#15:第3日 (4) 模写と誘惑

【By 刑事(女)】

 絵が完成した、という連絡を受けて、ポーラはフュレプのアトリエへ行った。オーブダ地区の中心、フロリアン公園の東にある、古い屋敷の離れだ。母屋には家族が住んでいる。父母と兄と弟。いずれも芸術の関係者だ。父は彫刻家、母は劇作家、兄は詩人、弟は作曲家。

 ポーラは彼らのことももちろん知っているし、会ったこともある。しかし、あまり付き合いたくないと思っていた。芸術家だけあって、いずれも我が強く、話をしているだけでも疲れるから。フュレプだけがおとなしい。そのせいで、彼だけが芸術家として名を為していないのかもしれないが……

 日当たりのあまりよくない、薄汚れた小屋のドアを叩くと、フュレプが顔を覗かせた。彼だけがなぜ離れに住んでいるのかは、よく解らない。ひょっとしたら彼も家族を苦手にしているのかもしれない。

 意外に整理されたアトリエに入り、壁に立てかけられた絵をポーラは見た。それは質素な部屋の中で、はっきりといるように感じられた。

「ああ……」

 言ったきり、声が出なくなってしまった。コヴァルスキの元絵は頭に焼き付いている。フュレプの模写は、それを完璧に再現していた。だが、それだけではない、何か不思議な“勢い”のようなものを感じた。“勢い”が正確でなければ“生気”だろうか。

 その源はフローラの表情だ。フュレプはフローラのモデルを見つけたと言っていた。顔がそっくりというわけではないだろう。しかし、それがフローラに活かされているのは、おぼろげだが、伝わってきた。

 そうだ、これは元絵と完全に同じというわけではない。ポーラは認識した。元絵に込められたコヴァルスキの思いが、フュレプの持つ思いに解釈し直されて、カンヴァス上に投影されているのだ。細部が違っているかもしれないが、同じランクの芸術の域に至っている。だから“完璧”に見えるのだろう……

「素晴らしいわ、フュレプ。この絵は、模写というレヴェルを超えているかもしれない。以前、あなたが失敗だと言った模写でも、私は十分だと思っていたけれど、これを見ると、やはりあれでは至らなかったということが、はっきり解るわ」

「ありがとう、ポーラ。僕も自分で納得できるものが描けたのは、久しぶりだよ。模写だけどね」

 フュレプは控えめな笑みを見せながら言った。そこには満足感と共に自信が感じられた。

「あなたはきっと、成長したんだわ。壁を破ったとでも言うべきかしら。これを機に、あなた自身の作品も、納得がいくものを描けるようになるのかも。きっとそうよ。ところで、目印はどこかに付けてくれているのね?」

 模写であることを示す目印のことだ。カンヴァスの裏を見れば……などという面倒なことをせずとも、正面から確認できるもの。一目ではわからないが、知っているものだけが気付く何かを付けてくれるように、ポーラは頼んでいた。

「右の隅に、紫外線に反応するインクで署名しておいた。インク自体は透明だから、目には見えない」

 フュレプはそばのテーブルに置いてあったペン型のライトを取り、布でカンヴァスの右隅に影を作るとそこにライトを当てた。薄い青紫色で、"L.F"の文字が浮き上がった。

「問題ないわ。美術館ガレリアのライトは紫外線をカットしているから、通常で見えることはないはずね。さっそく、運び出してもいいかしら」

「もちろん」

「謝礼は今日中にあなたの口座に振り込むわ」

「ありがとう」

 運び出す前に梱包をしながら、ポーラは模写の出来映えに改めて感心していた。予定では、これを“囮”にすることになっている。しかし、本物の代わりに盗まれてしまうのも惜しい気がしてきた。元絵と並べて展示した方がいいのではないか。

