#15:第5日 (9) 尾行と接触

【By 盗賊】

 Aが歴史博物館トルテネティ・ムーゼウムから出てきた。南の裏口から出て行ったときのために、ドリナがそちらに配置していたが、杞憂だったようだ。B翼の花壇の前を通りすぎるのを見届けてから、ディアナはダフネに電話を架けた。

「ターゲットAは、そっちへ行ったわ」

 おそらくケーブル・カーフニクラーに乗るつもりだろう。ドリナが下へ先回りする時間は十分にある。

 Aから遅れて、クリストフらが門をくぐってきたのが見えた。Aだけが一人で急いで出てきたようだ。3人は一緒にタクシーにでも乗るのか。

 2時間ほど後で、ディアナはクリストフと会うことにしているが、今は見つからないようにしないといけない。十分に距離を取ってから、Aの後を追う。



【By 主人公】

 観覧が終わると、他の3人に断って、先に歴史博物館を出た。中庭を駆け抜け、回廊の門からは早足で歩く。T1はまだ見張っているか。いるな。もちろん、気付いてないことにしておく。

 さて、ここから国立博物館へ一番近いルートは。距離的には2マイルないくらいだから、走るというのも考えられるが、大汗を掻きそうなのでやめておく。ケーブル・カーフニクラーに乗って、麓の電停からゲッレールト温泉行きの路面電車に乗り、温泉前の電停で乗り換えてカルヴィン広場テール電停で降りる、というのがよさそうだ。

 ケーブル・カーフニクラーの駅に着くと、俺としては珍しく都合よく、2分待っただけで乗ることができた。T1は乗ってこなかったが、おそらくT2かT3が下へ先回りしているだろう。すぐ下に着いて、道路を渡り、クラーク・アダム電停へ。T2もT3も見かけないが、ちゃんと変装しているのだろう。朝、顔を見せに来てるからな。

 ここではいつもの俺らしく、8分間隔の電車を7分待って、南行きに乗る。待った時間より短く、6分でセントゲッレールト広場テール電停着。デアーク・フェレンツ広場テール行きは目の前に停まっていて、乗ると4分でカルヴィン広場テール電停に着いた。徒歩2分のところに国立博物館がある。5時半になろうとしているので、チケットを買おうとすると係員が怪訝な顔をする。

「あと30分で閉館です」

 最終入館が5時半と書いているにもかかわらず、これだ。どうしよう。“最後の切り札トランプ・カード”を使うべきか。黙って出すのは感じが悪いから、言い訳を付けておく。

「有名な展示品を、3点ほど見られればいいんだ。すぐに見終わる」

 渋い顔をしていた係員は、なぜクレジット・カードで支払うのだという感じでさらに不機嫌になったが、受け取ってそれをカード・リーダーに触れさせた瞬間、驚愕の表情に変わった。ディスプレイに注意表示でも出たようだ。

「あっ! あーっ、あー……」

 急にしゃべれなくなってしまったらしい。近くにいた別の係員にカードを見せ、二人で大慌てしている。おい、カードを俺の見えないところへ持っていくんじゃないって。一人がどこかへ走って行って、一人が窓口へ戻ってきた。

「あー、あー、すぐに、すぐに館長を呼びますから……」

「そんなことしなくていい。早くチケットを発行してくれ。見る時間がなくなる」

「いや、でも、あの」

「いいから早く」

 震える手でチケットとリーフレットを渡され、すぐさま中に入る。外套マントルはどこだ。おいおいおい、あの係員、ハンガリー語版リーフレットをくれやがった。まあ、いい。どうせ一番目立つところに展示してるに決まってる。

 大階段を駆け上がって、2階へ。立派な階段で、磨き抜かれた円柱が何本も立っていたり、壁に絵が掛かっていたり、天井画が描かれていたりするが、見ている暇はない。

 一番手前の展示室に飛び込む。これか? 外套マントルというから、マネキンに着せているのかと思ったら、ガラス・ケースの中に、カーペットのように広げて置いてあった。

 カーペットのように四角くはなく、半円形と言っていい。刺繍が見事だが、完全に色褪せている。説明を読む。ガラス・ケースに腐食を防ぐガスが入れてある? なるほど、このケースごと運ぶのは確かに大変そうだな。でも、日本人に任せたらやってくれるんじゃないか。

