ステージ#15:第7日

#15:第7日 (1) 深夜の飛来物

  第7日-2039年8月20日(土)


 日付がようやく変わったが、部屋にいてラップトップの画面を眺めるだけというのは、本当に退屈だ。この状態をあと3時間続けなければいけないかと思うと、そのうちの1時間半くらいは寝ていたくなる。しかしそれでは呼ばれた意味がないので、コーヒーを飲んで眠気を我慢するしかない。

 館長は、デスクに置いたコンピューターを見ながら、ずっと作業をしている。打ち合わせの場では強硬な意見を吐く嫌味な中年女性だったが、実際のところは恐らく有能なのだろうと思う。

 美術館の館長というのはなかなか仕事が多いと聞いている。ここは国立ではあるが、もちろん一つの企業として運営していかなければならないわけで、トップに経営理念が必要だろう。要するに、「いかにして美術館に客を呼ぶか」という方針を決定するのが館長の仕事だ。

 まず収集品の選定があるだろう。良い物を集めて展示しなければ、客は来ない。できれば目玉が必要だ。国立とて、国内のものばかり集めてはいられないはず。ハンガリーと少しでも関係がある芸術家の、優れた作品を探さなければならない。

 次に、イヴェントの企画。収集品を使ってもできるが、他の美術館から有名作品を借りてくると、大きな話題になりやすい。借りるためにはファシリティー・レポートの作成が必須。美術館の設備の説明書だ。もちろん、作成するのは学芸員だが、設備の購入や更新を判断するのは館長の役目。どんなイヴェントを、いつ実施するかを考えながら、設備準備の計画を立てなければならない。

 そしてもちろん予算の策定と申請。しかるべき官庁への運営報告と併せてやるものだろう。相手は国だから、個人スポンサー相手の私設美術館より楽には違いないが、放漫財政は許されない。人件費から事務費まで、細かくチェックする必要がある。

 とまあ、想像ではこんな感じかな。俺も詳しいことは解ってないが、フットボール・チームで言えばGMジェネラル・マネージャーに当たるだろう。手腕を評価してもらえないと、すぐに解雇され……と、そこまでは厳しくはないか。

 しかし、『西風ゼピュロス』を盗まれたら間違いなく首が飛ぶんじゃないかなあ。仮想世界のことなんで、気にする必要はないんだけど。

 ところで、警備の方は。この部屋に、特に定期報告が来るわけではない。何かあったときだけ、警備室から連絡があるものと思われる。主任刑事は、11時半にこの部屋に来て、11時45分に出ていった。察するに、ここと、4階展示室と、2階保管庫を、15分ずつ巡回しているのだろう。だから、0時15分になったら来るはず。

 彼の行動ばかり気にしてはいられなくて、ちゃんとラップトップの画面を見る。ポーラも約15分ごとに移動しているようだ。そのときに、パラメーターの値が微妙に変わる。グラフと色で可視化されていて、差分まで解るので、これが大きく動くようなら注意しないといけないわけだ。しかし今のところ問題はなさそう。

 そして予想どおり、0時15分にドアにノック。館長が立って、ドアを開けに行く。主任刑事が入ってきた。しかし彼から何か報告があるわけでもない。壁の『西風ゼピュロス』をしばらく眺めて――両手を腰に当てて、ちょっと気取ったポーズで立っていた――、窓の外を見て、それからソファーに腰掛ける。

 偶然かどうか、彼が座ってる間、ポーラは動かない。だから俺はラップトップを見ている必要がなくて、立って窓際へ行く。男どうしが無言で向かい合って座っているのは、館長と二人きりでいるよりも気詰まりだ。しかし、なぜか彼の視線を背中に感じた。実は怪しまれているのかもしれない。

