#15:第7日 (10) 最後の寄り道

 ヘーヴィーズ湖の面積は約4万7千平方メートル、すなわち約51万平方フィート。その数字だけではピンとこなかったが、一目見ただけで“湖”と呼ぶには小さ過ぎるのを理解した。ちょうど、フットボール・スタジアム一つ分くらいの大きさなのだ。

 これでは温水湖ならぬ温水池だな。だいたい、平方キロメートルや平方マイルで表さない時点で、いかに小さいかが判ろうというもの。

 湖岸から屋根付きの橋を渡って、湖の真ん中!に建てられた施設へ行く。ここで受付と着替えができる。水浴するには水着を着なければならず、レンタルもあるが、俺もジゼルも持っている。ただし、浮き輪は借りた。

 それから更衣室へ。着替える場所は男女別。しかしロッカーは男女共用。先に着替え終わり、ロッカーの前で待つ。意外にも長い時間かかって、ジゼルが更衣室から出て来た。もちろん、例の“女子陸上アスリート”だ。これでなぜそんなに時間がかかるのか。

「下着が汚れてるから、新しいのを買わなきゃ」

 余計なことを言うんじゃない。車の中の鞄にないのか。取りに行ったけどなかった? 全部ロジスティクス・センターに送ったって、そんな不用意な。

 さて、温水湖。面白いことに、室内プールに入ってから、壁の下をくぐって外へ出ることができる。つまり正確には室内プールではなく、湖に屋根がかかっているようなものだ。大人なら足の着く深さに網を張ってあるらしい。子供が多い。ちょっと騒がしい感じなので、そこへは入らず、直接外に出た。

 階段を降りて、湖に浸かる。なるほど、ぬるま湯ウォーム・ウォーターだ。摂氏30度とのことだから、華氏では85度くらい。夏場なのでちょっと温かすぎるが、冬場なら寒く感じるかも。

「もっとあっちへ行こうよ」

 ジゼルが俺の手を引いて、の方へ行こうとする。建物の周囲は下に網が張ってあって足が着くが、離れると網がなくなり、浮き輪に頼って浮かぶ。ジゼルはとにかく、他の連中から離れたがっている。

「水がちょっとぬるっとするよね」

「そうだな。の水だから」

「蓮が生えてるんだ」

 岸に近いところに、蓮の平たい葉が固まって浮いているように見える。魚もいるが、グッピーのように小さく、色が黒い。人に慣れているようで、ときどき身体をつつきに来る。

「水の中でマッサージをすると気持ちいいよ」

 やはりそういうことが目的なのか。まるで自分のものになったかのように、ジゼルが遠慮なく俺の身体をあちこち触ってくる。マッサージらしく肩や腕に始まり、胸から背中、腹とだんだん手が下に降りていく。そしてどう考えてもマッサージが不要なところまで。

「君の下着は汚れてなかった?」

「あの後、シャワーを浴びたからな」

「僕も一緒に浴びたのに」

 君は女だから、洗いきれないところがあるんだよ。仕方ないだろ。

「僕にもマッサージしてよ」

 どこを。そもそも俺の知ってるマッサージは、運動して疲れた筋肉をほぐすためのものであって、気持ちよくなるためにするものじゃないんだぞ。ちょっとだけ痛い目に遭わせておくか。まずは腕から。

「細いな。筋肉がほとんどない。君もスポーツをしたらどうだ」

「ときどき、遊びでテニスをするくらいなんだ。あ、痛い痛い」

「せっかく陸上競技アスレティックスのウェアを買ったんだから、走るとか」

「ダメだよ、これは君だけに見せるものなんだ」

 ここで着てるだろうが。それに朝のマルギット島で、そのウェアで走ってたろうが。あの時、何人もの男に見られてたと思うぜ。周回で走ってる男は少なかったけど、近道したときにも誰かに見られたりして。

