脚に、少し」
なるほど、だから長いスカートを。逃げた後、すぐホテルに入って、着替えたんだろう。
「見えにくいところで良かったな」
「バックヤードに入ったら治してもらえるから、それまで我慢するわ」
運転手はこんなところで停めてるのが不安なのか、車から出て待っていた。しかし、彼もファヴェーラの住人じゃないかという気がするんだけどね。場所が違うと住人の気質も違うのかな。
俺たちが乗ると、逃げるように走り出した。さっき来た道を逆に戻り、2分ほどで海沿いのホテルの駐車場に滑り込む。
マルーシャが支払おうとするのを制して、俺が財布を取り出す。リオのタクシー料金は行き先によって定額だが、寄り道をさせたので、チップを多めに払っておいた。
立派なロビーに入ると、ベル・ボーイのようなのがすっ飛んでくる。チェックインしようとしているわけではないのに、どういうことか。
「
ご機嫌伺いか。やはり重要顧客扱いだな。俺とはだいぶ違う。
「大変結構でしたわ。南国の風物と、山からの素晴らしい景色を楽しみました。こちらの
「スィン・セニョリータ」
男に付いて行くと、レストランに入った。肉の匂いがする。夕方に肉を食べたのに、また肉か。奥まったいい席に案内してもらい、向かい合って座る。
「魚料理の方がよかったかしら」
見抜かれている。ついでに、さっきのベル・ボーイには笑顔を見せていたが、俺にはいつもの無表情。
「君の食べたいものを食べればいい。ブラジルで肉料理が名物なのは知ってるよ。シュラスコだっけ? バーベキューみたいなものだろ。一度は食べておかないと、メグに感想も言えない。明日からは節制して、ランニングやトレイニングに務めるさ」
「では、普通のディナー・コースにするわ」
もしかしたらまずいことを言ったかもしれない。コースということはスープから始まってデザートまでだろ。まだ全然、腹が減ってないんだけど。
マルーシャがウェイターに注文しているのを聞き流す。料理名から内容が想像できないのは、さっき既に解った。シュラスコを、シュハスコと発音するのだけは聞き取れた。
「飲み物はオレンジ・ジュースでいいかしら?」
「ワインだ」
それも話の種に飲んでみるだけだよ。ウェイターが下がって、しばらくしたらパンが出て来た。スープから、と思ったのは甘かった。
ポン・ヂ・ケイジョ。チーズ・パンのこと。外は
マルーシャも細い指でパンをちぎって、どんどん口の中に入れる。すぐになくなって、次々にパンを取っていく。籠に六つあったうちの四つが、瞬く間の彼女の胃に収まった。パンは飲み物じゃないんだけど。液体のパンがワインだぜ。解ってるのか。
スープが出て来た。いやに早い。作り置きか。フェイジャンという豆のスープ。たぶん昼に食べたフェイジョアーダの肉抜き版のようなものだろう。コース料理として出せるように、スープ仕立てにしてあるんだ。
「何か話せよ」
マルーシャに話しかける。彼女は黙って食べていると、あっという間に皿の中のものがなくなってしまう。話しながら食べていても、俺より早いんだけど。
「明日からは仕事として行動するのかしら」
「そうだよ。たぶんね。ただ、スケジュールをちゃんと把握していない。おまけに、ホテルで秘書を務めてくれる女も、何となく頼りなくてね。明日の朝になれば、もう少しはっきりするだろう」
もしかしたら、行き先はだいたい決まっているが、日程や時間が未定のまま来た、というところかも。普通の会社なら、こんないい加減な出張は絶対に不可能だろう。
「きっと、大学や科学アカデミーや計算機科学技術高等専門学校へ行くんでしょうね」
「どうしてそれを知っている?」
マルーシャの言葉を聞きながら、俺も思い出した。例によって講演をして欲しいと言われているから、テーマを三つほど用意してある。
「財団の研究員で、数理心理学が専門なら、そういうところへ招待されるでしょう」
「君はリオにどういう研究機関があるのか、全て把握しているのか」
「いいえ。でも、科学アカデミーと高等専門学校は特に有名だから。それ以外の分野では、バイオマス・エネルギーと航空機技術の研究機関をいくつか」
どうしてオペラ歌手がそんなことを知っているのかと思うが、彼女は財団研究員やキエフ大学情報工学准教授の肩書きを使ったことがあるし、何よりスパイなんだから、各国の技術関係に詳しくても不思議ではない。
「君はどこに招待されるんだろう。市立劇場? タクシーで見て回るときに、寄ってもらえばよかったかな」
「マナウスのアマゾナス劇場から招待されているわ」
マナウスってどこだ。ブラジル北部、アマゾン川の中流の大都市? ああ、確か大型船がそこまで乗り入れることができるんだっけ。しかし、どうしてそんなところに劇場が。
「19世紀末から20世紀初頭にかけて、アマゾン川流域で天然ゴムを採取する産業が栄えたの。マナウスはその中心地」
ヨーロッパから多くの人が入植し、ブームに乗って巨万の富を得た。気をよくした彼らは街にヨーロッパの文化を再現しようとした。
1881年、地元の衆議院議員、アントニオ・ホセ・フェルナンデス・ジュニアが劇場を建設することを発案。翌年、州大統領ホセ・ルストサ・パラナグアが予算を承認。リスボンの建築事務所に設計を依頼した。パリのオペラ座を模したイタリア・ルネッサンス様式。
84年から、イタリアの建築家セレスティ・アルサカルディムの指揮の下、建設を開始。ドーム屋根のタイルや階段の大理石など、資材はすべてヨーロッパから運んだ。
12年後の96年にようやく完成。5階建てで、客席は700。天井画を手がけたのはイタリアの画家ドメニコ・デ・アンジェリス。
初演は12月31日、アミルカレ・ポンキエッリの『ラ・ジョコンダ』。現在でも毎日のようにオペラはコンサートが開催される。
マルーシャが淡々と話している間に、メイン・ディッシュが来た。肉は3種類。ピッカーニャと呼ばれる牛の尻肉を串焼きにして、そぎ切りにしたもの。リングイッサというソーセージを焼いたもの。そしてコステーラという骨付き牛バラ肉のあぶり焼き。付け合わせとしてポテトとアスパラガス。
味は、何と言うか、今一つ。たぶん、牛や豚の育て方が雑な上に、調理も雑だからだろう。真面目にやればもっといい味が出せると思う。
合衆国民で、料理の味にさほどこだわらない俺ですらそう思うのだから、食にうるさいイタリア人や日本人なら残念に思うだろう。
もっとも、こういう“野趣”を楽しみたいというのなら、お好きにどうぞと言うしかない。
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