 コーヒーの香りが漂ってきた。チョコレート・バーの包み紙を開ける音もする。ここは彼にとって休憩の場なのかも。そういえば、館長もコンピューターと格闘しながら、チョコレート・バーを何本も食べていたように思う。いや、十何本もかな。2分に1本くらいのペースだったか。あの体型は、この食習慣から作られたものと納得してしまった。

 0時半になったら、主任刑事は無言で出て行った。ソファーに座り、再び館長と二人きりになる。館長がコンピューターのキーボードを叩く音と、チョコレート・バーをボリボリと噛む音だけが部屋に響く。しかし飲み物もなしに、よくあれだけチョコレート・バーばかり食べられるものだと感心する。

 30分後、また同じことが繰り返された。ノックがあって、主任刑事が入ってきて、彼が部屋の中をちょっと見回して、コーヒーを飲んで、チョコレート・バーを食べて。俺が立ったら、背中に視線を感じて。

 45分でこのサイクルが回るとしたら、主任刑事は次に1時15分に出て行って、1時45分に戻ってくる。そして2時を迎えるわけだ。そのとき彼は、他へ移動するだろうか? しばらくはこの部屋に滞在するかもしれない。あるいはその前に警備室へ行くか。

 それを質問しようとして振り返ったら、主任刑事が視線を逸らしたのが見えた。やっぱり見られてたのか。疑われてるのかなあ。ソファーへ戻って、2時になったらどうするかを訊く。どうしてそんな柔和な顔をしてるんだ?

「何か動きがあるまで、この部屋に留まるつもりだ。ただし何ごともないまま2時半になったら、出て行くがね。その後、3時にここへ戻って来て、そのときが我々の警備の終了だ」

 どうしてそんなに顔を寄せて、小さな声で囁く。別に、館長に聞かれても構わないだろうに。

「チョコレート・バーを食べるかね?」

 それは普通の声で言うんだな。

「いや、腹が減ってないから、いいよ」

 ちらりと、館長の方を見る。チョコレート・バーの包装紙は、小さく結んでデスクの上に置いてある。どうしてゴミ箱に捨てないんだろう。食べた数を数えてるのかな。

 予定どおり、1時15分に主任刑事は出て行った。館長はコンピューターで仕事を続け、チョコレート・バーを食べ続ける。食べる量はマルーシャ並みだな。なのにマルーシャは、どうして館長のように太らないんだ。絶対おかしい。それとも仮想世界だから太らないのか。ビッティーに訊けばよかった。そうだ、今日はビッティーと通信できないんだよ。何と残念なこと。

 そして、1時45分。主任刑事が入ってきた。ちらりと見ると、絵の前でずっと立っている。まさか、2時になったら目の前から突然消えると思っているわけではあるまい。ポーラが動くが、パラメーターは特に大きな変化なし。2時までは、この値のままだろう。主任刑事がソファーへ座りに来たので、俺は立って窓の方へ行く。

 1時55分。キーボードの音が止まった。館長も待ちの態勢に入ったらしい。ついでに、チョコレート・バーを食べる音も止んだ。えーと、全部で何本食べたんだろう。50本以上は食べた? いったいどんな胃袋してるんだよ。

 1時58分。外の様子に目を凝らす。夜景は、遠くの方はだいぶ灯が消えていて、手前のドナウ川周辺だけが明るい。一晩中ライト・アップをしているのか。まさか2時になったら消えるとか? 誰かに訊いておけばよかった。

 そして2時。目の前の景色に変化はなし。電話が架かってくる様子もなし。窓の外と、腕時計の針を交互に眺める。秒針が間もなく1回転する、というときに、外に変化が……

 黒い影のようなものが、宙に浮いている。飛行機? グライダー? パラシュート? 気球? いや、もっと小さいな。無人飛行機だろ、あれは。

 えーと、主任刑事に言えばいい? それとも館長? しかし、目を逸らすための囮だとしたら。電子ベルが鳴った。館長のデスクの上の電話だ。館長が受話器を取って、何か話す。

