#15:第7日 (9) 今の正直な気持ち
【By 盗賊】
「そんなに何度もため息つかないでよ。こっちまで気が滅入るわ。せっかくブダペストの仕事が全てうまく行って、もうあと一息で大成功っていうときに」
ディアナがこの日何度目か判らないため息をついたら、ステアリングを握るドリナが言った。文句を言われても仕方ない、とディアナは思った。しかし彼女自身、仕事を終えた後、こんな気持ちになるとは思ってもみなかったので、どうしていいか判らないのだった。「大きな仕事を終えて、ほっとしてるのよ」
「それなら笑顔で助手席に座っていてくれればいいのよ。それとも、あんただけブダペストに残してくればよかったかしら?」
「そんなことは思ってないわ。何の未練もないもの」
「嘘ね。全く、どうしてラインハルトみたいな男に言い寄られて、惹かれちゃってんのよ。信じられないわ」
「惹かれてない!」
「本当、嘘が下手ね。それにあいつ、ドイツ人よ。ダリウスが彫刻を手放すきっかけになった国の男なのよ。しかもあたしたちの仕事の邪魔しようとして」
「それも解ってる!」
「ホテルに電話しても、もういなかったんでしょう? あんたのことなんて、何とも思ってなかったのよ」
「解ってる! 解ってる! 解ってる!」
「ドリナ、あまりディアナを責めないであげてね。ディアナの態度が結局、彼を油断させることになったって考えてあげて」
後席のダフネが取りなした。彼女たちはブダペストを離れ、車でポーランドのクラクフへ向かっているところだった。二つの国の間にはスロヴァキアがある。全行程約400キロメートル。6時間の旅を予定していた。
「ため息さえやめてくれれば、そう思うことにするわ」
ドリナがふてくされる横で、ディアナは深呼吸のふりをしてもう一度だけため息をついた。できればこれを最後にしたい。本当に、どうしてクリストフのことを好きになってしまったのだろう。
普通に観察していれば、どんな女にも甘い言葉を囁く、最もいやなタイプの男だと解ったはずなのに。こちらのことを、密かに調べてから接近してきたのは間違いないはずなのに。運命的なシナリオのように感じてしまったのは、なぜなのだろう?
「クラクフに着いたら、どうやって彫刻のことを調べるの?」
気持ちを切り替えるために、ダフネに訊いてみた。
「それ、さっきも言ったわよ」
「……確認のために訊いてるのよ」
「最初のうちはブダペスト同じ。どこかのカフェかレストランで働きながら、情報を集める。できれば警察や美術館や美術関係者と親しくなる。あなたは主に女性を……」
「だから男に弱くなるんだわ」
ドリナが余計な横槍を入れた。
「今度はうまくやるわよ!」
「それ、さっきも言ったわよ」
すっかり忘れている。ディアナはまたため息をつきかけて、慌てて窓を開け、外に向かって大きく息を吐いて凌いだ。
【By 刑事(男)】
ピスティが何度電話を架けても、ビアンカ・ミノーラは出なかった。こんなはずはない、とピスティは思った。電話番号を教えてくれたのは、また電話してもいいという意味ではないのか。
別に、下心があってのことではない。真実が知りたいだけだ。美術館に賊が入る前夜の、夕食のこと。あの席で、いったい何があったのか?
