#15:第6日 (15) 夜の美術館

 タクシーで美術館へ向かう。夜10時前のことなので、運転手には不思議がられた。もしかしたら泥棒の仲間と思われたかもしれない。まあ、当たっていなくもないな。

 正面入口は閉まっていたので、A翼の通用口へ行った。しかしこちらも灯りが消えていて、錠が下りているし、警備員もいない。どうしたものかと思っていると、不意に後ろに人の気配がした。

博士ドクトル、こんな夜遅くに呼びつけて、申し訳ないことですな。館長が勝手にアドヴァイザーを招聘するなどと言い出したので、警察でもそれに対抗するために、君を招聘したというわけですよ。警察本部が推薦してくれたのでね」

 パタキ主任刑事の声だった。夕方の打ち合わせが終わったときとは、何となく雰囲気が違う。機嫌がよさそうな感じ。あの後、警察側に何かいいことでもあったのか。というか、どうして外にいるんだよ。

「こんばんは、主任刑事。中にいなくて大丈夫なのかね」

「夕食を摂りに出ていた。ここは中に食事をするところがなくてね。外から持って来てもらうと、賊に睡眠薬を盛られるかもしれんからな」

「他の二人は?」

「別々に出たんだ。順番にね。私が最後だ。一緒に食事に行くのもよろしくないのだよ。理由はさっきと同じだ。ああ、すぐに錠を開けさせる」

 主任刑事は上着のポケットから携帯端末を取り出し、何か操作をして、すぐにしまった。メッセージでも送ったのだろう。

「中に入ったら、今夜の段取りを説明するよ。しかし、ラインハルトという男の提案も大したことがなかった。我々が最初から想定していたとおりのものだ。おまけに、彼は帰ってしまった。館長が何に満足したのか、我々にはさっぱり解らん」

 ああ、それで機嫌が直っているように聞こえたのか。扉の向こうで、影が動いた。美術館の警備員が、錠を開けてくれた。主任刑事は身分証を見せ、俺はその代わりとしてパスポートを見せる。そういえば、夕方に入ったときはこんなチェックはされなかったなあ。

 灯りの消えたA翼の中を通り抜け、B翼バックヤードの応接室に入った。誰もいない。改めて主任刑事の顔を見たが、やはりすっきりした表情をしている。ずいぶんと柔和だ。

「さて今夜、博士ドクトルには警備システムの状況を監視していてもらいたい。本来ならアカデミーの研究者に頼むべきなのだが、夕方あんなことがあったし、第三者的に見るべきと思うのでね。ところで、参考までに博士ドクトルの論文を解説していただけますかな」

 そう言って主任刑事が取り出してきたのは『複数プレイヤーが……』の論文のコピーだった。刑事なのに、熱心だな。

「警備システムに関するドクトル・ネーメトや他の論文は、一通り理解したつもりなんだが、参考文献までは目を通していなくてね。聞くところによると、この中の数式をうまく“悪用”すれば、検知パラメーターに偏りを生じさせて、特定の動きを検知できなくすることが可能だということなんだが、本当ですかな?」

 そんなこと、どこで聞いたんだよ。ヤンカやユーノにも言ってないし、大学でも質問が出なかったぞ。「ちょっと待ってくれ」と言って考え込む。今回はちゃんと論文の骨子をのだが、そんな“穴”があることは……いや、あり得るかなあ。でも、それは学習させるデータの問題だと思うぞ。

 それを言うと、今度は主任刑事が考え込んだ。しかし、何となく嬉しそうに見えるんだが、気のせいか。

「パラメーターを今さら調整するのは無理しょうな」

「無理と言うより、危険だと思うね。誤検知が増えることの方が怖い」

「もちろんそうでしょう。しかし、ちょっとした“実験”に付き合っていただきたい。今夜の配置では、私の部下が一人、4階の展示室で見張りをします。ジョルナイ・ポーラです」

 もちろん、警備システムが稼働しているが、見張りが立つための、検知除外エリアなる場所が用意されているらしい。半径1ヤードくらいのスポットで、いくつかあり、どこからも絵が見える。彼女はそこを定期的に移動するのだが、その際は特殊な携帯端末ガジェットをオンにする。そうするとその携帯端末ガジェットの周囲もまた検知除外エリアになる。ただし、オンにした瞬間から時間制限があるし、絵から一定距離内に近付くこともできない。

