#15:第6日 (7) 身体と心

【By オペラ歌手シンガー

「アーティーの身体、とっても素敵だったね」

 彼が去った後で、ジジが言った。私は返事をしなかった。小さな浴槽プールに、並んで座りながら。彼女は彼の身体に魅了されたのだろうか。

「アンナは、彼の裸を見たことがあるの?」

「水着姿は見たことがあるわ」

「身体に触った?」

「いいえ」

「さっき、触っておけばよかったのに。本当に素敵だったなあ。彼に力強く抱きしめられたいよ」

 私は彼に抱きしめられたことがある。後ろから。しかしそれは愛情の表現としてではなく、捕獲しようとしてのことだった。私は逃れようとして、彼を投げ飛ばした。

「どうすれば彼が抱いてくれると思う?」

「素直にお願いすれば、きっと抱いてくれるわ」

「愛の告白をすればいいのかな」

「ええ、そう」

「メグっていう愛しい人がいるのに、受け容れてくれる?」

「彼の愛の対象はとても広いから」

「メグだけじゃ受け止めきれないってこと? じゃあ、告白してみようかな。でも、今夜の“事件”が終わるまで、時間がないね」

「その“事件”の相談を、あなたにしたいわ」

「僕に何か手伝って欲しい? でも、ヴァケイションヴァカンス中だよ。邪魔しないつもりだったし、前にそう言ったよね」

「うまくいけば、彼のためにもなるの」

「本当? じゃあ、手伝う! とりあえず、絵を見に行けばいいのかな」

美術館ガレリアへ行ったことは?」

「初日に行ったよ。そこで彼を見つけたんだ。その瞬間、好きになっちゃったんだよ。跡をけながら、どうしようか悩んで、ゲッレールトの丘で声をかけることにしたんだけどね。後は君も知っているとおりさ」

「ジゼルが? ジジが?」

「二人とも! こんなこと、初めてだよ。いつもなら違うタイプを好きになるのにね。ジゼルはいつも、支えてあげたくなる男性を好むのになあ。ラカトシュ・フュレプのような。僕はアーティーのような、頼れる男性が好き」

「クリストフ・ラインハルトは?」

「僕は好きだよ。でも、騙されるかもって思うね。ジゼルはどうか思うなあ」

「今から頼むのは、クリストフとも協力しなければならないことなの」

「彼と仲良くしなければならない? でも、ジゼルはやってくれるよ。アーティーのためになるなら」

「では、そろそろ美術館ガレリアへ行きましょうか」

「もう少し君と一緒に浴槽プールに入っていたいな。それに、君の身体をもっと見て、もっと触りたい!」

「見て触るのは、後でもできるわ」

 ジジの手を取って、浴槽プールから上がった。キャビンに入って水着を脱ぐと、ジジが「拭いてあげる」と言いながら身体を触ってきた。まるで子供のよう。服を着終えると、ジジの表情が変わって、凜々しくなった。あるいはジゼルと入れ替わったのか。

「タクシーで行くかい? それとも……」

路面電車トラムケーブル・カーフニクラーにしましょう」

 なるべくたくさんの人の目を私に触れさせ、それでもマルーシャと気付かれないことを確認する必要がある。

 温泉前の電停から電車に乗り、クラーク・アダム広場テール電停で降りて、ケーブル・カーフニクラーに乗り換える。どちらでも、涼やかな姿のジゼルが人目を引き寄せる。私とは、男女のカップルに見えているのではないだろうか。

 美術館ガレリアに着いたのは10時半。開館して30分経っているのに、長蛇の列ができていた。予告状の件がプレスから発表されたのは6時。ブダペスト市内だけでなく、近隣の都市からも人が集まってきたのだろう。外国人観光客の姿は少ないようだ。

「ここに並んでいて。僕がチケットを買ってくるよ」

 私を列に並ばせ、ジゼルがチケット売り場へ走って行き、すぐに戻ってきた。入場制限をしており、100人ほど並んでいて、入るのに30分ほどかかるらしい。

「君の“顔”があればもっと早く入れるだろうけど、それが目的じゃないんだね」

「ええ、12時までにあの絵を見終わればいいのよ」

 もちろん、周りの客も、既に中にいる客も、あの絵だけを目的に来ていて、館内に入ってからも列に並ばされることだろう。おとなしく列に並んで、30分後に入ることができたが、中の様子は予想どおりだった。

 列は3階から4階へ上がる階段の途中まであった。午後になればもっと列が伸びるだろうか。並んでもしばらくは動かないが、3分ほど経つと10歩動く。10人ずつ、3分間見られるようにしているのか。

 並んでいる間に、もう一度監視カメラの位置を確認しておく。特に変化はないようだ。もっとも、カメラがあるのはここだけではないので、絵を見た後で他のところを回って確かめないといけない。

 30分ほど待って、ようやく列の先頭近くに来た。しかしここから絵は見えない。その先の角を曲がれば見える。そこで止められているのだ。周りの客の期待感が高まり、話し声が大きくなっている。美術館の中だというのに。

 そしてジゼルの姿に注目する人も増えている。既に絵を見終えた人が、辺りをうろついているから。私よりも彼女が目立っている。つまり、私は目立っていないということで、どうやら目的の一つは達成できているようだ。