二人で会うことを、誰にも知られないようにしてレストランに赴き、楽しく食事を始めたはずだった。しかし、途中から記憶がない。気が付いたら、ホテルの一室にいた。もちろん、一人で。朝7時。傍らにメッセージが残されていた。
「あなたが泥棒に襲われるのが怖くて、止めようと思ったのです」
なぜそんなことを、ビアンカが思ったのだろう。その時も電話したが、彼女は出なかった。慌てて警察本部へ電話したら、絵の盗難を阻止したことを褒められた。パタキ主任やポーラに訊いても、その夜、ピスティは美術館で警備をしていたことになっていた。訳が解らない。
その後、画家の家でちょっとした盗難事件が起こったために現場へ駆けつけたが、頭が全く働かず、午後には帰宅していいと言われた。その時からビアンカに電話を架け続けている。しかし彼女は出ようとしないのだ。
彼女は今日でブダペストを去ると聞いている。そうなったら二度と会えないのではないか。もちろん、有名人と知り合いになれたのは嬉しいことで、それ以上を望むのは贅沢というものだ。
例えばカフェのウェイトレスと仲良くするくらいが似合いだろう。そういえば、ダフネやドリナはどうしているだろうか。二人とは、しばらく話をしていない。店を休んでいたような気がする。明日になれば来るだろうか。
美術館に泥棒から予告状が来たことや、結局絵が盗まれなかったことは、彼女たちも知っているだろう。ピスティ自身は警備で活躍したという記憶はないけれど、形の上では絵を守り切ったということになっている。彼女たちを相手なら、自慢をしてもいいのではないか。特にドリナは、美術館のことに興味を持っていたから、喜んでくれるだろう。
ただ、何を話すかはしっかり考えておかないといけない。どんな警備をしたか。パタキ主任に、いや、彼に聞くのは癪なので、ポーラに聞いておいた方がいいだろう。ポーラもなぜか不機嫌で――それはたぶんピスティが本当は警備に参加しなかったからだろうが――、電話をしても、ろくに話をしてくれなかったけれど。
【By 画家】
『
満足感は、もちろん出来映えのこと。一筆一筆、隅々にまで神経が行き届き、あらゆる点で文句なく仕上がっている。おそらく、フュレプの生涯最高の作品となるだろう。
喪失感は、絵が完成してしまったこと。この作品に全てを捧げ、情熱が燃えつきてしまったという思い。生涯最高、と感じたとおり、今後これ以上の作品を生み出すことはできないだろう。それではプロになることはできない。
絵を描くことを愛するのではなく、絵の対象を愛してしまったせいだろうか。しかし、人として、女性として愛したのではない。あくまでも題材として愛したのだ。
ゴッホの向日葵のように、モネの睡蓮のように、あるいはセザンヌのサント・ヴィクトワール山のように、一つの題材について多くの作品を生み出す例はある。レンブラントは妻であるサスキア・ファン・オイレンブルフをモデルに多数のデッサンや絵を描いた。フュレプ自身は、マルーシャをモデルに、絵を描き続けることができるだろうか。
無理だ、とフュレプは感じていた。眼前にあるこの一枚。マルーシャの比類なき美しさを余すところなく表現し、笑顔の中にほんの微かな寂しさを忍ばせた。それはコヴァルスキの『
もし可能性があるとすれば、マルーシャの別の面を知ることだろう。優れた画家は、描き続けることによって、対象の隠れた面を暴き出す。それが見る者に新たな感動や驚きを与える。しかし、フュレプが別のマルーシャを知る機会はもはや失われた。
フュレプはそれでも構わないと思っていた。マルーシャの、あの
彼女はそれを、彼女が選んだ者のみに見せるに違いない。だが、フュレプが選ばれることはないはずだ。彼女の負の面を知って、それを受け容れることができる者が選ばれる。フュレプは彼女の美の信奉者であり、美を乱す要素を許せない。
明日からはしばらく、この絵の模写を描いて過ごすことにしよう、とフュレプは思った。もしかしたら、何枚描いても飽きることがないかもしれない……
【By 刑事(女)】
クリストフ、ああ、クリストフ! 早く連絡をくれないかしら……
アクインクムのレリーフ盗難事件の捜査の途中、気分が悪くなったと言い訳して、ポーラは自宅に帰ってきた。クリストフが、連絡してくれることになっている。
前夜の美術館の警備では、クリストフの考えた対策を採用して――それはポーラだけにこっそり指示されたものだったが――美術館を抜け出し、