「ですが、ぎりぎり反応しないような範囲で行動するように言ってあるのですよ。そして彼女の行動をシステムが“学習”すれば、パラメーターが変化するはず」

「そのとおり」

「パラメーターのビューワーが用意されているので、博士ドクトルはそれで変化を監視していただきたい。もしかしたら、“抜け道”ができるかもしれない」

「なるほど。しかし、それを警備員にさせてもいいのでは?」

「夕方の会話を憶えておられますかな。館長は警備システムをさほど信用していないようだ。だったら警備員だってシステムを軽視しているかもしれない」

 カメラ映像を監視していればいいと思っているかもしれない。しかし、ずっと見ているわけにはいかず、時に見逃すこともあるはず。特に、動かない映像や、特定のパターンに沿った動きばかりしているときは……

「それを補佐するのが警備システムだと思うのだが、彼らがそれを理解しているかどうか。だから博士ドクトルに依頼するのだよ」

「理解した」

「しかし、館長は君を警備室へ入れることは許可しなかった。部外者という理由でね。そこで、館長室にいてもらう。もちろん、システムの状況を見られるラップトップを用意する。ずっとそれを見ているのは大変だから、ときどき窓の外でも見てくれるとありがたい。賊がそんなところから入るまいとは思うが、可能性が低くても、ゼロでない限り対策が必要なのでね」

「それも理解した」

 美術館の平面図を見せてもらい、館長室の場所を教えてもらう。3階のバックヤードにある。そこには俺だけでなく、もちろん館長もいることになっている。

「彼女と二人でいるのは気詰まりかね?」

「いや。何も話さなくていいんだろ」

「そうだとも。彼女も雑談に興じている場合でないことは、解っているだろう」

 他に、ジガ刑事は2階の保管庫を見張る。主任刑事は、館長室、保管庫、展示室を、定期的に巡回する。彼もポーラ同様、特殊な携帯端末ガジェットを持っている。他の警備員は、通常の警備体制とする。つまり、警備員室に詰めるか、規定のスケジュールに沿って巡回するか。

「君と館長と我々3人の警備は、11時から3時まで続ける。賊が2時という時間を指定してきた以上、3時以降に来ることはないと思っているんでね。まあ、3時になったら出て行ってくれというわけでもない。明け方まで館長室か、あるいはこの応接室にいてもらって結構だ」

 食べ物の用意はなく――ただし館長室に少しだけ菓子がある――飲み物も館長室に用意したものを飲んでくれと言われた。

 それから2階の保管庫へ行く。昨日のバックヤード・ツアーのときに中は見なかったが、入れてもらうとわりあい小さなもので、絵の額や彫刻が詰め込まれている。窓はなかった。ほぼ真っ暗な中で、ジガ刑事がむすっとした顔でパイプ椅子に座っていた。時々、外に出て来るらしい。外には警備員が一人いた。

 3階は飛ばして、4階へ。もちろん、展示室には入れず、階段のところから覗く。ここから絵は見えないが、ポーラがいる場所は見えた。椅子は置けず、ずっと立っていなければならないらしい。大変そうだ。そのせいか、ポーラもやはり不機嫌そうな顔をしている。

 そして3階に降り、館長室。ドアの前に警備員が立っている。主任刑事が彼に身分証を見せ、俺もそれに倣う。主任刑事がドアをノックする。ややあって、中から錠を外す音が聞こえ、ドアが開いた。館長が無表情の顔を覗かせ、中に招き入れられた。

 案外質素な内装で、執務デスクと応接セットがある。広さはホテルの部屋並み。もちろんベッドはないので、その分だけ広く見える。窓に顔を近付けると、ドナウ川の向こうの夜景が見えた。応接テーブルには、ラップトップ、チョコレート・バー、ポット、それにインスタント・コーヒーの瓶が載っていた。

 そして壁に『西風ゼピュロス』が架かっている。これは本物? というか、そこのでかい金庫に入れとけよ。どうして堂々と飾ってるんだ。

「金庫に入れていると見えないので、存在を確かめるには開けなければならないでしょう? 外に出しておけば、開ける手間が省けるというものですよ」

 館長が澄ました顔で言う。知らないうちに金庫の中からなくなるのはいやだから、ずっと見張ってようってこと? 好きにすればいいと思うけどね。

 で、俺はソファーに座ってラップトップを見ていればいいわけか。ときどき立って、窓の外を見たり、コーヒーを飲んだりしながら。

 しかし、このままいればいいのかと思っていたのに、主任刑事が部屋の外へ俺を連れ出した。そして階段近くの、誰もいないところへ行って、耳打ちするかのように小さな声で話し始めた。

