#15:第7日 (11) 第三の人格
何が起こったのか、よく判らない。いつの間にか、眠っていたようだ。どこからか明るい光が。地平から射す光だが、赤くないし、空は暗いから、夜が明けたわけではない。白い、強い光。車のヘッド・ライトか?
その灯りをバックに、女の影が俺に覆い被さっている。ジゼル。違う。髪が長い。顎の辺りまである。ジゼルは
これらから導かれる結論。俺はマルーシャに襲われている。なぜだ。
「
やはりマルーシャの声。しかし、リカヴァーって、ファンブルを? 何に
マルーシャが離れる。ゆっくりと身を起こす。木のベンチの上。そうだ、ジゼルに誘われて、暗闇の中の
「早く退出した方がいいわ」
退出しようとしてたんだよ。1時間半後に。いや、今、何時なんだ。時計を見る。10時。30分しか経っていない。まだ時間は十分ある……
「ジゼルはどこだ」
「そこに」
逆光の中、マルーシャが下を指差す。確か、床はコンクリートの簡易舗装だったはず。そこにジゼルの細い身体が転がっている。寝ているわけじゃない、気を失っているのか。
「何があった」
状況から考えると、俺とジゼルが親密になろうとしているところへ、マルーシャが来て邪魔をした、ということのようなのだが、二人とも気絶させるのはやり過ぎだよな。いくらマルーシャでも……それに彼女は俺に暴力を振るわないと約束してくれている。
「ジジがあなたを失格にしようとしたの」
つまりジゼルは、俺をここに引き留めて、退出させないようにしようとした? なぜそんなことを。
「それを君が阻止した……?」
マルーシャは返事もしなければ、頷きもしなかった。しかし、否定しないのは肯定の意味。
「なぜ彼女はそんなことを」
「ジジが、あなたのことを好きになりすぎたから。それを別の人格が妬んで、あなたを排除しようとした」
「別の人格?」
「彼女の中には少なくとも3人の人格がいる。男性的で冷静なジゼル。女性的で人懐こいジジ。そして第三の人格。それがどういう性格か、私も見定めていないけれど、おそらくはこの世界に
「なぜ君がここに?」
「ターゲットを奪われたから、取り返しに来たの」
俺は知らんぞ、そんなこと。
「どういうことなのか、今一つ解らないな」
「説明するけれど、彼女をこのままにしておくと可哀想だから、車へ運ぶわ。手伝って」
立ち上がって、ジゼルの身体を抱き起こす。マルーシャも彼女を支えようとしていたが、どうやら俺一人で運べそうなので、手伝わなくていいと言った。歩くと後頭部がズキズキする。殴られて気絶したんだろうが、全く記憶がない。
乗ってきた車に、ジゼルを運び入れる。もう一台車が停まっていて、煌々とライトを点けている。もちろん、マルーシャのだろう。もしかして俺たちの跡を
「ターゲットが何かは、あなたにも判っていると思うけれど」
「おそらく、風の塔のレリーフだろう。その
「ええ、そう。ただ、本物のような石ではなく、木製のレプリカ」
そりゃそうか。石じゃあ重くて運べないし、再現するのも大変だもんな。
「今朝、君がアクインクムの博物館から盗んだんじゃないかと思ってる」
「ええ、正確には運び込む直前」
それは、まあいいとして。
「それを車で運んでいたんだろう? この車か」
目の前にある、ライトを点けている車。それが逆光を作り出しているので、フォルムは見えない。
「そう。ヘーヴィーズ湖へ寄り道したのは、あなたも知っているはず」
「ジゼルが君に気付いたんだよ」
「湖の中で気付いたように、あなたには思わせたようだけれど、本当は駐車場にあった車で気付いたはず」
「どうして気付いたのかな。何か目印でも付けていたのかね」
発信器を付けていたとしても、マルーシャなら気付いて取り外すだろう。じゃあ、目には見えないけど特殊な光を当てると感応するインクで、サインでも書いたか。
「それは私も判らないけれど、湖から車に戻ったら、ターゲットがなくなっていたわ。後部トランクを開けられた形跡があるのに、気付いたの」
「しかし、湖で俺は彼女とずっと一緒にいたんだがなあ」
「更衣室まで一緒だったわけじゃないでしょう?」
確かに、その時は目を離した。そういえば水着に着替えたとき、車へ下着を取りに行ったと言っていたな。その時にマルーシャの車からターゲットを盗んだ? 何という早業。
「その後に取り返す機会があったんじゃないのか。俺たちがレストランにいたときとか」
「あなたたちの車がどれか判らなかったから」
そうか。いくらマルーシャでも、駐車場の全部の車を調べるわけにはいかないものな。
「じゃあ、レストランが同じだったのは偶然か」
「ええ、諦めていたけれど、運が良かった」
「君でも諦めることがあるんだ。しかし、レストランで見つけて、ここまで追ってきたのか」
「ええ」
「ゲートのところで車を停めるはずだから、そこで取り返せると思った」
「ええ」
「俺たちが
「ええ」
「そのまま退出してしまわなかったのはなぜ?」
「ジジの声が聞こえて、様子がおかしいと思って見に来たら、あなたが倒れていた。何をしているのかジジに訊いたら、あなたと一緒にこのステージに残ると言ったわ。私が邪魔をすると思ったらしくて、襲ってきたから、気絶させたの」
「また君に借りができたな」
「前から何度も言っているけれど、まだ私の方が借りが多いから、いいの」
何を借りだと思っているのか、今一つ判然としないのだが、今はその気持ちに甘えておくか。
「じゃあ、貸しを全てなくすために、一つ頼みたいことがあるんだ」
「何?」
「ジゼルをウィーンの空港まで送ってやりたい。俺は車を運転できないから、君に運転してほしい」
「どうしてあなたは、あなたを傷付ける女に、そんなにも優しいのかしら」
それは君自身も含めて言っているな。
「誰でも一度くらい魔が差すことがあるよ。それだけで、嫌いになりたくないんだ」
マルーシャなぜか、自分の胸元を覗き込んだ。もしかして、そこに時計がある?
