#15:第6日 (14) 酔いどれ研究者

「ええと……今夜は、研究の話はしない方がいいのかしら?」

 ユーノが曖昧な笑顔を浮かべながら言った。ディナーに呼ばれたらいつもと違う話をした方がいいと思ってるんだ。純情だな。

「君の研究の話は楽しくて好きだよ。でも、違う話がしたいなら、そうだな、美術館ガレリアに泥棒が予告状を出したのは知ってるかい」

「何、それ?」

 知らないのか。自分の興味があること以外、目にも耳にも入らないんだな。これこそ象牙の塔に籠もるってやつだぜ。一通り話してやったが、あまりピンときていないようだ。

「その『西風ゼピュロス』っていう絵は、そんなに価値があるの?」

「さあね。俺は知っている限り、さほどの価値はないし、画家も有名じゃない。ただ、他の3枚と合わせると、何か秘密が明らかになるらしい」

「東西南北が揃うと、っていうことね」

「地球科学でそういうことはあるのかな」

 ちょっと無茶振りアブサード・クエスチョンしてみる。ユーノがやけに真剣な表情で首を捻る。

「ないと思うわ。そもそも、地球的、宇宙的には、方角の概念は北と南しかないもの。東西は絶対的な方位じゃなくて、強いて言えば回転方向が関係しているだけね」

 まあね。“東”の定義は、北を向いたときに日が昇る方位、だもんな。北と南は極があるけど、ずっと東に行っても、果てはない。でも、酔ったらもっと面白いこと言ってくれるかなあ。

 とりあえず、ワインをグラスに注ぐ。飲んだときのことをほとんど憶えてない、と言ってたわりに、ユーノは何の躊躇もなく飲む。味はどうかと訊くと「とてもおいしい」だと。もっと飲ませよう。

「西風というと地球科学的には何か特別な意味があるのかな」

偏西風ウェスタリーズ

「気象学的には」

「緯度や地形によって意味が違うんじゃないかしら」

「ゼピュロスはギリシャの神だ。ギリシャの辺りではなぜ西風が春の訪れを表すのか」

「さあ。北は大陸で、その他の3方向を海に囲まれている、というのに関係しているんでしょうね」

「なぜ風が季節の象徴になったんだろう」

「一番感じやすいからでしょう? 古代に気温を測る装置はないし、日照時間の変化は日時計を毎日観測する必要があるし、そうすると誰でも解り易いのが、風。立っているだけで感じることができるし、目に見えるようにもできたから」

「風見鶏のような」

「ギリシャには“風の塔”があったのよ」

 別名ホロロゲイオン。大理石で作られた八角形の塔で、てっぺんのトリトン像が、風の吹いた方向を示す。各面には8人の風神アネモイのレリーフが刻まれていて、方角を知ることができた。日時計と水時計も設置されていた。

「8人ということは、北東とかの、間の方角の神もいたのか」

「ええ、でも、名前までは憶えてないわ」

 俺も西風ゼピュロス以外は憶える気がないんだよ。ステーキを食べながら、「暑い」と言ってユーノがジャケットを脱いでしまった。身体が熱くなっているのか、酔っているのか、いずれにしろ顔が赤い。

「どうしてギリシャ神話まで知ってるんだ」

「昔の人が、地球や宇宙をどう考えていたのか、興味があったのよ。子供の頃に、その理由までは解ってなかったけど」

 たぶん、宗教の信仰が薄い家庭で育ったんだな。親がキリスト教に熱心なら、ギリシャ神話なんて興味を持たせてもらえないから。それはともかく、よく飲むな。目が潤んできたぞ。

「ギリシャへ行ったことは?」

「ないわ。ギリシャでは、めったに学会が開かれないのよ。あら、そういえば、合衆国も行ったことがないわ。どうしてかしら。カナダやメキシコはあるのに。去年、オーランドで学会があったのに、他の人が参加することになって、私は行けなかったの。オーランドって、あなたの住んでるところから近い?」

