#15:第7日 (2) いつ盗まれた?

 主任刑事はそれ以上何も言わなかった。館長はまだ信じられないという顔をしている。思い付いて、窓のところへ戻ってみた。無人機の姿はもうなかった。それを主任刑事に言ってみる。

「館長、内線電話を借りますぞ。警備室の番号は……」

 デスクに歩み寄り、主任刑事は電話を架けた。監視システムの状況と、建物周囲の警備状況――外で警備員が無人機を監視していたようだ――を訊いている。「消えた」とか「川に」とかいう言葉が聞こえてくる。察するに、無人機は俺たちが絵を見ている間に、建物を離れてドナウ川へ飛んでいき、そこで墜落したのだろう。わざと落としたか。

 電話を切った主任刑事は、状況をまとめて言った。警備システムで、4階展示室の異常は検出されず。2階保管庫に怪しい者が近付いた形跡はなし。11時から今までの間、美術館に近付いた人物はなし。美術館から出て行った人物もなし。

博士ドクトル、あなたも警備システムの状況を確認してください。異常は検出されていませんな?」

「ないね」

 無人機は2時前に上空から下りてきたようだ。どこから飛んできたかは不明。2時に建物に最接近し、2時5分には離れて、ドナウ川に着水したと思われる。まだ誰も行方を追っていない。しかし、川底をさらうのは意味がないだろう。

「さて、館長に改めてお尋ねします。ここに架けてあったのが本物で、展示室と、保管庫の物は模写だったのですな?」

「そうです」

「間違いありませんか」

「絶対に間違いありません」

「あなたの他にそれを証言できる人は」

「副館長が……」

「なぜ彼は来ないのですかなあ。しかし、信用することにしましょう。他の2枚は、この際どうでもよろしい。そこに架かっている『西風ゼピュロス』が、いつの間にかすり替えられた。最後に本物であると確認したのは?」

「私が食事から戻ったとき……9時です。そのときに、金庫から出したのです」

「昨夜の打ち合わせの時には壁に架かっていましたが、その後でまた金庫にしまわれたのですか」

「そうです」

「金庫から出したものが本物であると確認するための手段は?」

 館長は、すぐには答えなかった。まだ顔が引きつり、顎の肉が震えている。

「ありません。目印がないのが本物です。それに、私は本物を憶えています。ここにあるのが間違いなく本物です。見れば判ります。これは模写ではありません。本物なんですよ!」

「しかし、現に紫外線感知フォトクロームインクで署名が書かれている。だが、それはいったん置いておきましょう。模写に付けられた目印は?」

「額縁の左上に、紫外線感知フォトクロームインクで“H”と……」

 偽物フォーゲリーであることを示す"hamisítványハイシトヴァニ"の“H”であるらしい。

「ふむ、それだと確認が容易ですな。さっそく確認させましょう」

 さっき、ブラック・ライトで絵の右隅を確認したようだから、今度は額縁の左上にライトを当ててみればいいわけだ。主任刑事は電話を架けたが、二つ目の途中で、館長に向かって言った。

「4階の警備システムを一時的に切ってもらえますかな。紫外線ライトを当ててもよく判らないので、近くで確認したいと部下が言っております」

「構いません。切ってください」

「しかし、あなたが警備室に電話をして指示しないと、切ってもらえんようです」

 館長は太った身体を揺すりながらデスクに戻ると、内線電話で警備室に、システムを5分間切るように指示した。2分ほどで、主任警部に電話が架かってきた。

「目印があったそうです。つまり、そちらは額縁はそのままで、絵だけがすり替えられたということですかな」

「そんなことが……」

「念のために、ここのも額縁を確認しておきましょうか。ふん、目印はなさそうですな」

 主任警部は素早くライトを当てながら言った。そして絵の前に立って腕を組みながら呟いた。

「どうもよく解らん。金庫の中にあったのが、模写なのか。最初に金庫に入れたのはいつですかな?」

「昨日の、閉館後です。本物と、模写2枚を、この館長室に運び込ませました。模写の紫外線感知フォトクロームインクは、その前から削っていました。本物を金庫に入れて、模写を展示室と保管庫に戻させました」

「あなたが金庫に入れて、副館長がそれを見ていたのですな。他には誰も見ていなかった?」

「そうです。学芸員や警備員には、どれが本物かを言いませんでした」

「金庫に入れる前に、目印を確認しましたか」

「しました」

「額縁の、ですな。絵の右下隅は?」

「確認しませんよ。どれにもあるはずがないですから」

「ないことを確認しておくべきでしたな。しかし、今さら言っても無駄です。そしてあなたはこの絵が、金庫に入れたものと同一であると確信しておられるのですな」

「そうです」

「他に誰がそれを確認できますか。画家ですか」

「……おそらくそうでしょう」

「しかし、こんな時間から呼び出すわけにもいかん。夜が明けてからにするとして、もしこれが本物だとすると、誰かが我々の気付かない間に、紫外線感知フォトクロームインクで署名を書いたということになりますな」

「そうでしょう」

「誰に機会がありましたか。館長、あなたにはありましたな」

「私が署名を書いて何になるというのです? 本物と信じているのに」

「ふむ、模写と信じさせようという意図なら、失敗しているわけです。しかし、そういう意図を持っていたのは間違いないでしょう。他に誰に機会があったか。今日、この部屋に来客は?」

「ありません。それに、絵はずっと金庫に入れていました」

 おや、主任刑事は画家を呼んで、館長室にあるのが本物だと判ったと言っていたが……展示室と保管庫のを見せて、どちらも模写だと言ったから、消去法で判ったのか? しかし、それだと金庫の中のが本物であるとは言い切れないな。

