#15:第5日 (10) 誘いの言葉
【By 盗賊】
男のペースに乗せられないためには、男に好かれるようにしないこと。それにはまず、男が好きそうでない服を着ていくこと。
ダフネから教えられ、ドリナにはコーディネイトまでされてしまった。確かに、ディナーとしてはぎりぎり許されるインフォーマルだろう。ただし、女性向けではない。
「チャルノク・ヴェンデーグルーならそれで十分よ」
「でも、あんたはそれでいいわけ?」
ディアナはドリナに訊いた。ドリナはこれからラカトシュ・フュレプのアトリエを訪問するのだが――完全に押し掛けなのだが――、彼女もまたさほど女らしくないパンツ・スーツ姿だ。ブラウスの胸の開き具合が、ディアナより少し広いくらい。
「たぶん、この方が彼は安心するわ。
「
ドリナの方が身長はだいぶ低いが、プロポーション的には負けていない。それにダフネほどではないが美形でもある。なぜ、同じようにしないのか。
「彼女はどうやら、彼にとって特別な存在みたいなのよ。今の時点でそこまで踏み込むのはダメ。むしろ、警察官に近いくらいのお堅い感じでいく方が確実」
「そういうものかしら」
「そういうものよ。そのうち解るわ」
なぜ今の時点で解っていないのかというと、理由は簡単で、ディアナは男から声をかけられることが少ないからだ。無くはないが、かけてくる男は、なぜかディアナの好みではない……
今夜の相手もそうなのだが、今夜に限っては好き嫌いを言っていられない。適切にあしらって、相手の目的をはっきりさせること。どんな条件を出してきても、「考えさせてもらうわ」と言うこと。隠し事をさせないこと。
タクシーでチャルノク・ヴェンデーグルーへ向かう。店に入ってウェイターに名を告げると、「お席でお待ちです」と言われた。案内されて席へ行くと、クリストフは立ち上がって快活な笑顔でディアナを迎えた。ディアナはできる限りの冷笑を浮かべながら、彼と握手をした。
「
「何のことかしら?」
とぼけながら、ディアナはクリストフの服を観察した。ディアナ自身と同じような、インフォーマルとカジュアルの境界のコーディネイトだ。まさか、こちらのやることを見抜かれていたのだろうか。あるいは、これが普通で、ディアナが解っていないだけかもしれないが……
「言葉どおりだよ。君は自分に似合う服がよく解っている。それに、今日の場にもふさわしいね。場所はディナーだが、話したいのはビジネスに近い内容だから」
デートでないという意味だろうが、ほっとしたような残念なような。そもそも、服を選んだのはディアナ自身ではないので、褒められても嬉しくも何ともない。おかげで、油断せずに済む。すぐに前菜が運ばれてきた。
「それで、何の話?」
「そんなに焦らず、ゆっくり食事をしながらでどうかな」
「食事が終わるまでに済まないかもしれないわ」
「そう、確かに、話すことは多いからね。今朝、
「知らないわ」
否定してもきっと話そうとするに違いないから、否定しておく。
「そうか。その絵は泥棒に狙われているらしくてね。ここ3ヶ月ほどで既に3枚のコヴァルスキの絵が盗まれている。4枚組で、『
そんなことは噂にすらなっていないはずだが、これまではほぼ4週間ずつ開いていたから、そう予想されても仕方ない。単に、新月の夜を狙っただけだ。次の新月は金曜日。
「来る日が予想できるのなら、警備は楽でしょうね」
「そう。だが、美術館と警察は、単に警備員を増やせばいいとは思わなかったようでね。新しい警備システムを開発したんだそうだ。科学アカデミーと大学の協力を得て」
「大袈裟なのね」
「うん、『
「そんなことするくらいなら、売ってしまえばよかったのに」
そうするかも、という期待はあった。展示しているときよりも、売買するときの方が盗みやすいから。だが、美術館は別の選択肢を選んだようだ。
「しかしその価値は、狙われる前のものだからね。今は跳ね上がっただろうし、見に来る客も増えるだろうし、泥棒から守り切ったらもっと増えるだろう。科学アカデミーや警察の評価も上がる」
スープが出てきた。鯉のハラースレーか。
「それでも『モナ・リザ』や『ひまわり』が持つ価値には到底及ばないと思うわ」
「しかし、4枚の絵を集めると、途方もない価値が生まれると噂されているよ。知っていると思うけど」
「いいえ、知らないわ」
その噂はもちろんディアナたちが流した。どれも根も葉もないものだが、“本当の価値”は噂にもしていないし、ディアナたち以外に知る者もないはず。
「そうか。では、その話はやめておこう。さて、美術館がどんな警備システムを導入したか、話そうと思うんだけど」
やはりその話を出してきた。本当なら
「興味がないわ」