「外に何か浮いていますか?」

 俺の方を向いて言った。

「うん、しかしあれは、小型無人飛行機だ。遠隔操縦リモート・コントロールの……」

「もちろん、人は乗れそうにないな」

 いつの間にやら主任刑事が俺の横に来て、窓に顔をくっつけるようにして外を見ている。絵の方は見てなくていいのか。

「何かぶら下がっているのでは?」

 主任刑事の言うとおり、無人機の下に四角い物が吊り下げられている。ちょうど絵と同じくらいの大きさだろう。まさか絵が盗まれて、あそこに……振り返って壁を見たが、絵はちゃんとそこにある。

「何か書いてあるな」

 あんた、目がいいな。無人機が飛んでる辺りは、真っ暗なのにさ。夜景の中で、そこだけが黒くなってるから、何かあると判るだけなんだぜ。

 その無人機が急速に近付いてきた。窓にぶつける気か、と思ったが、スピードを落として5ヤードほど向こうで停まった。ホヴァリングしている。窓から漏れる光で、ぶら下がっている四角い物に文字が書かれているのが判った。しかし、ハンガリー語だ、あれは。読めねえよ。

西風ゼピュロスは確かに頂戴した。そこにあるのは偽物だ。確認してみよ。まさか!?」

 主任刑事が振り返り、絵の方へすっ飛んでいく。俺もそちらへ行く。主任刑事は絵を見つめたまま、立ち尽くしていた。

「館長、これは本物かね、それとも模写かね!?」

「もちろん、本物です。模写のはずがありません」

 館長もデスクから立って、絵の前に来た。悠々とした態度で、すり替えられたなんて信じられないという感じだ。

「どうやって確認するのです? 模写に付けたという目印は、確かにないのですね?」

「ありません」

「しかし、まさかとは思うが」

 主任刑事がパンツのポケットから何か取り出した。ペン・ライト。それを絵の方へ向ける。しかし、光は見えない。いや、もしかしてブラック・ライトか。紫外線に反応するインクで何か書いてあれば、それが浮かび上がる……

「館長、これは!?」

 主任刑事が、絵の右下隅を指差す。ライトが揺れながら当たっているせいか、明度がちらちらと変わって判りにくいのだが、確かに青紫色の文字が浮かび上がっているようだ。"L.F"かな。

紫外線感知フォトクロームインクは削ったとおっしゃいましたな? しかし、これは何です? あの画家が模写に書いたという署名ではないですかな!?」

「そんな! そんなことが!」

 館長が絵に駆け寄る。太った身体に隠されて、ブラック・ライトが当たらなくなり、文字も消えてしまった。主任刑事が携帯電話モバイルフォンを取り出してダイアルする。何か言って、切って、また架けて同じことを言った。ジガ刑事とポーラに指示を出したのだろう。

 すぐに電話が架かってきて、主任刑事「解ったエルテッテム」と言って電話を切ったら、また架かってきて。

 同じ返事をした後で、主任刑事は電話を切り、まだ絵の前に張り付いている館長に向かって言った。

「他の2枚の絵にも、画家の署名があったらしいですぞ。ということは、これらは全て模写だ。しかも、もしあなた方が間違いなく紫外線感知フォトクロームインクは削ったとおっしゃるのなら、それとは違う模写だということです。どういうことなのか、私には理解できませんな!」

 館長は振り返り、肉付きのいい顔を引きつらせながら答えた。

「私にも理解できません」

「しかし、少なくとも11時から今までの間に、絵をすり替えるチャンスは、誰にもなかった。この部屋には、常に二人以上の人物がいた。2階の保管庫も同じ。4階は私の部下と、警備システムで監視していました。ならば、11時より以前にすり替えられたということです」

「賊によってですか?」

「そんなこと、私は知りませんよ。賊か、あなたか、それとも美術館の他の職員か、警備員か。そのうちのいずれかです」

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