「ここへ戻って来ないといけないから、ぎりぎりね」
「もちろん、俺も付き合うよ」
「あなたが乗っていない方が軽くなるから、速く行けると思うわ」
「そんなに変わるかな?」
「5分くらいは」
「じゃあ、急ごう。どっちの車が速い?」
「たぶん、私の方が」
なるほど、よく見たらマルーシャの車はスポーツ・タイプだった。ジゼルの身体をその後席へ運び込む。そして俺は助手席に乗る。マルーシャはそれを拒むことなく、運転席に乗った。俺の申し出を了承してくれたものと理解する。
「君と一緒なら、失格になるのも悪くないと思うんだ」
「私は失格になりたくないわ」
どうやらご機嫌を害してしまったようだ。急加速でスタートする。もしかしたら国境に“壁”があって越えられないのでは、とも思ったが、そんなことはなかった。さすが、東西ヨーロッパの壁を崩壊させる元になった場所だけのことはある。
高速道路でもないのに、時速80マイルで突っ走る。ヘッド・ライトに映し出される風景は、田園の中の一本道。対向車どころか、民家の灯りすら見えない。
「ところで、道は知っているのか」
「知らないわ。あなたがナヴィゲイションして」
ナヴィゲイション・ディスプレイの地図にはルートが引かれていない。かなり離れたところに高速道路があるが、それを使う方が早いのか、それともこのまま一般で行くのがいいか。
「次の
「了解。彼女が起きるわ」
運転に集中しているはずなのにどうしてそんなことが判るんだ。振り返って後席を見る。高速走行の揺れで、ジゼルが意識を取り戻したようだ。眠り姫のように安らかだった表情が少し歪んで、うっすらと目を開いた。さて、今はどの人格なのか。
「……アーティー? 誰が運転してるの?」
「マルーシャだ。君を空港へ送って行くところだよ」
「どうしてそんなことを?」
ジゼルは驚きで目を見開き、身を起こしかけたが、みるみるうちに目に涙が溢れてきた。
「
「君はジゼル?」
「そう。ジジが君を愛してしまったのを、僕は好ましく見守ってたんだ。けれど、いつの間にかエルが起きてしまって。エルは、ジジを君に取られるのが嫌だったんだ」
第三の人格の名前はエルというらしい。起きたのはたぶん、ゲートに着いた辺りだな。何がきっかけになったのかは解らないが、おそらくはジジの俺に対する愛情が高まりすぎた反動か。マルーシャからターゲットを奪ったのは、最後の最後に俺にプレゼントしてくれるつもりだったのだろう。
「俺も悪かったよ。ジジを少し甘やかしすぎた。空港に着くまで、おとなしくしていてくれるな?」
「うん、もう大丈夫だよ。ジジもエルも眠っている」
ジゼルはまたシートに横になってしまった。俺は前に向き直ったが、後ろの気配には気を付けておくことにする。
町の灯りは3マイルか4マイルおきにしか現れない。道案内の頻度も同じくらい。変化といえば、低い山越えのつづら折りを駆け抜けたくらい。その後はまた延々と田園を走り、ようやく明るい光が見えたと思ったら、それが空港だった。
国際線のターミナルの前で、ジゼルを降ろした。ここまで45分かかった。今、11時15分。ぎりぎりだ。窓越しに、ジゼルと別れのキスをした。マルーシャはしなかった。
「
男らしい仕草の投げキスで、ジゼルは俺たちを見送った。
「間に合いそうかな」
再びアクセルを踏み込んだマルーシャに問いかける。
「事故さえ起こさなければ」
「それならきっと大丈夫だ。間に合ったら、今度こそ貸し借りなしで」
「一つだけ、ささやかなお願いを聞いてくれるかしら」
「何でもどうぞ」
「腕を組んでゲートを出て」
意外な要求に、思わずマルーシャの横顔を見てしまった。ジゼルと仲良くしているのを見て、嫉妬した? まさか。だって、いつもどおりの平静な表情だし。
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