「肩の筋肉も少ないなあ」

「背中をマッサージしてよ。ちょっと待って、水着を脱ぐから」

 待て、脱ぐな。それに腕が疲れてないなら背中をマッサージする意味なんてない。

「せいぜい、肩甲骨の内側を刺激するくらいだよ。ウェアを脱ぐ必要はない」

「じゃあ、胸は?」

「大胸筋のマッサージは脇の前辺りを刺激するだけで十分だ」

「それじゃあ、下半身!」

「俺に水の中に潜れとでも?」

「お尻だけでいいよ」

「形が変わるぞ」

「君の好みの形になりそう?」

「保証できない」

「残念だなあ」

 ずいぶんと諦めがいい。要するに、男といちゃいちゃフラーティングしたいのだろう。

 ずっと浸かっているわけにもいかないので、建物へ戻り、湖の上に張り出した広いバルコニーへ行く。デッキ・チェアがたくさん置いてあって、日光浴ができる。

 二つを並べて寝転がるが、ジゼルは横になって俺の方を見ている。片側だけ日焼けするぞ。

「楽しいなあ。新婚旅行みたい」

 ジゼルが呟く。何を考えているのかと思う。そういえばメグとの新婚旅行はどうしよう。ニュー・カレドニアがそれだというわけじゃあるまい。他へ行きたいぞ。ヨーロッパ。仮想世界でもまだ行ったことがない国にしよう。ギリシャはどうだろう。

「アーティー、愛しい人モナミ、他の女の人のことを考えてるね。今は僕のことを一番大事に思ってほしいな」

 どうして判ったんだろう。メグのことを思うと顔がにやけるのだろうか。

「申し訳ないな。仮想世界といえど、浮気していると思うと気が咎めてね」

「そういう正直なところも好きだよ。君はきっと一途に愛するんだろうね。メグが羨ましいよ」

 しばらく身体を乾かしたら、また湖に入る。バルコニーからも階段があって降りられるので、そちらへ。蓮の葉が群れている。

 珍しく、一人で浮いている女がいる。浮き輪だけでなく、足にフロートを付けて、仰向けになって。大きなキャペリンを被っていて顔はよく見えないが、あの姿勢で本を読んでいるのだろうか。器用なものだ。

「オーララ、困ったね、どうしよう」

 ジゼルが戸惑いの声を出す。顔は見えない。俺の背中にしがみついているから。

「何が?」

「あれが誰だか、判らない? マルーシャだよ。ゲートへ向かう途中に寄ったんだね。考えてることが僕と同じなんだなあ」

 マルーシャ? そうなのか。顔は見えないが、髪が黒いぞ。そういえば、ゲッレールト温泉でも黒髪のウィッグを被っていたような。

「珍しく、周りに誰も寄ってきてないようだから、放っておいてやれば」

「そうだね。でも、どうする? ターゲットを……彼女は、持ってるかもしれないよ。奪うこともできる」

 それはそのとおり。そして、彼女がここにいるということは、おそらく俺と退出ゲートが同じ。つまり、俺はメイン・ゲートに向かっているわけだ。

「奪うにしても、頭を使うことにしてるんだ。そういう取り決めでね。それに、彼女がここに悠々と浮いているということは、それなりの対策があるということだろう。もっとしっかり観察してからだな」

「取り決めなんてあるんだ。やっぱり、君と彼女は強くつながっているんだね。羨ましいな。僕も君と競合して、2ステージに1度は会えるようになりたいよ」

「彼女と競合すると大変なんだ。今回みたいに、簡単にターゲットを奪われる」

「僕も君と競合したら、毎回ターゲットを奪われそうだよ。闘争心がなくなるから」

 そうだな。俺とマルーシャの間には緊張感のようなものがあって、それはマルーシャが俺に対して醸し出す雰囲気によるのだが、第三者がいない限り、馴れ合うことがない。

 ところが今のジゼルは完全にでれでれラヴストラックだ。別のステージであいたいしてもきっとそのままだろう。最初のような、中性的でクールな雰囲気を保ってくれていたら良かったのに。