 もっとも、ポーラは学芸員ではないから、この模写が元絵に劣らないほどの芸術性を持っていることに確信を持てないが……

「ところで、一つ訊いていいかしら。他の模写のことだけど」

 もちろん、何枚かあるはずの『西風ゼピュロス』の模写のことだ。

「あれが何か?」

 答えるフュレプの目が、不思議と泳いだようにポーラには見えた。さっきまでの満足した様子が消えている。

「それをもう1枚か2枚、追加で仕上げられるかしら。模写が1枚だけというのは少し不安なのよ。もちろん、謝礼は払うわ。これと同じ額を出せるかどうかは解らないんだけど……ああ、いいえ、まだ決定事項じゃないの。警察内部だけじゃなく、美術館ガレリアとも相談が必要だし。ひとまず、できるかどうかだけ聞かせてくれないかしら」

「期限は?」

「回答期限? いいえ、違うわね。例えば2枚の追加を、今日の夕方までにあなたに頼んだとして、いつまでにできればいいか、ということね? 木曜日の昼までならどうかしら」

「それなら問題なくできると思うよ。実は、これを完成するまでに、3枚ばかり失敗していてね。フローラの目の部分なんだ。だからどれも、その周辺だけを描き直せばいいだけになっている。一晩でもできるかもしれない」

「ありがたいわ、フュレプ! 主任たちと相談して、なるべく早く連絡するわ。ああ、それと……明日また、昼に会えるかしら? 今日はこれから警察本部へ行かなきゃならないから、時間がないの。それに、そのうち、夜にもね」

「解った。ありがとう」

 絵を車に運び込むのを、フュレプに手伝ってもらった。ここから警察本部は、アールパード橋を渡ればすぐだ。


 プレゼンテイション自体は10時から始まっていたが、ポーラの出番はもう少し後だった。今日の相手は世界的ソフトウェア企業マクロロジック社の特別研究員フェロー、クリストフ・ラインハルト。ゲーム開発部門の責任者らしいが、警察からのプレゼンテイションの内容は、一昨日と同じ。なぜかはよく解らない。きっと、他にすることがないのだろう。

 11時15分からのはずが、20分を過ぎてもお呼びがかからなかった。自席でとりあえず書類整理をしながら待つ。それがすっかり済んで30分になったら応接室へ呼ばれた。部屋へ入ろうとすると、廊下の向こうからその男が案内役の女性警官と一緒に来るのが見えた。横にいる案内役が、盛んに話しかけて男の気を引こうとしているのが明らかだったが……

やあスィアこんにちはヨー・ナポート。君は一昨日の。また会えて嬉しいよ」

 ラインハルトがポーラに気付き、爽やかな笑顔を見せながら挨拶してきた。ポーラも「こんにちはヨー・ナポート」と笑顔で返し、応接室のドアを開けて待つ。ラインハルトが入ろうとするも、案内役が名残惜しそうに話しかけて、なかなかドアを閉められない。ようやく席に着いたときには35分になっていた。

「遅くなって申し訳ない、ジョルナイ・ポーラさんアッソニ。ディスカッションに皆がいろいろと親切に答えてくれるものだから」

「よくあることですわ、ドクトル・ラインハルト。お時間がないようなら、私からのプレゼンテイションはいくつか省略することができますけれど」

「いや、省略することなく全部聞きたいね。午後からは大学へ行く予定だが、昼食の時間を短くすればいいだけさ。こんなこともあろうかと、サンドウィッチを買ってあるし」

「それはご用意のいいことですね。それでは始めます」

 内容は昨日とほぼ同じ。ハンガリーの犯罪統計、ブダペスト市内の統計、窃盗について。ただし、“財団”の研究成果を参考にしたところは省略。代わりに、最近新たに見られる傾向をいくつか列挙した。相手は時々満足げに頷いたり相槌を打ったりするので、ポーラはとても話しやすく感じた。

「この後は個別の事例を説明しますが、何かご質問は?」

「君の説明はとても解りやすいが、いくつか訊かせてくれ。この統計を、警察の幹部や主任級捜査員は全員把握しているだろうか?」

「資料は行き渡っているはずです」

「皆を集めて説明会をした方がいいと思うんだよ。今日のようにね。その方が意識付けに役立つ。読むだけだと、解ったつもりになってしまうことがあるんだ。君が説明する必要はないが、君のようによく理解した説明役が必要で、それに主任級を当てた方がいい」

