#15:第6日 (3) ニュースと朝食

おはようございますヨー・レッゲールト・キーヴァーノク、ジジ、それにアーティー! とても気持ちのいい朝ですわね」

 俺の横に人がいるときのマルーシャは、いつもこういう愛想のいい笑顔なんだよなあ。前のステージでかなり長い間見たけど、今だに慣れない。

おはようボン・マタン、マルーシャ!」

おはようモーニン、水泳の帰りだって?」

「ええ、この島にはとても立派なスイミング・クラブがあって、気持ちよく泳げるのですわ。あら、そちらの方は?」

 マルーシャが泳ぎが得意なのは前のステージで知ったが、水着姿を見てないんだよなあ。今の姿は、袖なしの白ブラウスに、裾がゆったりと広がったブルーのパンツ。彼女らしからぬカジュアルな装いだが、普段着ではこんなものなのか。

「俺の友人だ。君に紹介しようと思ってね。ダフネ・コヴァルスカ。ポーランドの数学者だ」

 彼女自身が名乗ったコヴァーチ・ダフネとは違う名前を言ってしまったが、構わないだろう。コヴァルスカの方が本名に違いないんだから。

「コヴァルスカ……というと、確率論の分野で名前を聞いたことがありますが、その方でしょうか?」

 君、やっぱり知ってるんだなあ。俺は昨夜、ユーノから聞いたばかりなんだぜ。アネータに論文を探させたけど、まだ読んでないんだ。

「数学者を目指していたのは昔の話ですわ。それに、その論文以外、注目されたものはないんです。でも、ご存じでいてくださったなんて、光栄ですわ」

 ダフネ・コヴァルスカであることを否定しなかったよ。やっぱりコヴァーチの方は偽名、というかハンガリー風にした名前だったんだ。

 俺が感心している間に、マルーシャとダフネはビズ。なぜここでフランス風挨拶。それからマルーシャはジゼルともビズ。え、俺ともするの? いいのか。

 マルーシャらしからぬ、塩素クロリンの香り。ああ、そういえば、彼女がディーラーに変装していたときに、ビズをしたことがあったんだった。じゃあ、初めてじゃないな。

「ぜひお話を伺いたいですわ。でも、ここで立ち話というわけにもいきませんから、私の泊まっているホテルへ……フォー・シーズンズへいらっしゃいませんか? お時間があるのなら、今からでも……」

「ありがとうございます。伺いますわ」

「僕も一緒に話したい! いいよね?」

「ええ、もちろん」

 さて、俺の役目は終わった。自転車で帰ろう。おい、どうして3人で俺のことを見てるんだよ。

「ダフネは、アーティーとも話したいんだよね?」

「ええ、ぜひ皆さんでお話を」

 そういうことかよ。でも、話すのってどうせ絵画泥棒のことだろ。ホテルでそんな話をしていいのか。

「シャワーを浴びて着替えてからでないと」

「もちろんだよ。僕もそうするもの。二人は朝食を摂りながら待ってて。僕も後でレストランへ行くから」

 どうしてジゼルが仕切ってるんだ。全くの部外者だろ。で、君らはここへどうやって来た? マルーシャは路面電車トラムか。ジゼルも? その格好で乗ったのか、大胆だな。ダフネは妹に車で送ってもらった、と。じゃあ、俺は自転車で先に帰るから。

「レストランには僕かマルーシャの名前を告げたら入れるからね!」

 朝食代くらい自分で払うよ、心配するな。それにしても、どれくらい話をするつもりかな。長引いたら、アネータに部屋に来てもらう時間をずらすよう、言わないといけなくなる。

 ホテルに戻ったら、そのアネータがロビーで待っていた。どうした、何か連絡でもあるのか。

「外へ朝食にいらっしゃるそうで……」

 どうしてそんなこと知ってるんだよ。ジゼルが電話してきたって? 余計なことを。

「お戻りになる前に連絡していただければ、そのタイミングでお部屋へ行って、本日の予定を確認することにしますから」

 面倒だから、今からやった方がいいんじゃないのか。どうせ大した予定はないんだろ。部屋へ戻る前に終わりそうだぜ。とりあえず、エレヴェイターに乗ろう。

「本日は10時から国会議事堂の観覧、1時から国立歌劇場の観覧となっています。歌劇場の方は、マルーシャ・チュライさんアッソニとご一緒だと」

「マルーシャと……昨日の夜には、そんなこと言ってなかったじゃないか」

「今朝、歌劇場に確認したら、そうなっていましたので」

 彼女とは二人きりで会わないように、裁定者アービターから警告されてるんだぜ。

「他にも一緒の人物がいるか、確認を」

「イエス・サー」

「歌劇場の観覧の後は?」

「ありません。3時に終わりますが、以降はご自由に。それは昨夜お伝えしたとおりです」

 エレヴェイターがフロアに着き、部屋まで歩く。

「ところで、美術館に泥棒から予告状が来たのを知ってるか」

「はい、大ニュースになってますが……」

「詳しいことを調べておいてくれ。昨日、見に行ったばかりだから、気になる」

「イエス・サー」

 部屋へ入る前に終わってしまった。しかし結局、後でもう一度報告を聞かなきゃあな。

 シャワーを浴び、着替えてフォー・シーズンズへ。レストランで朝食のビュッフェ利用を申し出る。窓際の明るい席で、美しい女が3人――一人はハンサムな男に見えなくもないが――楽しげに朝食を摂っている。周りの客から注目を浴びているようだし、席に加わるのは気が引けるねえ。

