#15:第6日 (5) ゲッレールト温泉
【By 主人公】
ホテルへ戻り、アネータの報告を受ける。
「歌劇場の観覧の件は」
「他には誰も。案内は館長だそうです」
「館内観覧の後で、歌でも聴いたりするのか」
「今夜のオペラ・コンサートのリハーサルが見られると」
マルーシャの公演があるわけじゃないのか。
「美術館の件は」
「予告状の全文をご覧になりますか?」
「ハンガリー語だろ。英語に翻訳してるなら」
「翻訳しました」
得意そうな顔をするな。それで普通なんだよ。
“明日、8月20日、午前2時
『
「アネータ、君はこういう子供っぽいことをする泥棒をどう思う?」
「わざわざ犯行予告をする必要なんてないのに、目立ちたいのかしら、と思います」
「それは予告したことそのものに対する感想だよな。盗犯に及ぶ上で、予告状を出したことの利点は?」
「警備が厳重になるだけで、利点なんてないと思いますけれど」
「ところがそうでもない。警備を厳重にするいうことは、普通は、警備に携わる人数を増やすということだ。そうすると、その中に紛れ込むことができるだろ」
「そんなにうまくいくでしょうか。知らない人が紛れ込んでたら、それだけで怪しい人だと判ってしまうのでは」
「泥棒は変装が得意かもしれんよ」
「警備員に変装しても、絵を盗むのは難しいですよ。他の人が見ています」
「盗むんじゃない。外して他の場所へ移すんだということにすれば」
「でも、それは館長や主任刑事の許可がないと……」
そこまで言ってから、アネータは気持ち悪そうな表情になって俺をまじまじと見た。そんな顔するなよ、俺が盗むわけじゃない。
「まさか、泥棒が館長や主任刑事に変装して潜り込む? それこそ映画か小説ですよ!」
「でも、それが一番成功する確率が高いはずだよ。とはいえ、俺が美術館や警察に口出しできる立場でもないから、放っておくんだがね。ところで、予告状が出たことで、コヴァルスキの絵画に関して流れた噂を、プレスが改めて掘り起こしたんじゃないかと思うが、どうだろう?」
「はい、この前挙げた三つ以外にもいろいろありましたが、どれもつまらないものばかりで」
君が言った三つって何だっけ。ショパンの未発表作品、富豪の隠し財宝、黄金列車だったか。もちろん、俺が知りたいのはそんなのじゃない。
「とりあえず見せてくれ」
タブレットを渡された。三十数項目が並んでいる。絵の中に暗号でメッセージが隠されてるってのが多い。それだったら何でもありだ。
ダフネが言おうとしたのは何かなあ。コヴァルスキ自身に関係することだと思うんだけど、リストにそういうのはないな。これももしかしたら、ダフネたちがプレスに流した偽情報じゃないのか。肝心なのを外して。
仕方ない、ダフネに訊くか。明日の朝と言っていたが、たぶん今夜あたりまた会えるだろう。折良く、電話が架かってきた。アネータが出て、「お客様が……」と言う。
「ゲッレールト温泉へ行くのに何を持って行ったらいい?」
「はい、水着、スイミング・キャップ、バスタオル、サンダルと、それらを入れる袋、それに脱いだ服を入れる袋……え、今からゲッレールト温泉へ行かれるんですか?」
「そうだ。水着は持っているが、他のものは借りられる?」
「はい、もちろん……え、マルーシャ・チュライ
彼女だけじゃない、ジゼルも一緒だ。
「そうだ。誘われたんでね」
「…………」
何だ、そのいやらしい男を見るような目つきは。誘われたって言ってるだろうが。「すぐ行く」と返事させ、鞄から水着を取り出す間に、アネータにはその他のものを準備させる。もちろん、サンダルなどはコンシエルジュ・デスクへ取りに行かねばならない。
とりあえず、ロビーへ降りる。ソファーにジゼルとマルーシャが座って待っていた。ジゼルの服装は紳士物のホワイト・シャツに細身のスラックスなので、男に見える。対してマルーシャは、ミント・グリーンの半袖シャツに、ゆったりした紺のロング・スカート。そしてたまに見かける大きめのキャペリンを被っていた。
「やあ。もう少し待ってくれ。準備中なんだ」
「僕らはちっとも構わないよ。僕は一日中予定がないし、マルーシャは午後からだものね」
「ところで、どうして俺を温泉に誘った?」
「日曜日の約束を、まだ実行してもらってなかったからさ」
やっぱりあれを憶えてたんだな。
「もっと根本的な理由も知りたいね」
「簡単だよ。アーティーの裸が見たかったんだ」
堂々と言うなあ。ジゼルの場合、それを言ってもいやらしく聞こえないからいいけど。
「マルーシャをなぜ誘った?」
そのマルーシャはさっきから俯きがちで、視線を合わせようとしない。人目を憚っているようにも見える。
「彼女が行きたいって言ってたからだよ」
「俺と一緒に行くのは問題ないのかね」
「嫌なら嫌って言うと思うけど」
ジゼルがマルーシャの方を見たが、マルーシャは顔を上げようともしなかった。
「ああ、そうだ。彼女は今、変装してるからね。温泉で、他の人にマルーシャと気付かれないためにさ。だから今日一日は違う名前で呼ぶことにするから。アンナって呼んであげてね」
イタリアのステージでの名前だな。彼女の定番の偽名の一つなんだろう。
「それと、いつもみたいな笑顔は見せないらしいから、気にしないであげて」
いや、俺は彼女の笑顔を見る方が違和感があるんだけど。ジゼルは笑顔でないマルーシャを見たことがないのか?