 他に、小さな胸像が置いてある。イシュトヴァーン1世。それから聖遺物箱レリクエリー。ちょっとあっけない。ターゲットのヒントにはなりそうもない。

 さて、目的は達したが、あと20分ほどある。他に何か見所は。リーフレットが、写真しか当てにならないのがなあ。"SZÉCHENYI"という単語があるが、これはセーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵の関連の展示だろう。見るべきかどうか、よく解らない。

 とりあえず、隣の展示室へ入ってみる。何だこりゃ、食器? 銀食器だ。これはすごい。“セウソ・トレジャー”という名が付いた、ローマ帝国時代の銀食器のコレクション。

 どうせ盗ませるのなら、こういうのにしてくれないかな。大量にありすぎて全部盗むのは無理だけどね。どれくらいの価値があるだろう。マイアミ・ドルフィンズQBクォーターバックの1年分の年俸とどっちが多いか。

 さて他に。東西交流の歴史というのがある。そういや、20世紀の終わり頃までヨーロッパは西と東に別れてたんだったな。何かありそうな気もするが、探すほどの時間はない。

 上の階へ行くと10世紀以降の歴史の展示。ここの方が歴史博物館より見る物が多い気がするなあ。石とか部屋とか階段とかの大がかりな物はないけど。

 館内の客が少なくなってきた。偉そうな感じの男が二人で、うろうろと走り回っている。きっと、財団の優秀な研究者を探してるんだろう。放っておく。もう出ようと思うし。



【By 盗賊】

「ターゲットAが国立博物館ネムゼティ・ムーゼウムから出てきたわ。博物館ムーゼウム通りを北へ向かってる。もちろん、歩いてよ。おそらく、ホテルへ戻るんじゃないかしら。そこで待っていたらいいわ。うまくやってね。……私? 自信ない。相手に任せるわ。……そこまでは考えてないって!」

 ディアナは電話を切って、ため息をついた。ダフネはきっとうまくやるだろう。しかし、自分にクリストフのような男の相手ができるだろうか。何かしら、裏がありそうなタイプだ。一方的に利用されないよう、注意する必要があるが……



【By 主人公】

 ホテルに戻るとアネータが待ち構えていて、「お客様がお見えです」と言う。とても複雑な表情。単語一つで表しきれない。ということは、客は女であるが、ジゼルでマルーシャでもない。たぶん、ユーノでもないだろう。さて、誰だ。

 ロビーのソファーに座っていた女のところへ、アネータが行く。女が立ち上がってこちらへ振り返った。25歳くらいの美女で、黒髪を腰まで伸ばしていて、身長は5フィート半……T2か。ここで待つくらいなら、T1に尾行させなくてもよかったのに。

こんにちはヨー・ナポート、ドクトル・アーティー・ナイト。初めまして、コヴァーチ・ダフネです。有名な財団の研究者がご滞在と伺ったので、ご研究のことをぜひお聞かせいただきたいと思って参りました」