「私は全てを理解しているわけでは……」

「説明するためには理解する必要があるから、真剣に資料を読んだだろう? その時に、自分の中で解釈し直したはずだよ。本当はみんながそれくらいする必要がある。君は今後そうしてくれると期待して、署長には僕の方から進言しておこう」

「畏れ入ります」

 50分になったら、案内役が呼びに来た。署長がラインハルトの“講評”を聞きたいらしい。出掛けなければならないので、時間どおりにやりたいとのこと。しかし、まだポーラのプレゼンテイションは終わっていない。

「この部屋はこの後も使える?」

 ラインハルトが案内役に訊いたら、使えますという答えが返ってきた。

「ジョルナイさんアッソニ、もし君に時間があるなら、ここでしばらく待っていてくれないか。先に講評を済ませて、その後で続きを聞きたい。全部済んでないのに講評するなんておかしなことだけどね」

「私は構いませんが」

 それでは、ということでクスリトフは案内役と共に署長室へ行った。その間にポーラはパタキ主任に電話して、模写の追加の相談をしようと思ったが、出てくれない。ピスティに電話したら、「来客と一緒に食事に出た」とのこと。することがないので、他のプレゼンテイション資料を読んでいたら、クスリトフが戻って来た。

やあスィア、済まない。講評は無事終わった。続きを頼むよ」

 君のことは一番褒めておいた、とクスリトフが言ったので、ポーラはつい頬を緩めてしまった。最近、褒められたことがほとんどなかったからかもしれない。昨日の財団の研究者も、好意的ではあったものの、褒めてくれはしなかった……

 続きを説明し、質疑応答をする。話せば話すほど、ラインハルトの印象はよくなるばかりだった。瞬く間に30分が経った。

「残念だが、そろそろ次のところへ行かないと。さすがに、遅れるわけにはいかないからね」

 慌ただしく応接室を出ながらラインハルトが言った。ポーラは案内役の代わりに玄関まで一緒に行くことにした。

「大学……エトヴェシュ・ロラーンド大学ですか? 私が車で送りましょうか」

「おや、君も地下鉄じゃなかったのかな?」

「今日は車なんです」

「送ってくれるのならとてもありがたい。地下鉄の中でサンドウィッチを食べるのは行儀が悪いからね。でも、君もお腹が空いているだろうし、その横で食べるのも申し訳ないかな」

「お気になさらず。私、昼食はいつも1時過ぎなんです」

 しかし、車にラインハルトを案内してから、「しまった」とポーラは気付いた。“模写”を後部座席に置いたままだったのだ。もちろん、梱包して見えないようにはなっているが……

「おや、これは絵画かな。事件の証拠物件?」

 助手席に乗ったラインハルトに気付かれてしまった。

「ええ、そのようなものです」

「そういえば、この1ヶ月でコヴァルスキという画家の絵が次々に盗まれてるんだってね。君も捜査に関係してるのかな。広域窃盗捜査課なんだろう?」

「いえ、その……あまりはっきりとは言えなくて」

「ああ、申し訳ない。捜査の秘密を聞こう思ったわけじゃないんだ。単に、興味だけでね。それはそうと」

 地下鉄駅のある複雑な交差点を抜け、ヴァーツィ通りに入った。大学まではほぼ道なり。昼時だから、20分ほどで着くだろう。

「何です?」

「明日、君を夕食に誘いたいんだけど、いいかな。君のように聡明な女性ともっと話してみたい」

 思わず、心臓が高鳴った。こんなにはっきりと、男性から食事に誘われたのは久しぶりのことだった。フュレプとは昼食に行ったりするが、彼の方から誘ってくれることはほとんどない。

「今日の話の続きをお聞きになりたいですか?」

「それ以外のことも聞いてみたいね」

「事件が起こらなければいいんですけど」

 彼を大学前で降ろすときに名刺を渡そうと、ポーラは思った。

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