#15:第6日 (13) ディナー用の服
だいぶ長い沈黙を保った後で、パタキ主任刑事が言った。
「そうすると、文化国務長官はご存じなのでしょうかな。模写を囮に使おうとしていることや、本物がどれか判らんようにしていることを」
「いいえ、ご存じではありません。言う必要はありませんから」
「しかし、ぜひ聞いていただきましょうか。私の方からは既に署長に伝えてあります。今、電話をすれば、署長から長官に報告するでしょう。その上で、長官と署長の判断を仰ぎたいと、私は考えますな」
それで問題がなければ「どうぞ」と館長は言うはずだが、何も言わなかった。主任刑事はこれ見よがしに
電話が終わると、主任刑事は腕を組んで椅子にふんぞり返った。さて、この後はどうなるのか。
「アカデミーはどのような協力をしていただけるのですか?」
館長が冷たい目でヤンカを見ながら言った。
「それを訊きたいのは私の方です。美術館と警察の対策を聞いて、警備システムについて何か意見を求められれば答えるつもりでした。しかし、動作仕様を無断で変更されては、意見の出しようもありません。今の状態でたとえ誤動作が発見されても、それはアカデミーの責任範囲外です。私に今言えるのは、システムを直ちに元の仕様に戻してください、ということだけです」
ヤンカももちろん引かない。それにしても妙だなあ。傍目に見て、館長の方が明らかにまずいことをしているのに、どうしてそんなに強気なんだろう。盗まれてもいいと思っている? それとも、実は盗まれない絶対の自信がある?
ところで、この状況でも俺は泥棒が入るまで美術館の中にいた方がいいと思うんだけど、どうすればそれが実現できる?
重苦しい沈黙が続いていたが、それを打ち破るようにドアが開いて、またエメシェが入ってきた。この雰囲気を物ともしないのか。そして館長に耳打ち。「電話です、失礼」と言って、館長は出て行った。しかし、何となく自信ありげな笑みを浮かべながら。というか、館長室に架かってきた電話でも、この応接室に転送すりゃいいだろうに、どうして人のいないところで話すんだよ。
館長はなかなか戻ってこなかったが、しばらくしてヤンカが俺の横にやって来た。ずいぶんとしおらしい顔をしている。
「申し訳ありません、こんなおかしな場に呼び出してしまって。想像していたのと、全然違う次元の話になってしまって、私も驚いてます」
「そうだな。今のところ、俺が協力できることは何もない。それはそれで、気楽でいいんだけどね」
「でも、お時間を無駄にしてしまって」
「これくらいは大したことない。それにこの後、安心してユーノを食事に誘える」
「彼女も喜ぶと思いますわ」
ようやく館長が戻ってきた。先ほど浮かべていた笑みは、「強気で無理してます」という感じに変わっている。
「長官から有用なご提案をいただきました」
ことさらゆっくりと椅子に座り、余裕があるかのように見せかけながら館長は言った。
「今夜のためにアドヴァイザーを一人採用してよいと。美術館でも警察でもアカデミーでもない、中立な立場の人を推薦していただきました」
「ほう、それはどなたですかな?」
椅子にふんぞり返ったまま、気のない感じで主任刑事が聞き返す。こちらはどうやら見せかけではないようだ。で、中立の立場の人って誰だよ。まさか、俺じゃないよな。何も話は聞いてないし。じゃあ、奴しかいないじゃないか。
「マクロロジック社の
館長はさも自分の手柄のように言った。やっぱりな。ラインハルト氏はうまくやりやがった。しかし、一人で何ができるんだろう。それとも、奴以外に何人か協力者が期待できる? まさか、大学の連中を引っ張り出すとかじゃないだろうな。
「ほう、それは結構なことですな。それでは、警察からは予定どおり、増員はなしということで」
「もちろん、それで問題ありませんわ。しかし、あなた方3人は協力してくださるのでしょうね?」
「もとより、予定どおりです」
主任刑事は館長と目を合わすことなく言い切った。ジガ刑事のあの落胆した表情は何なんだ。徹夜で警備するのがそんなに嫌か? ポーラは明らかに動揺してるな。彼女はラインハルト氏と何かつながりがあるのか。
「さっそく、ラインハルト
「私やドクトル・ナイトももう一度来なければならないのですか?」
ヤンカが不満を隠さずに言う。そりゃ、君は来たくないだろうさ。さっき言ってたとおり、何の意見もできなさそうだもんな。でも、俺は別に来ても構わないんだぜ。たぶん館長から「用はない」って言われそうだけど。
「ラインハルトさんが、あなたの意見も必要であると判断されれば、お呼びします。それとも、遅い時間まで拘束されるのは問題がありますか?」
「あります。それに、意見を述べるだけであれば、電話でも十分でしょう」
「では、必要なら電話するということで。ドクトル・ナイトもそのようにご対応いただきましょうか」