「サリュー、アーティー!」

 ジゼルが目ざとく俺を見つけて声をかけてくる。おかげで俺まで注目を浴びることになった。20分は遅れて来たはずだし、もうおおかた朝食は終わったんじゃないのかね。いや、マルーシャはいくらでも食うか。

「アーティー、マンガリッツァ豚のハムがおいしいから、取っておいたよ」

 ジゼルが隣の席を俺に勧めながら言う。

「ありがとう。だが、お薦めなら自分で取りに行くよ。その皿は君が……」

「でも、もう無いから」

 無いとは? ジゼルが前の二人の皿を指差す。マルーシャとダフネの皿に、ハムが大量に載っている。あー、君らが全部取ってきたってこと? いや、マルーシャが大食いなのは知ってるけど、ダフネもそうなのか? ジゼル、君ももっと食べた方がいいんじゃないか。そうしたら胸が。

「何?」

 胸を見たつもりはないが、何か気付いたのか?

「いや、何でもないよ」

 言ってから、料理を取りに行く。トーストとスクランブルド・エッグとサラダ。飲み物はオレンジ・ジュース。席に戻って、何の話をしていたのか訊く。

「美術館に泥棒が予告状を送った件ですわ」

 ああ、やっぱりね。でもダフネ、それって君が送ったんだよなあ?

「美術館には最新の盗難防止システムが導入されたのに、どうやって盗むのでしょうね」

「システムの穴は常に“人”だよ。だから人を騙すんじゃないのかね」

「ドクトル・ナイトの理論で、そんなことができますかしら?」

 あれで計算できるのは確率だけだよ。それは昨日説明したじゃないか。

「俺は人を騙すことが苦手でね。君たち3人も同じじゃないのかな」

「僕はアーティーになら騙されてもいいよ」

 ジゼルがトーストの間にハム、ベーコン、レタスなどを挟んで、サンドウィッチを作って食べている。俺の話を全然聞いてないな。

「昨日、マドモワゼルと博士ドクトルは美術館を見に行かれたそうですね。絵はいかがでしたか?」

「マルーシャはとても感動していたようだ」

「ええ、画家のラカトシュ・フュレプさんウールに鑑賞の方法を伺って、『西風ゼピュロス』がとても素晴らしい作品であることが理解できましたわ。他の3枚も見てみたかったです」

博士ドクトルは?」

「俺は絵画を見てもあまり感動しないんだ」

「でも、『西風ゼピュロス』や他の3枚は、違った鑑賞法もありますのよ」

「ほう、それは“噂”と関係がある?」

「ええ」

「4枚集めると宝の地図にでもなるのかね」

「それに近いですね」

「君はそれを知っているのか?」

「ええ」

「じゃあ、君はやはりコヴァルスキの……」

 突然、ジゼルに顔を掴まれて横を向かされ、唇を奪われた。コーヒーの香りがするキスだ。朝食の席で何てことしやがる。

「それは言わなくてもいいんだよ、アーティー」

 みんな解ってるから? 嬉しそうな顔をして言うな。

「その真実を俺たちに教えてくれる?」

「盗まれた後であれば」

「じゃあ、今夜は期待しておこう。美術館から生中継ライブがあればいいな」

「あなたはきっと呼ばれると思いますわ」

「警察から?」

「美術館からです」

「どうして」

「あなたが論文をお書きになったから」

「じゃあ、アカデミーはあれを参考にしてたのか」

「もちろん」

「ドクター・ネーメト・ヤンカが声をかけてくると」

「きっとです」

「じゃあ、昼寝しておいた方がいいかな」

「いいなあ、僕も見に行きたい」

「マルーシャ、君も興味がある?」

「あの警備システムを見た後では、そうですね。でも、できれば盗まれないで欲しいですわ」

 君が盗みそうな気がするよ。でも、あれはきっとターゲットじゃないぜ。

「明日、君たちに話せるように、色々と憶えておくよ」

「楽しみですわ」

「アーティー、この後の予定は?」

 絵の話はもう終わりかよ。俺が来るまで、もっと濃い話をしてたんじゃないのか。

「10時から国会議事堂の観覧、1時からは国立歌劇場の観覧だ」

「じゃあ、10時まで時間があるんだね。一緒にゲッレールト温泉へ行こうよ」

 そういえば初日に誘われたな。いや、行く約束をしたわけじゃないはずだ。しかし、断る理由がないのが痛い。

「そうだな、少し覗きに行こう」

「よかった! マドモワゼル・マルーシャも一緒に行くって」

 何だと? マルーシャが脱ぐ……いや、水着になるのか。別にそれが嬉しいわけじゃないが、どうして一緒に温泉へ行く気になってるんだ? 顔を見ても、愛想のいい笑顔を浮かべているだけで、真意は解らない。

「私はブダペストに来ると、いくつか温泉に入るのを楽しみにしているんですが、入っていると知らない人たちから声をかけられて、おしゃべりをしなければいけなくて、ゆっくり楽しめないことが多いんです。あなた方が一緒なら助かりますわ」

 まあ、温泉に限らず、君ならどこへ行っても一人じゃ落ち着いていられないだろうな。でも、男避けならジゼルでも十分……とはいかないか。

「ダフネも誘ったけど、他に用事があるんだって」

 そりゃ、泥棒の準備だろ。偵察とか、他の競争者コンテスタンツに会いに行くとか。

「じゃあ、明日の朝もマルギット島で会うことになるかな。おっと、俺は明日は1時間遅くするんだった」

「お待ちしていますわ」

「アーティー、後で君のホテルへマルーシャと迎えに行くからね」

 朝食を終えて解散する。ジゼルやマルーシャと一緒に温泉へ行くなんて、いったい何が起こることだろうか。

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