 次に列が動き、私たちを含む10人ほどが絵の前に移動した。手すりの向こうの、ガラス越しに見える『西風ゼピュロス』は、果たして昨日見たものと同じだろうか。

「フーン」

 鼻を鳴らすような小さな声を出して、ジゼルが絵に見入る。彼女はどのような感想を持つだろうか。後で訊くことにしよう。

 そのとき、視界の端に、見覚えのある顔が入ってきた。パタキ主任刑事。さりげなくジゼルの注意を促し、見てもらう。他の二人の刑事はどうしたのだろう。あるいは後で来るのか。

 私たちの持ち時間が終わった。後は、4階の他の美術品を見て回る。それほど時間はかけずに。しかし、12時まであと30分しかない。それまでに全部を見終えるのは少し難しそう。もちろん、絵ではなく、監視カメラと警備員の配置。バックヤードは諦めている。昨日の記憶に頼るしかない。

「昼までに全部は見られそうにないよ」

 ジゼルも同じことを考えたようだ。小声で話しかける。

「12時半まで見ましょう」

「それで歌劇場へ間に合うの? 昼食の時間がないよ」

「私は3時頃までお腹は減らないと思うから」

「朝、たくさん食べてたものね。僕はホテルに戻って食べることにするよ」

「昼食が遅くなってごめんなさい」

「構わないよ。君とこうしてデートしている方が楽しいんだ。3時からはどうするの?」

「画家に会いに行くわ。彼の家で、絵画の観覧会をするの」

「そこに僕も潜り込めないかな。画家を見てみたいんだ」

「私の友人ということにすればいいわ」

 少し考えてから、私は言い添えた。

「そのときには、女性らしい姿の方がいいと思う」

「じゃあ、ジジに替わってもらうよ」

 1時間の間、ジゼルは絵を楽しみ、私は館内の様子を記憶した。これが夕方から夜にかけて、どう変わるだろうか。彼が盗聴器を持ち込んでくれると助かるのだけれど。いや、彼とて身体検査は免れないだろう。それでも仕掛けてみよう。

 美術館の外へ出て、ケーブル・カーフニクラーの駅へ歩く。

「絵の感想を聞かせて」

「タイトルは『西風ゼピュロス』だけど、主題は花と春の女神フローラなんだね。とても繊細で、母性的に描かれていた。それに、ほんのわずかな憂いの表情が美しさを引き立てていたよ」

 それからジゼルは私を見て言った。

「あれはどことなく、君に似ていたね」

 そのとおりだった。あれは本物ではなく、模写だ。何枚目のものかは解らないけれど。では、本物はどこにあるのか。しかし、今の時点でそれを気にする必要はない。夜になれば、また取り替えるかもしれないのだ。そしてそれを指示するのは……

「君といると、乗り物に乗るのがスムーズでいいね」

 ケーブル・カーフニクラーの駅に着いた途端、乗るべき車両はこがやって来たので、ジゼルが言った。

「そうね。でも、私は気に入らないの。本当は、乗り物を待つ時間が好きなのよ。特に、気に入った人と一緒にいるときは」

「その中に僕は入っている?」

「ええ、もちろん」

「もう一人の僕も?」

「ええ」

「彼も?」

 すぐに、答えられなかった。なぜ私は躊躇してしまったのだろう。

「もちろん」

 ちょうどケーブル・カーフニクラーに乗るときだったので、答えが遅れたのはジゼルに気付かれなかったかもしれない。

「これを降りたらバスに乗るのかな。でも、きっとすぐに来ると思うよ」

 105系統。確か、10分おきに走っているはず。セーチェーニ鎖橋を渡り、ヨージェフ・アッティラ通りを抜けて、アンドラーシ通りへ行く。ジゼルは橋を渡りきったところで降りればよくて、私はオペラ停留所まで乗る。所要時間は約8分。1時10分前に着きそうだが、それでも食事をする時間はない。

「僕に訊きたいのは絵のことだけなの?」

 ケーブル・カーフニクラーを降りてからジゼルが訊いてきた。クラーク・アダム広場テールは目の前で、丘を東西に貫通するトンネルを抜けてきたバスが、ちょうど停まるところだった。

「あの男性のことはどう思った?」

「男性? ああ、絵を見ていたときの。きっと刑事だよね。そういう雰囲気だった」

 さすが競争者コンクルサントは警察に対して敏感だ。

「真似られそうかしら」

「姿はともかく、僕は彼と話したこともないから判らないよ」

「声は録音したものがあるから聞いてみて」

 バッグからメモリー・デヴァイスを取り出して、ジゼルに手渡した。なぜか彼女は、私の手を握ってきた。

「本当にそれが、のためになるのかな?」

 もちろん、そのとはパタキ主任刑事のことではない。ジゼルとジジが共に好意を持ってしまった、“彼”のことだ。

「私はそう信じているわ」

「じゃあ、僕も信じることにするよ。彼にもその話をするの?」

「いいえ、言わないわ。でも、彼は私の想定どおりの動きをしてくれると思う。いいえ、信じる」

「君たちは心が通じ合っていて羨ましいよ。ペアでもないのにね」

「いいえ、一方通行。彼の考えていることは解るけれど、私の考えはなるべく知られないようにしているから」

「そんなことないさ。彼も本当は解っているよ。態度に出さないのが彼の美点だと思うね」

 ホテル前の停留所に着いた。降りるときにジゼルは、私の手にキスをしながら言った。

「愛しいアンナ、君の計画がうまく運びますように。そして彼にも幸運が訪れることを祈るよ」

「ありがとう」

 バスを見送りながら、ジゼルは手を振っていた。

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