「200マイルは離れてるな」

「フロリダ州って広いのね。ハンガリーは東西が500キロメートル、南北が200キロメートルだから、面積でもフロリダ州の方が広いんじゃないかしら」

 フロリダの陸地面積は約5万3600平方マイル。平方キロメートルへの換算は2.5倍だから。

「約13万4000平方キロメートル」

「ああ、やっぱりね。ハンガリーは約9万3000平方キロメートルよ」

「広けりゃいいってもんじゃない。フロリダの4分の1は湿地で、使い物にならない」

「それでもフロリダの方がまだ広いじゃないの。それに、暖かいんでしょうね。一度行ってみたいわ。休暇を取ったら、連れて行ってくれる?」

 休暇って、明日から取るのかよ。取ったって連れて行くのは無理だって。

「地球科学的に興味深い地形は少ないな。行くならナイアガラの滝かグランド・キャニオンがいいんじゃないか」

メキシコ湾流ガルフ・ストリームも興味深いじゃないの。ヨーロッパが高緯度なのに温暖なのは、そのおかげよ。その源流はアフリカのギニア湾で温められた北赤道海流で、カリブ海を通ってメキシコ湾に入って、それからフロリダ海峡を抜けて北大西洋へ出て行って」

 その程度のことは俺でも知ってるんだけど、ユーノのしゃべり方がいつもと違ってきたな。呂律が回ってないし、言い回しがくどい。ワインの瓶の8割を飲み干したから、本格的に酔ってきたんだろう。

 暑い? 腕まくりをして、ブラウスのボタンをどんどん外していくぞ。第2ボタン、第3ボタン、いや、それ以上はまずい。

 ウェイターを呼んで、デザートをアイスクリームに変えられるか訊く。ジェラートならある? それでもいい。

「『西風ゼピュロス』ってどんな絵なの?」

 話をいきなり戻したな。しかも、興味なさそうな芸術の方に。

「西風の神ゼピュロスが、春と花の女神フローラと戯れてるんだ」

「戯れてるって、どんな風に」

「ダンスを踊っているというか、肩を抱こうとしているというか」

「私も見てみたいわ。美術館って、まだ開いてる?」

 とっくに閉まってるに決まってるだろうが。

「明日だな。ただ、盗まれてしまったら、見られない」

「じゃあ、盗まれないようにして」

「それは俺の仕事じゃないよ」

「公正としての正義のために行動するのが、財団でしょう?」

「泥棒の側にも正義があるかもしれないからね」

「そうね、正義なんて、見る人によって違うものね。科学的な定義もできないし。それなのに、どうして科学でそれを解決しようとするのかしら。暑いわ。これも脱いでいい?」

 ダメだ、ブラウスは脱ぐな。完全に酔ってるな。そしてきっと、醒めたら忘れちまうんだぜ。とりあえず、店を出るか。夜風に当ててみよう。

 ユーノの足元がふらついているが、さりげなく手を引きながら階段を上がり、丘の上に出る。既に陽は落ちて、眼下に夜景が広がっていた。ユーノはそれを見ているようで見ていない。

「美術館に灯りが点いてるわ。まだ開いてるんじゃないのかしら」

 ユーノが俺の右腕に掴まりながら言う。そのとおりだが、たぶんあれは閉館後の点検ために点けているだけだろう。そのうち消えるに違いない。でも、恐らく今夜は館長室の灯りは点けっぱなしだろうな。