何ということだろう。ポーラはいつの間にか、眠ってしまったのだった。洞窟の中のことなので、夜が明けたことにも気付かなかったが、クリストフが起こしに来てくれた。
「“
その言葉を聞いたとき、どれほど嬉しかったか。ただ、一緒に警察本部へ報告に行ったパタキ主任の表情が、なぜか冴えないのは気になった。それにピスティが来なかったのも。
その間に、クリストフは姿を消してしまった。メッセージだけが残されていた。
「館長が何か隠し事をしているらしい。確かめてくる。後で連絡する」
ポーラはその連絡を待った。それがないままに、アクインクムの事件に呼び出された。しかし、クリストフのことが気になって、仕事にならなかった。だから嘘をついて家に帰ったのだった。
クリストフはいつ連絡をくれるのだろう。館長の隠し事とは何だろう。まさか、館長が裏切って泥棒を美術館に引き入れようとしていたのか。我々警察に対して非協力的だったのは、そのせいではないか。クリストフは館長に信頼されて特別に美術館の警備に加わったが、その時に何か気付いたのかもしれない。
彼は正義感がとても強く、犯罪計画に関する知識も豊富だ。警察に協力すべき人間なのだ。だから私に協力してくれた。
もしかしたら、他の特別な感情も持ってくれていたのではないか? 私だけに特別な指示をくれることは、その証ではないだろうか。後で連絡をくれるときに、それを打ち明けられたら、どう返事すればいいだろう……
そんなに浮かれていてはいけない、と思い直す。今回は賊から絵を守れたが、再び狙ってくるかもしれないのだ。私たちはまだ警備を続けなければいけない。その時にもクリストフがいてくれたら心強いのだけれど。
クリストフ、ああ、クリストフ! 早く連絡をくれないかしら……
【By 研究者】
初めての朝帰りの後、シャワーを浴び、食事をしてから、ユーノはまたアカデミーに出勤した。土曜日なので、もちろん基本的には休み。しかし、数少ないながらも出勤している人はいる。ただ、毎週のように出勤しているのはユーノだけだろう。
静かな研究室で論文を読むが、なぜか頭に入ってこない。気が付くと目の焦点が合っていないし、同じところを何度も読んでいる。なぜこんなに集中できないのだろう?
なぜ、なんて考える必要もない。理由は判りきっている。ユーノは軽くため息をついた。私はどうやら、研究と同じくらい楽しいことを、もう一つ見つけてしまったようだ。
どちらが楽しいだろう? 今日のところは研究よりも、もう一つのことの方が楽しそうと感じている。気になって論文が読めないのは、そのためだろう。ただ、明日になればどう感じるかは、判らない。
だいたいにおいて、自分は興味の対象が広すぎる、とユーノは思っていた。それは彼にも指摘されたとおり。専門の惑星物理学だけでなく、地球科学の全般に興味がある。
いっそ、もっと広げてみよう。数理心理学はどうだろうか。地球科学部門ではない。たぶん数理科学部門だろう。ヤンカの分野。彼女に基礎を教えて欲しいと言ったら、驚くだろうか。「心理学は解らない」と言われてしまうかもしれない。
ヤンカはなぜ彼に興味を持たなかったのだろう。美術館の警備システムの開発で、彼の論文を参考にしたくらいなのに。私はなぜ彼に興味を持ったのだろう。研究内容に何の重なりもないのに。
どうして私は、正直に考えないのだろう! 私は彼の研究に興味を持ったのではない。彼に興味を持ったのだ。彼の態度、彼の話し方、彼の思考形態、そして彼の私に対する気の使い方。内容よりも、彼と話すこと、彼と会うことを楽しんでいた。このような気持ちを、もっと簡単に、何と言うか?
彼のホテルの部屋に泊まり、彼と“話”以外のことをして――実は全くの勘違いだったが――その評価を聞いてしまったのは、どういう心情からか?
それは、心理学の専門家である彼に会って、質問したい。「俺の専門は普通の心理学じゃない、数理心理学だ」と彼は言うかもしれない。でも、彼は答えを知っているに違いない。
いつ訊きに行けるだろう? 年内は無理でも、来年には行きたい。こんな些細な――本当に些細だろうか?――質問だけではなく、他の話もたくさん用意していこう。
もっと私の話を聞いて欲しい。彼の話も聞きたい。1週間でも、2週間でも、もっと長く、ずっと一緒にいても尽きないほどに。
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