 それとも、画家が来たのは主任刑事も知っているから、言わなかっただけか。

「絵を出した9時から、我々が来る11時まで、あなたは部屋を出ましたか」

「一度も出ませんでした」

「9時以降で私がこの部屋に入ったのは、彼と一緒に来たときだ。11時。そうですな?」

「ええ」

 館長の返事を聞いてから、主任刑事は俺を見た。俺も証人だってこと? いや、俺の方があんたらに証人になって欲しいくらいなんだけど。

「その後は、あなたとドクトル・ナイトがずっとこの部屋にいた。いや、ほんの短い時間だけ、私と彼が部屋を出ていましたな。しかし、それは大した問題ではない。私はこの部屋に何度か入った。4度だったかな。絵の前に立ったこともあるが、署名ができるほどには近付かなかった。そうですな」

「そう思いますが、私はコンピューターに集中していたこともあったので、はっきりとは憶えていません」

「ドクトル・ナイト、君はどうだね」

「俺はあんたが絵の前に立ってる間は、ラップトップの前に座ってた。あんたは絵に近付かなかったと思うけど、はっきりとは断言できないな。そしてあんたが座りに来たら、窓の方へ行ってた。一度だけ、あんたと話をしたことがあった」

「ソファーでね。しかし要するに、私が絵に近付かなかったという証明はできんのだね?」

「できない」

「よろしい。つまり、私には機会があったわけだ。しかし、私が署名を偽造して何になるか。警察はこの絵を偽物、つまり証拠物件として押収することは可能だ。だが、絵は警察の所有物になるわけでもないし、私のものにもならない。それどころか、後で本物と判明したら警察が恥を掻くだけだ。つまり、私には署名を偽造する理由がない。さて、ドクトル・ナイト」

 主任刑事が目を細め、口元に妙な笑みを浮かべながら言った。うーむ、やはり俺も疑いをかけられるのか。

「君が署名を偽造する理由はさておき、機会があったはずだな?」

「俺は窓の近くと、ソファーの間しか動いてないよ」

「館長、そうですかな?」

「先ほど言ったとおり、私はコンピューターに集中していたこともあったので、はっきりと憶えていません」

「私がいる間に、君が絵に近づかなかったことは認めよう。しかし、館長と二人きりの間は、機会があったということだ」

「事実はさておき、機会があったのは認めるよ。しかし、理由は?」

「それは後でゆっくり議論できるよ。まずは、君の身体検査をさせてもらおう。あの筆跡は、少なくとも指で書いたのではない。絵筆が必要だ。君が絵筆を持っていないことが判れば、機会はあっても手段を持っていなかったということになる。どうかね?」

 それはそうだが、誰も署名を偽造することができないのが判明したら、謎が深まるだけだと思うけど。

「認めるよ。で、身体検査は誰がするんだ?」

「もちろん私で、証人は館長だ。まず、服を脱いでくれるかね。下着は脱がなくても構わんよ」

 なぜそんなことに。この部屋、カーテンがないんだぜ。外から丸見えだろ。同じ高さの建物が近くにないから、覗く奴は事実上いないはずだけどさ。拒否するのが面倒だから、脱ぐか。

 まずシャツ。次に、アンダー・シャツ。普通ならアンダー・シャツを着ずにポロシャツ1枚だが、ディナーへ行くために着替えてきたから。それから、スラックス。

 次々に脱いで、ソファーの上に置く。ついにトランクス1枚になった。さて、それで?

「下着の上から確認させてもらうよ」

 主任刑事が近寄ってきて、トランクスの上から触ってきた。おい、どうしてそんな念入りに。マッサージじゃあるまいし。違う、それは絵筆じゃない。太さで判るだろ。

 触り終わったら、服を広げて確認している。なぜ館長に渡そうとするんだ。受け取らなかったけど。館長は俺の半裸を見ても、表情一つ変えていない。まあ、水着になってるのと同程度だし。

「結構だ。服を着てくれ。おっと、確認しておくが、この部屋を出なかったかね?」

「あんたと一緒に、短い時間だけ外へ出て、戻ってきてからは出てないよ」

 それはさすがに館長も同意してくれた。

「外へ捨てる機会はなかったわけだ。さて、後は部屋の中を調べよう。といっても、君は館長のデスクには近付かなかったろうから、ソファーの周りだけだな」

 床のカーペットはベージュのフェルト地なので、筆が落ちていればすぐに判る。主任刑事はソファーの下や応接テーブルを調べたが、何も発見できなかったようだ。

「さて、これで唯一の部外者である君への疑いは完全に晴れた。後は警察と美術館で捜査する。混乱を避けるため、君は退出してもらいたい。こんな中途半端な時間で、申し訳ないことだがね」

「仕方ない。俺は捜査をするつもりはないし、これ以上手伝いもできなさそうだからな」

「出るまでは私が付き添うよ。館長、絵をいったん金庫に入れて、下の応接室で待っていてもらえるかね。警備員も何人か呼んで打ち合わせをしたい」

 主任刑事は俺と共に部屋を出て、無言で歩いていたが、A翼を通り抜けて、通用口が近付いてきたときに、また囁くように言った。妙な笑顔を浮かべている。

「最も疑わしいのは、館長だよ。それは間違いない」

「しかし、理由は?」

「それはこれから調べる。彼女は否定したが、何か隠された利点があるかもしれんからね。ああ、それから、今夜ここであったことは、他言無用だ。いいね?」

 俺を疑ったのはポーズということか。あんなに執拗に触ったのに。通用口に着くと、主任刑事は気取った笑顔を見せただけで、握手もせずに追い出された。

 時刻は3時前。タクシーを呼ぶこともできないので、歩いてホテルに帰るしかないが、部屋には入れないんだよなあ、どうしようか。

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