#15:第6日 (6) 影と王冠
【By 画家】
フュレプが母屋へ遅い朝食を摂りに行くと、フェレンツがいた。テーブルに何もないところを見ると、とうに食事を終えて、そのままずっと座っているのだろうが、珍しいことだ。フュレプが認識しているフェレンツは、とにかく規則正しくて、特に食事については始める時刻から終わる時刻まできっちり決めているはず。そして食事が終わると自室に引き上げ、一定の時間休憩し、それから創作に没頭するのだ。
故にここに座っていたのは、自分が来るのを待っていたのではないか、とフュレプは感じた。会いたい時でも決してアトリエに足は運ばないのだ。それはファルカスも同じ。
しかしフュレプが席に着いてもフェレンツは何も言わないので、自分の方から声をかけてみることにした。
「アリアは作れそうかい」
「ああ、今ちょうどそれで考え込んでるところだよ。全くダメだな。ファルカスの書く詩が、僕のイメージに合わない。前にも言ったろう、彼の言葉は硬すぎるんだよ。まるで古代叙事詩の一節だ。アリアなんだから押韻にこだわる必要などないと何度言っても理解してくれない。特に彼女の場合、現代的で柔らかな感じにしないといけないというのに」
「ではお前が先に曲を作って、それでイメージを伝えればいい」
「もちろんそれも提案したし、実際にやったさ。だが今度はファルカスの方が、イメージが違うと主張する。おまけに何小節目に一瞬だけ暗いイメージを入れろだの、盛り上がるのは最後から何小節目にしろだの、注文だけはうるさい。なのに何度書き換えてもダメだとしか言わない。言葉の匠なのに、なぜ言葉で説明できないのか、不思議でならないよ」
「結局は二人の心の中のイメージが合っていないだけだろう」
「そのとおりだね。それで僕は考えたんだよ。我々の中に、イメージの基となる“絵”がないのだとね」
「詩はともかく、音楽に絵なんて必要あるのかね」
「あるさ。この前、ラヴェルの『展覧会の絵』について言及したろう? 絵と曲の印象が同じになることはあり得ると。ラヴェルと僕の印象は合わないが、僕だって頭の中に絵を描きながら曲を作るんだよ。もっともそれは静止画ではなく動画だけど」
「つまり本来の意味のカートゥーンというわけか」
「そのとおり。静止画であっても、それを説明する背景とストーリーが必要というわけさ。そこでフュレプ、一つ相談があるんだ」
「僕にカートゥーンを描けと?」
「新たに描く必要はない。一昨日見せてもらった、『
「あれか」
二人とも「彼女の特質をよく表現している」と認めてくれた。しかしフュレプは特に解説をしなかった。単に、マルギット島の舞台に立っているところだ、と伝えただけ。
それに何かストーリーを付けろと。
「しかし僕は単に写真のように、その一瞬の印象を切り取っただけなんだ」
「もちろん、解っているよ。しかしその前後の動きというものがあるだろう。彼女は何をしていたところなのか?」
「朝の散歩だろう」
「僕はそうは思わない」
ようやく朝食の皿が運ばれてきた。ずいぶんと遅い。トースト、チーズ、ソーセージ、 ハム、卵、野菜サラダ、そして紅茶。
「なぜそう思うんだ」
「解らない。単にそう思うだけだ。しかし彼女は、君が舞台の客席に座っている時に現れたと言ったね。彼女は観光客だ。しかも有名人だ。舞台を見たくても、人がいれば待つか避けるかするんじゃないのか? 他へ行ってから後で来るとか。あの野外ステージは、彼女のような人が、どうしても見たいと思うようなものじゃない。だったらフュレプ、彼女はそこにいた君が何者か、確かめようとしたんじゃないのか」
「ふむ」
チーズをかじりながら、フュレプはあの朝のことを思い返してみた。目に映ったマルーシャの姿を、細部まで正確に憶えているという自信がある。すると確かにフェレンツの言うとおり、彼女の目はフュレプの姿を“ざっと見た”のだった。まるで観察するかのように……
「なぜ彼女がそんなことをする必要があるんだ」
「それが解らないから、僕も彼女の“絵”を頭に描けないし、曲も描けないんだよ。しかしそれが彼女の“影”だと思うね。ストーリーが作れないのなら、せめてもう一度観察する機会が欲しいよ」
「今日、来る」
「何だって?」