 妖艶な雰囲気を漂わせているわりに、言葉遣いは丁寧で誠実だ。どっちを信用していいか解らん。

 そもそも、服装が悪い。白いオーガンジーの透けたブラウスに、黒いタイトスカート。膝丈だが、スリット入り。誠実さを表したいなら、もっと肌を隠して欲しいところだ。

「科学アカデミーや大学の関係者ではない?」

「関係者でないといけませんか?」

「そうは言わない。訊いてみただけだ。それで、何の話を」

「あなたの論文について詳しいお話が伺いたいんです」

「30分で済みそうか」

「この後にお約束でも?」

「7時から夕食」

 と言いつつ、アネータには予約しろと指示していなかった。

「ご一緒させていただきたいですわ。私の分は自分で支払いますから」

「そうはいかない。一緒に食事する女性の食事代は払う主義なんでね。ヘイ、アネータ」

ひゃうホッパ!? イエス・サー!」

 何を驚いている。世話係として心の準備が足らんぞ。

「ホテルのレストランを、7時から2人で予約」

「イエス・サー」

「それまで、彼女を部屋で歓待する」

「イエス・サー」

「君は退出せず、同室で待機すること」

「!? ……イエス・サー」

「どうぞ、部屋へ」

 エレヴェイターへダフネを先導する。もちろん、エレヴェイターのボタンはアネータが押すし、フロアに着いたら部屋のドアはアネータが開けるし、リヴィング・ルームの窓際の適切な位置にアネータが椅子を置く。

 そして、ドアに近いところにも椅子を置いて、アネータが座る。見張らせるのは、女が無茶しないようにということだ。無茶というのは暴行ではなくて、自分から脱いだりする行為のこと。あるいは、あからさまな泥棒の相談。

 改めてダフネを観察する。マルーシャのスラヴ系とも、ビアンカのラテン系とも違う、独特の美しさだ。オリエンタルでもない。ちょうどその三つのいいところをうまく配合したような感じ。ただ、はっと目を奪われるほどではない。逆に、しみじみと鑑賞したくなるような美と言うべきか。

「夕食が近いので、飲み物は水ということにさせてもらう」

「構いませんわ」

「それで、話が聞きたい論文とは」

 ダフネがハンド・バッグから出してきたのは『複数プレイヤーが相互回避行動を取る場合の行動競合率とフィードバック学習による競合率の変化について』だった。今回はこれが大人気だな。

「ちょうど昨日、大学の学生にも話してきたよ」

「それは好都合でした」

「君はこれをどれくらい理解している?」

「テストですかしら?」

「そう思ってもらっても構わない」

「論文内に示されているシミュレイションの例で、道路交通流の平衡状態が変化する場合ですと……」

 ダフネは、昨日俺が学生に対してしたのと同じような説明をやってのけた。彼女、本当に泥棒なのか? 普段は何の仕事をしてるんだ。

「そこまで解っているなら質問の必要なんてなさそうだけど」

「そうでもありませんわ。あなたのこの理論に基づいて、ある確率を計算していただきたいんです」

「何の確率?」

「初回のシミュレイションの結果が、最終的な平衡状態と同じになる確率です」

 平衡状態は数千回から数万回、数十万回のシミュレイションの結果として示される。もちろん、初回からその平衡状態に落ちる可能性もある。

 かといってその確率がシミュレイションの回数分の1、つまり数千分の1や数十万分の1というわけではない。なぜなら、それは“一番ありそうな状態”だからだ。ドット・マップにすると“濃いところ”という感じ。だから数十分の1とか……

「それを何に応用したい?」

 泥棒したときに成功する確率を計算したいのかもしれないけど、成功率99%でも失敗するときは失敗するぜ。一発勝負なんだから。フットボールなら、1ヤードない距離のQ Bクォーターバックスニークだって、時には失敗するんだよ。

「具体例を出せば計算しやすいのですか?」

「そう。カジノで儲けようというわけじゃないんだろう?」

「ええ、偶然に頼らない要素がたくさんあります」

「それならプレイヤーとフィールドの条件を示してもらう必要がある」

「プレイヤーはよく知っているのですが、フィールドで不確定要素がたくさんあるのです。でも、フィールドはあなたの方がよく知ってらっしゃるんですわ」

 美術館ガレリアのことか。しかし、俺だって隅々まで観察したわけじゃないぞ。それに、フロア内の通路配置や監視カメラの位置――こんなのはきっと彼女だって知ってるに違いない――なんかより、あのガラスの方が問題だ。ガラスの向こう側の絵を、どうやって外す?

「続きは夕食の後にしよう」

 7時になってしまう。

「夕食中にはご相談できませんか?」

「その後に約束でも?」

「いいえ、何も」

 ダフネは優美に微笑んで言った。俺には入りそうなんだけどな、ユーノから。

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