「3ヶ所を警備すると言ったろう? 実は、模写が他に2枚あるんだ。しかし、どこに置いたのが本物か館長が教えてくれなかったので、例の画家を呼んだのだよ。彼が模写を描いたので、判ると思ってね。そうしたら、館長室にあるのが本物だと判った。一緒に付いて来た声楽家、名前は何と言ったかな、とにかく彼女も同意したよ。よほど絵に詳しいようだな。聞くところによると、模写のフローラは、彼女をモデルにして描いたらしい。だから見分けられるのかもしれん」

 はあ、マルーシャをモデルにして、模写をね。それも彼女のマジックだろうな。

 ところで、主任刑事は初めて会ったときから俺のことをほぼ無視していて、俺の方も彼をとっつきにくいと――たぶんキーパーソンなのに――思っていたのだが、今はかなり「話せる」感じになっている。いったい、どうしたことだろうか。

 もちろん、彼の態度が変わったのが原因なのだが、警察本部の推薦とやらに、それほどの効果があったのかねえ。

 俺は館長室に戻り、主任刑事は4階へ行った。彼に“トンネル”のことを言うのを忘れていた。しかし、泥棒がトンネルを使おうとしているかもしれないので、このまま黙っておくことにする。俺としては、絵が盗まれる方が面白いと思うので。



【By 盗賊】

 城の丘と共に、ゲッレールトの丘は、夜景を見るのに適したスポットだ。特に北を見晴らすポイントは、セーチェーニ鎖橋ラーンツィードやマルギット橋、そしてドナウ川両岸のライトアップが見られるので、多くの人が訪れる。しかし夜の12時前ともなれば、さすがに人の姿は途切れがち。あと2時間もすれば誰も来なくなるだろう。

 ディアナは車を運転し、丘の頂上へやってきた。助手席にドリナ、後ろにダフネを乗せている。ダフネだけが降り、ディアナとドリナは車の中にいた。

 ダフネは北の見晴台キラートを見に行った。そこからはドナウ川だけではなく、ブダ城も見える。残念ながら、主に見えるのはE翼とF翼、つまり歴史博物館と図書館で、美術館はせいぜいC翼のドームくらいのはず。

 ダフネが戻ってきた。ディアナが窓を開けると、「よく見えてるわ」とダフネは言った。

「風もないし、予定どおりできそうよ」

「それに月もないしね」

 また今夜も新月。しかし大都市の上空のため、暗さが十分でなく、満天の星とは言えなかった。それでも、夏の夜の三角形を為す、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブ、そしてこと座のヴェガははっきりと見えている。

「じゃあ、配置について。2時になっても、特に合図はしないから、あなたたちのスケジュールどおりに動いてね」

「了解。迎えに来なくていいのね?」

「ええ、一人で帰れるわ。もしかしたら、途中で素敵な男性と会えるかもしれないわね」

「はあ、誰のことなんだか」

 たぶん、財団の研究者のことだろう、とディアナは思った。どうしてダフネは彼のことがいいのだろう。

 しかしディアナも、別にクリストフの方がいいと思っているわけではない。真意を口に出しているわけではない、と気付いているから。それなのに、信用したくなるのはなぜなのか。

「私もいい男と巡り会いたかったわ。近付かなきゃいけないのって、変なのばっかりなんだもの」

 車が走り出すと、ドリナが呟いた。確かに、これまでの三つの絵に関わる人物のうち、ドリナはほぼ全ての男性と会っている。『北風ボレアース』『南風ノトス』を所持していた屋敷の家族や使用人。ファイン・アート美術館セープミューヴィセティ・ムーゼウムに勤める職員や警備員。

 今回なら、刑事、警備員、画家、画家の兄弟、画家の絵を所持していた金持ちたち、アカデミーの研究員、大学の教授と学生、それと二人の外国人研究者。よくもそれだけと会い、そして疑いの一つも招かなかったと感心する。しかし、その中の誰もドリナは気に入らないらしい。

「じゃあ、どういう男がいいのよ」

「そうねえ、一人だけ、男に見える女がいたけど、ああいうのがいいかなって」

「あら、あなたってマイノリティーだったの」

「そうじゃないわ。中性的な、優しい男がいいっていうだけよ。なよなよしたんじゃなくて、すっきりと爽やかな感じの。男装が似合う女は、単に格好いいと思うだけ。今のあなたみたいにね」

「私はやりたくてやってるわけじゃないの!」

 今夜もディアナは、作戦上の成り行きで、男性警官の服を着ることになったのだった。ドリナは女性警官。男女のペアにする方が、疑いを招きにくいのだ。

 丘を降りてドナウ川沿いに出ると、車を北へ走らせる。目指すのは、城の丘の北にある“薔薇の丘ロージャ・ドム”。高級住宅街として知られている地区だ。

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