 別の場所へ行って水に浮かび、またバルコニーへ上がって身体を干し、それを何度か繰り返して、6時に車へ戻った。2時間ほど温泉を楽しんだことになる。「ちょっと早いけど、夕食を摂ってからにしようよ」とジゼルが言う。

「ショプロンに着いたら日が暮れるんじゃないか」

「そうだね、今の時期だと8時頃に日没かな。それが何か問題あるの?」

 暗くなったら、また車の中で襲われるんじゃないかと思って。退出時に女の車に乗せてもらってるときは、だいたいそうなるんだよ。

 温泉施設に食事をするところはないので、街中のレストランへ行く。ヘーヴィーズ自体は小さな町だが、温泉地だけにレストランやホテルはたくさんある。“ブリックス・ビストロ”に入り、魚料理のディナーを注文する。図らずもバラトン湖の魚を食べることになった。「1杯だけ」と言ってジゼルが白ワインを飲む。

「もう半日あればホテルに泊まって、楽しい夜を過ごしてから退出できるんだけどなあ」

 酔っているはずがないのに、酔ったような目でジゼルが呟く。本当に勘弁して欲しいと思う。だって、退出した途端にアヴァター・メグの顔を見るんだぜ。目を合わせられない。

「やあ、またマルーシャがいるよ。彼女もここを選んだんだ。もしかしたら君を追いかけてきたのかなあ」

 ジゼルが目をやった先のテーブルに、黒髪の女。俺の目には、どうしてもマルーシャに見えない。食べてる量も普通だし。ジゼルはなぜ判るのだろう。

「ターゲットも持ってないのに、追いかけられるはずがないって」

「僕から君を奪おうとしてるのかな。彼女より先に出た方がいいね」

 そんなわけがあるか。しかし、早く行くに越したことはないので、さっさと食べて店を出る。7時半。ショプロンまでは2時間ほど。そこからウィーン国際空港までは1時間足らず。

 夕日が落ちていく中を、北へ向かって走る。ジゼルはメグのことばかり訊いてくる。俺の好みのタイプが知りたいらしい。ひたすら献身的な面ばかりを自慢するが、夜のことは言いたくても言えない。

 9時過ぎ、ショプロンの町に到着。ウィーンへはここまで通ってきた幹線道を行くのが早いが、汎ヨーロッパ・ピクニック記念公園へは細い田舎道に入る。

 田園の中を走り、どこに国境があってもおかしくないような感じだが、10分ほどで、道が妙な二股に分かれているところへ出た。まるで有料道路の料金所トル・ゲート跡地のよう。

 ナヴィゲイション・システムによれば、ここが記念公園。ジゼルに頼んで、車をそろそろと走らせる。さっき分かれた道が合流する道端に、“ドア”があった。おそらくコンクリート製と思われる“枠”に、錆びた鉄製の“扉”が半開きになっている。その前で車を停めた。

 ほんの数ヤード先に、ハンガリーとオーストリアの国境がある。あるはず。何も見えないけど。

 車を降りて“ドア”を見に行く。モニュメントだよな、たぶん。これをくぐれば退出できるんだろう。しかし、ジゼルが俺の服の裾を掴んで離さない。どうやらこのまま行かせてはもらえないらしい。

「せっかくだから、公園を見に行こうよ」

 ジゼルが左の方を指差す。遊歩道があって、広場になっているのは判る。いくつかモニュメントがあったりするのだろう。しかし、車のヘッド・ライトを消したら、真っ暗で何も見えないに決まってるぜ。行って何をするんだって。

 しかもジゼルは車に戻ってライトを消してしまった。そして懐中電灯フラッシュ・ライトを持って――ずいぶん用意がいい――遊歩道の方へ俺を引っ張って行く。どうやら四阿ガゼボがあるようだ。たぶんベンチがあったりするのだろう。そこへ並んで座って……ああ、やっぱり抱き付いてきた。

「1時間半で終わらせるよ」

 昼より30分長いのか。お願いだから「アクセルが踏めなくて、時間内にウィーンへ行けなかった」なんてことにならないで欲しい。

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