アネータが、タオルなどが詰まった布バッグを持ってきた。「
ゲッレールト温泉まではもちろん、路面電車。ホテル前の電停から乗る。ここでようやく、変装後のマルーシャの顔をちらりと見ることができた。ウィッグを被っているらしく、髪は黒。長さは肩の上まで。目元と口元がいつもと違っている。別人とまでは言えないが、似て非なる女――少なくとも「似てるけど違うだろう」と思うような――に見える。しかし、マルーシャだと固く信じながら見れば、彼女に見えるという奇妙なことになっている。
8分ほどで温泉前の電停に到着。建物の前に
アール・ヌーヴォー様式の荘重な6階建てで、ファサードはまるでホテルか美術館、というところだが、実際に“ホテル・ゲッレールト”でもある。ホテルは1918年に建てられたが、温泉はもっと昔、少なくとも13世紀から利用されてきたらしい。
入ると、天窓の付いたアーチ天井の明るいエントランス。料金を払って更衣室へ。確か、キャビンは個室だけどロッカーは男女共用、とジゼルは言っていた。
「もちろん、3人で一つのキャビンを使うからね」
はあ、そうなると思ったよ。君はともかく、マルーシャもきっと俺の前で着替えるのを恥ずかしがらないだろうな。
オレンジのドアが付いたキャビンは、3人で着替えるには少々狭い。壁を見ながらさっさと着替える。女たちは服の下に水着を着てきた、と期待していたのだが、甘かった。後ろでジゼルがマルーシャに「水着を見せてよ!」などとはしゃぐ。ええい、さっさと着てしまえ。
「柔らかい胸だなあ。直接触るといっそう柔らかく感じるね」
触るな、感想を漏らすな、前にも触ったことがあるみたいなこと言うな。俺だって触ってことくらいあらあ。服の上からだがな。
5分ほどもかかってようやく着替えが終わり、ジゼルが「水着を見てよ!」と言うので見ると、女子陸上アスリート姿。やっぱりランニングの時のは水着だったか。マルーシャは白のワンピース水着だが、競泳用ではなく、肩紐が細い。胸の谷間の深さからは目を背けておくことにする。
「マルーシャの身体は女性らしいプロポーションで素敵だよね。アーティーも男性らしい筋肉質で、すごく素敵! 後で触らせてね」
どこで触るつもりだよ。温泉の中でか? それより君、ランニングの後で整理体操をしなかったから、温泉の中でマッサージしておいた方がいいぜ。
更衣室を出て、先へ進むと屋内のプール。大きさは、普通の25メートル競技用と同じくらい。天窓があって明るく、プール・サイドに円柱が立ち並んでいるのが独特の景色。ゲッレールト温泉を紹介するのに、ここの写真がよく使われるらしい。
もちろん温水で、浸かっていてもいいのだが、基本は“プール”として使う、つまり泳ぐところであるらしい。夏場は外の方が気持ちいいらしいので、外へ出る。
半円形の庭の先に、先ほどより一回り広いプールがある。長さは40ヤードほど。泳いでいる人がいないのは、浅いからだ。膝くらいまでしかない。プール自体は深さが7フィートほどある。だから、プール・サイドから梯子で下りなければならない。いや、向こう側に階段があるか。あちらの方がさらに浅いようだ。
客はまばらで、30人ほど。女はビキニもいればワンピースもいる。年配の女は概してよく太っている。それは男も同じかな。
タオルなどをプール・サイドに置き、ジゼルが子供のように喜びながら、マルーシャの手を取ってプールに入る。そのプールの横に、長さ15ヤード、幅8ヤードほどの小さいプールがある。こちらはまさに“温泉”の風情。みんな座って入っている。
「アーティーも一緒に入ろうよ!」
俺を呼ぶな。二人で入ってりゃいいだろ。しかし、帽子を脱いで黒髪になったマルーシャは、よく見ないと別人に思ってしまう。今はあの程度だが、実は全くの別人にも変装できるのではと思う。問題は、あの大きな胸をどうやって隠すか、だよな。少なくとも、ジゼルに変装するのは難しいぜ。
ジゼルが何度もしつこく声をかけてくるので、仕方なく広い方のプールに入る。「温かくて気持ちいいね」と言いながら、ジゼルは俺の身体を遠慮なくベタベタと触ってくる。俺の身体だけでなく、マルーシャの身体も。後ろから胸を揉むな! マルーシャもさほど恥ずかしそうでないのはなぜだ。
さりげなく二人と距離を取ろうとするが、しばらくするとジゼルが気付いて俺を呼ぶ。何度も名前を呼ばれると逆に目立つので、近くにいるしかない。
それから狭いプールへも行く。並んで座りながら、ジゼルがやはり水中で俺の身体を触ってくる。股間を触ってこないだけましか。
二つのプールを何度も行ったり来たりし、時にはプール・サイドで身体を乾かしたりしながら、1時間ほど過ごした。そろそろ出て、国会議事堂へ行く時間だ。
「僕らはもう少しここで過ごしてから、美術館へ行くよ」
「あんな犯行予告が出た後じゃ、きっと満員だぜ」
「平日の午前中だから、大丈夫だよ。午後からはどうか知らないけどね」
まあ、それはそうかな。キャビンで一人で着替えてから、外へ出た。
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