「いや、もう閉まってるよ。明日また来よう」

「ヤンカなら入れるのよ。美術館の警備システムを設計したの。知ってる?」

「知ってるよ。彼女と話をした」

「あなたの論文を参考にしたって言ってたわよ。知ってる?」

「それも彼女と話した」

「あなたはどうして入れないの」

 さっき入ってきたし、後でもう一度入るよ。でも、それは言わなくていいだろう。

「この後は、美術館の職員と警察官と泥棒しか入れないんだ」

「泥棒がどこから入るか知ってるの?」

「さあね。空を飛んでくるんじゃないかな」

「違うわ。地下のトンネルから入るのよ」

 それは冗談のつもりなのか? ユーノの目を見てるだけじゃ、よく解らんな。

「王宮の地下にトンネルがあるのか?」

「この近くに迷宮ラビリントゥスがあるのを知ってる? 地下の鍾乳洞だけど」

「何日か前に見に行ったよ」

「王宮の地下から、そことつなぐトンネルが掘ってあるのよ」

「どうしてそんなこと知ってるんだ」

「だって、アカデミーの地学研究室と建築学研究室の人が、共同で論文で書いてたんだもの」

 はあ? 初耳だぞ、それ。迷宮ラビリントゥスにそんな説明は全くなかったぜ。トンネルでつながってたら、絶対説明があるって。

 君ってもしかして、それを聞き出すためのキー・パーソンだったのか? だとしても、どうして今まで話さなかったんだよ。

「見に行ってみる? 洞窟の中の地図、何となくだけど、憶えてるわよ」

 どうして君の方から誘ってくるんだ。完全に酔っ払って、理性がなくなってるんじゃないか。

迷宮ラビリントゥスだって、もう閉まってるよ」

「入口の扉は、内側から閂を掛けてあるだけで、錠を下ろしてないのよ。だから、外から扉を揺らしてたら、そのうち開くって言ってたわ」

 じゃあ、論文を書いた奴も勝手に入ったことがあるのかよ! しかし、見に行くべきかどうか。いや、懐中電灯フラッシュ・ライトを用意してきてないぞ。トンネルを歩けるわけがない。しかも、こんな足元が危うい女を連れて歩けるかって。俺の腕に、ますますしっかりとしがみついてきた。

「行くの? 行かないの?」

「明日にしよう」

「明日までに、絵が盗まれたら困るじゃないの」

「大丈夫だよ。模写があるんだ。だから、盗まれたらそれを見ればいい」

「いやよ、本物がいいの」

 どうしてこんなに絡んでくるんだろう。話は真偽不明だし、飲ませるんじゃなかった。

「じゃあ、迷宮ラビリントゥスの前で、二人で見張っていることにしよう。そうすれば、泥棒が入れない」

「そうね。それがいいわ」

「泥棒が盗みに来るのは、夜中の2時なんだ。それまでまだ時間がある。どこか静かなところで、話をしよう」

「そうね。それがいいわ」

「それとも、まだ何か飲むか?」

「シャンパンが飲みたいわ」

 普段飲まないのに、どうしてシャンパンなんて飲みたがるんだよ。でも、バーに行ったら、そこでまた「脱ぐ」って言うんだろ。それはさすがにまずい。脱いでも大丈夫なところというと……ホテルに連れて行くくらいしかないんじゃないか。

「じゃあ、バーに行こう。少し遠いけど、いいところを知ってるんだ」

「二人きりになれる?」

 酔ったら痴女の気まで入るのか。困ったなあ。

「なれるなれる。こっちだ」

 ほとんど抱きかかえるようにして、ケーブル・カーフニクラーの駅へ行く。夜景を見に来る客がたくさん上がってきていて、降りる車両はこは空いていた。ところが、下に着くより前に、ユーノが寝てしまった。タクシーに押し込んで彼女の家まで送ってもらおうか。いや、ダメだ、家がどこにあるか知らないんだ!

 アカデミーにもう人はいないだろうし、ヤンカにも訊けない。ますますホテルに連れて行くしかない。アネータに誤解されたらどうしよう。

 ユーノを背負いながらケーブル・カーフニクラーを降りて、タクシーに乗る。ホテルに着き、ロビーに入るとアネータがいて、女の敵を見るような冷めた目つきで俺を凝視した。しまった、ユーノのブラウスのボタンを留めるのを忘れてた。

「優しい奥様がいらっしゃるのに……」

 違う、誤解するな。彼女が自分で脱ぎかけたんだ。

「仕方ないだろ、そこら辺に捨てておけないんだから。それに、朝まで俺が部屋に戻らなきゃいいだけだ」

「夜中に起きちゃったら、私はどうすればいいんですか!」

「どうもしなくていいよ。メモを残しておくから」

 アネータに手伝わせてユーノを部屋まで連れて行き、ベッドに寝かせる。それからメモを置いて、部屋を出た。これからまた丘の上に戻らなければならない。今日だけで、何度ドナウ川を渡ったことか。

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