「絵を見に来るんだ。アトリエに。僕が絵を売った人が、持ち寄ってくることになってる。彼女の依頼でね」
フュレプが言うと、フェレンツは身を乗り出した。
「そういうことなら、同席させてもらえるかい? ファルカスも」
「いいとも」
「しかし彼女がわざわざ見に来るとは、君の絵をかなり認めているようだな。これを機に君の名が売れるようになるかもよ。嬉しいことじゃないか」
「そうであって欲しいものだな」
だがフェレンツ自身は、そんな先のことはどうでもよかった。今は『
【By 主人公】
ホテルに戻って荷物を置き、自転車に乗って国会議事堂へ。エルジェーベト公園の脇から10月6日通りを走り、自由広場に突き当たったらクランク上に2回曲がってナールド通りへ。開けたところに出ると、そこがコシュート・ラヨシュ広場で、国会議事堂の正面だ。午前中だが、観光客で賑わっている。
朝のランニングでマルギット島へ行くときは、川沿いを通るのでいつも裏側から議事堂を見ているが、今日は久々に正面を見た。
建物の前をずっと通り過ぎて、北側にある
団体客で雑踏しているが、それとなく見回していると、中年の女が近付いてきて「ドクトル・ナイト?」と訊かれた。中年……いや、若いのかもしれない。中途半端。ハンガリー人の顔は年齢が解りにくい。
「そうだ。ここでチケットを買えばいいのか?」
「身分証をお見せください。それで登録しますから」
財布から例のカードを取り出す。女の持つ
「ツアーは15分おきに出ていますから、次かその次の回にお入りください。それまではスーヴェニール・ショップでもご覧いただければ」
女がツアーの入口とスーヴェニール・ショップを手で指し示す。入口は空港のセキュリティー・ゲートのように、金属探知機と荷物用のX線スキャナーが並んでいる。ショップの方は、これも空港と同じような感じで、土産物は菓子が多い。国会議事堂に来た記念品って、他に何があるのかね。あっても買わないんだけどさ。
ツアー出発の案内があったので、入口へ。手荷物を持っていないので、金属探知ゲートをくぐるだけで終わる。
ところでツアーは各国語のがあるようなのだが、俺が参加しようとしてるのは英語かハンガリー語なんだろうな。ガイドの女――これもまた年齢がよく解らない――に話しかけてみると、ハンガリー語だった。
そのガイドとゲートを抜けたところで待っているのだが、なかなかツアーがスタートしない。手荷物検査に時間がかかっているようだ。空港と同じだな。何度も金属探知機を通り直させられている奴もいる。ポケットの中の物を洗いざらい出せよ。5分も待って、ようやくスタートした。
まず細い通路を歩く。恐らく、議事堂につながる地下道だろう。ただの通路のはずだが、赤絨毯が敷かれていて、天井から下がっている照明も豪華。至るところに金の装飾がある。
そして最初の見所である“大階段”に至る。立派な階段というのは国立博物館でもそうだったが、要するに下から上まで広い吹き抜けになって、太い柱が立っていたり、アーチ型の天井に華美な装飾が施されていたり、というのに過ぎない。階段は上下に行き来できればいいのであって、必要以上に装飾が多いのは、個人的に好まない。凝るなら部屋に凝ればいいんだよ。
続いてセントラル・ホール。これが例の16角形のホールで、王冠やその他の宝物が展示されている。残念ながら写真撮影は禁止。衛兵が二人立っていて、観覧客たちに睨みを利かせている。衛兵は毎正時に交替するそうで、30分か45分に出発のツアーであれば交替するところを見ることができるそうだ。
王冠そのものは、これがそんなにすごいのか、と拍子抜けするほど装飾が少ない。古いものだからだろう。周囲にエナメル画がいくつもはめられているのが特徴かな。
次に進むと、
それから
ちなみに、
最後に展示室。議事堂のミニチュアや図面、歴史が書かれたパネルなどを見ることができる。そこからスーヴェニール・ショップに直結している。1時間で全て見終わった。
で、ターゲットのヒントになるようなものが、何かあっただろうか。ステンドグラスに西風の神が描かれてたかというと、そんなことはなかった。考えても全く解らない。
昼食にはまだ時間があるので、
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