絶対必要ないけどね、って感じで言ってやがる。いやな女だ。しかし、言われるままにしていると、絵が盗まれる場面に立ち会えなくなりそうだ。かといって、積極的に参加を主張するのは俺にポリシーに反する。ここはいったん引いておくか。まだ8時間もあるんだから、何か思い付くだろう。
解散したが、刑事3人はその場に居残った。ここは彼らの控え室に使われるのかな。俺とヤンカだけが外へ出る。6時に近いが、列はまだ残っていた。営業時間を延長するのだろうか。陽は西に傾いているが、まだあと2時間くらいは暮れそうにない。
「本当に申し訳ありませんでした」
ヤンカがもう一度謝ってきた。気にするな、と言って
それからアカデミーへ電話。ユーノの意外そうな声が聞こえた。
「どうしたの?」
「
「夕食って……レストランで?」
それ以外に選択肢があるのか。彼女の場合、外で買ってきてアカデミーで食べるのが普通とか? マンナ・ラウンジで8時に、と伝える。
「
焦った声でユーノが言う。俺だって同じだよ。ドレス・コードがあるのか、アネータに聞くのを忘れてたな。いったんホテルに戻って着替えるだけの時間はあるけど。
ヤンカにこっそり、ユーノがディナーへ行けそうな服で出てきたのか訊く。問題なし、とのこと。
「店に文句を言われたら、ピザでも買ってアカデミーで食べよう。受けてくれるな?」
「ええ、その……あなたの誘いなら、もちろん……」
なぜ躊躇しているかのような声を出すのだろう。とりあえず、誘いを受けてくれたことに対して礼を言い、電話を切る。
「もちろん、解ってるよ。俺も着替えるためにホテルへ戻ろうと思うが、自転車で来てるので、君を送っていけなくて申し訳ない」
「気にしないで下さい。地下鉄の駅なんて、近いですから」
「思ったよりも早かったですね」
「それでもちょっとしたトラブルはあったんだぜ。言うわけにはいかないけどさ。さて、出席者だけど」
館長と刑事3人とネーメト・ヤンカ、と伝える。ついでにこの後、ラインハルト氏が招聘されることも付け加えておいた。
「ラインハルト
「彼がいると困る?」
「あら、そういう意味ではないんですわ。人数が合わなくなると思っただけで」
「そうか。でも、館長はもっと人を呼びたそうだったけどね」
「それはさほど問題ではありませんわ」
さて、どういうことか解らないが、訊かないでおく。
「明日もどこかで会うかな」
「ええ、私の方から会いに行くと思います」
「できれば午前中に頼むよ。午後からは帰り支度があるんでね」
「もちろん、そうしますわ」
優美な笑顔のダフネを残して美術館へ戻り、自転車に乗って坂を下りる。ヤンカはデアーク・フェレンツ
「ディナーに行く服のコーディネイトを頼む」
「それは構いませんが、先ほど、警察から電話がありまして」
まだ何も盗んでないんだから、逮捕されるわけじゃないだろう。何の用だ。
「それは教えてもらえなかったのですが、これから夕食の先約があると答えると、『では、10時に美術館へお越しいただきたい』と」
なんで呼び戻されるんだよ。それならさっき言えよ。いや、言われても、ユーノと夕食に行くんだけどさ。
「もしかしたら、今夜は戻らないかもしれんぜ、アネータ。そうなっても心配するなよ」
「そうなりそうなら、連絡をくださいますか?」
「夜食の差し入れでもしてくれるのか」
「必要があればします」
いやあ、美術館の中に入れてもらえないだろうし、差し入れた物は徹底的にチェックされるね。睡眠薬が入ってないか、とかさ。
またまた“若い准教授”的な服を着て、8時前にタクシーに乗って出発。アカデミーに寄ってもらう。アネータに電話させておいたので、ユーノは建物の前で待っていた。しかし何という中途半端な表情。ディナーに誘われた女とは思えないな。
「ごめんなさい、こんな服で……ジャケットは同僚から借りたんだけど」
白の涼しげなリネン・ジャケットだが、要るのか、それ。いや、俺も着てるけどさ。インナーが衿付きブラウス、下がパンツだから、ディナーじゃなくてビジネスだよな。じゃあ、大学の若い准教授どうしの会合ってことで。
「予告なしに誘って受けてくれたんだから、何も文句はないよ。むしろ、俺の服とよく合ってる」
タクシーに乗せ、
木の柱と梁に支えられたテントのような屋根で、南国のビーチ・バーを思わせる。開放的で、下を行く車の音が聞こえそうだが、そうでもない席に案内された。
ほうれん草のスープ、子羊の腿肉のステーキ、ハニー・クリーム・ケーキを注文する。飲み物は……
「ワインにする?」
この後のことを考えると飲むべきではないのだが、ユーノに飲ませると何か面白いことが起こるのではないか、という気がする。何しろ、これまでは真面目な研究者の姿しか見てないから。
「そうね、飲んでみようかしら」
「普段は飲まないんだろうな」
「ええ、でも、飲んだときのことをほとんど憶えてないのよ」
記憶をなくすのか。それはいっそう面白そうだ。ワイン・メニューのハンガリー語がほとんど読めないのだが、唯一読めるピノ・ノワールを頼んだ。
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