とにかく、そう言うことにディアナは決めていた。相手は取り引きしたがっているはずで、ディアナたちでなければ他の誰でもいい、というのでもない。そういう点では、ディアナたちの方が強い立場にある。何もしなくても、相手がカードをさらすはずなのだ。
「もう知っているのかな?」
「いいえ、何も」
見るには見た。ダフネとドリナが変装して、午後から美術館へ行き、『
もちろん、警備システムの仕掛け自体は判らない。が、やりたいことが判っているのだから、仕掛けを想像するのは簡単だ。
要するに、カメラで絵に近付く者を検出するのと、ガラスが簡単に外せないようにするのと、2点。どんな理論を使おうが、知ったことではない。
ただし、ダフネは頭がいいから、いろいろと想像していた。例えば、ある研究者が論文に書いた理論を応用しているのではないかとか……
「見かけは面白かったんだが、やっていることは単純でね。カメラで動体検知をすることと、絵に触れるのを防ぐこと。どこの美術館でもやっていることだ。ただ、そのお披露目に立ち会ったり、理論を具体的に紹介してもらうのは初めてだったので、その点では興味深かった」
「そんな警備システムを付けるより、展示をやめてしまえばいいんだわ」
「僕もそう思うよ。そして本物はどこかに隠しておく。実際、そうしてるんじゃないかな」
「あら、どういうこと?」
「興味が出てきたのかな?」
「そういうわけでもないけど」
「ラカトシュ・フュレプという画家がいてね」
主菜が出てきた。ベーチ・セレット。元はオーストリアのヴィーナー・シュニッツェル。ドイツでもよく食べられているはずだ。
「プロの画家ではないが、芸術一家の一員だし、実力があるのだろう。彼はコヴァルスキの信奉者で、特に『
模写のことまで知っているとは! もしかして、
彼女は男性に認められたがっていて、特に権威に弱い、とダフネが分析していた。その反動か、実力がありながら認められない男性を見出して保護したがる、という部分もあって、それがラカトシュ・フュレプの模写を利用することにつながったようなのだ。
「見ただけで判ったの? あなたも芸術家の素質があるのかしら」
「そういうわけじゃない。絵の中にフローラという女神が描かれているんだが、その表情が違ったんだよ。今朝、ラカトシュ・フュレプが自身で解説していた。絵の最も注目すべき点であり、それにこだわって模写したとね。それで気付いた。そういえばあの時の、彼の絵を見る目つきからすると、本物だったんだろうな。その後、どうなったかは判らないがね」
それはもしかしたら、有意義な情報かもしれない。ダフネやドリナもその点を確認してくるだろうか。
「とてもいいわ」
「気に入ってくれてよかった」
「このベーチ・セレット」
「うん、いい子牛肉を使っているね。ブダペストに来てからは豚肉を勧められることが多かったんだけど、久しぶりにヴィーナー・シュニッツェルが食べたくなったんだ」
相手は目的も条件も言わない。はぐらかそうとしても平気な顔だ。何をしようとしているのか、ディアナは判らなくなってきた。そうして迷わせるのが相手のやり方かもしれないのだが。
「ポーランドの話はしないのね」
「これから話すよ。君はポーランド系に見えるのに、名前はハンガリー風だね」
「ずっとこっちに住んでるからよ」
「いや、君のポーランド訛りは魅力的だよ。ところで、
「それが何か?」
「ハンガリーではありふれた名前のようだね」
「そうね」
「調べたんだが、職業に由来する名字らしくて、ドイツにも同じようなのがある。
しゃべってばかりなのに、クリストフの方がベーチ・セレットを早く食べ終わった。ディアナは味がしなくなってきた。
「教えてくれないか?」
「知らないわ」
「僕の勘違いでなければ、
「判っているなら、訊く必要ないんじゃない?」
「おっと、ポーランドでは名字に性があるんだった。女性なら
「そうかしら。ありふれているのは好きじゃないわ」
「
「ドイツ人の名前は好きじゃないの」
「君の姉妹にも意見を訊いてきて欲しいな」
ダフネやドリナと話をさせろということだろうか。だったら、最初から彼女たちに目を付ければいいのに。いや、私に姉妹がいることを、どうして知っているのだろうか?
ディアナは少し混乱した。デザートが出てきたので、落ち着いて考え直す。おそらく、ビアンカが彼の仲間だからだ。彼女は
「あなたが彼女たちに直接声をかけて、訊いてみたら?」
「そうしてもよかったんだが、どうもね」
クリストフはシュトルーデルを切り刻みながら、軽く苦笑いをした。ここでもシュトルーデルを頼むとは、よほど好きなのか。
「彼女たちより、君のことを好きになってしまったからね。だからつい毎日、
そんな言葉では騙されないわよ、と思いつつ、ディアナはナイフとフォークを持つ手が震えるのを感じた。
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