#15:第3日 (3) 食欲と学問

【By オペラ歌手シンガー

 ホテルに戻り、ジゼルに伝言メッセージを入れようとしたら、彼女から先に来ていた。待ちきれなくて、朝食に行ったようだ。荷物を部屋に置いて、私も朝食会場へ行く。ウェイターが私を彼女の席へ案内してくれた。

おはようドブロホ・ランク、パンナ・チュライ。お腹が空いて待ちきれなかったので、先に食べに来たよ」

おはようボン・ジュール、マドモワゼル・ヴェイユ。遅くなってごめんなさい。散歩が長くなってしまって」

 お互いに、相手の国の言葉で挨拶を交わした。私はフランス語でも構わないのだが、彼女はどう思っているのか。彼女の前にはたくさんの料理が並んでいた。昨日、私が食べたのと同じくらい。今日はどうしようか。

「料理を取ってくるわ」

「もちろん、どうぞ。ところで、僕のことジジって呼んでくれるかな」

「ええ、では、私のことはマルーシャと」

「本名はマリヤ?」

「いいえ。それは訊かないで」

 彼女は返事の代わりにクールに微笑んで見せた。料理はパンの代わりにシリアルを取り、それとベーコンを少し多め――倍にしよう――、その他は昨日と同じくらいにしておく。彼女より少し多かったかもしれない。テーブルに戻ると、彼女の料理は半分くらいなくなっていた。

「君もたくさん食べるんだね」

「ええ、食べられるときに食べておかないと」

「僕も同じだよ。ただ、男性とデートするときは、あまり食べないようにしていてね。だから昨日までの2日間、少し控えてた。今日は君とだから、いつもの量。でも、後でもう少し取りに行こうかな」

「お好きに」

 彼女は私よりもたくさん食べるらしい。特に、マンガリッツァ豚のベーコンは彼女も気に入っているようだ。

「散歩と言っていたけど、誰かと会ってきたの?」

「ええ」

「彼じゃないよね」

「違うわ」

 会わないよう警告を受けたことは、言わなくてもいいだろう。

「ウクライナ語はあまり上手じゃないんだ。ハンガリー語も。フランス語にしていい?」

どうぞビアン・スール

「彼、ホテルから配偶者エプーズに電話してた。仮想世界の別の場所にパートナーがいることって、あるんだね」

「彼はこの世界の中で結婚したの」

「オー・ラ・ラ!」

 彼女のフォークに刺さっていたハムが皿の上に落ちた。表情は、どういう感情かよく解らない。驚きのような、失望のような……

「結婚できると裁定者アービターからは聞いていたけど、まさか本当にする人がいるとは思わなかった。それじゃあ、ステージがクローズしたら相手と『さようならアデュー』っていうわけじゃないんだね?」

「そのようね。私も、仮想世界の人物と結婚か婚約したら、裁定者アービターのアヴァターに使えるでしょう、と彼に示唆したけど、まさか他のステージへ連れ出せるとは思ってなかった」

「そうだったのか。じゃあ、僕が彼をどんなに誘惑しても、なびいてくれないんだね」

「どうして彼にそんなに興味を持つの」

「君は彼に興味を持たないの?」

 言い返せないのは解っていた。私が発したのは愚問だった。彼女は落としたハムをフォークに刺し、口に入れた。なんとおいしそうに食べるのだろう。

「気付いてるのは僕らだけじゃないと思うんだけどね。でも、気付かない人もいるのかなあ」

「いるわ、きっと。私も、初めて会ったステージでは、最後の瞬間まで気付かなかった」

 私が気付かなかった理由は、もちろん後で解った。私にはアルテムがいるから。は特別な属性を持っている。人を惹きつける属性。そしておそらくそれは、仮想世界の中にいる者しか気付かない。外からは観測できないのだろう。なぜかはまだ判らない。しかし、観測側の盲点になるようなことなのに違いない。

「そうなの。じゃあ、僕とは見方が違うんだね。ところで、彼とは競合してるって言ってたけど、何度くらい同じステージになってるの」

「お互いのヴァケイションを含めて、ここが8度目」

「そんなに! でも、君たち、そんなに長くこの仮想世界にいるのかい? 10ステージか12ステージくらいで“脱出”できてもいいと思うんだけど」

「運がないみたい。私も彼も」

「そうなのかな」

 彼女はエッグ・ベネディクトを頬張りながら考え始めた。時々、私の目を見る。とても楽しそうに。優秀な人が時々見せる、余裕の表情。もっとも、彼女は今回ヴァケイションだけれど。

 やがてある考えが収束したらしく、彼女は二、三度瞬きをした。

「もしかして、君の場合……」

 言いかけて、彼女の口が止まった。私がナイフで切ったソーセージが、彼女の皿に飛び込んだから。驚いたように目を少し大きく開いていたが、やがて細くなり、口元に笑みが浮かんだ。私は謝らなければならない。

「ごめんなさい、不注意だったわ」

「気にしないで。ソーセージのお代わり、取ってきてあげようか?」

「ありがとう。できればベーコンも」

「いいね。僕ももう少し食べたいと思ってたんだ」

 彼女は笑顔で料理を取りに行った。話をやめてくれて、助かった。私のささやかな合図に、気付いてくれたのだろう。私がこの世界に留まっている理由を、外の観測者に気付かれたくない。彼女が戻ってくる前に、私の前の料理はみんななくなってしまった。

「できたてがあったから、たくさん取ってきたよ。トレイの半分くらいなくなった」

 彼女が戻ってきた。二つの皿に、山盛りのフライド・ベーコンを載せて。ボイルド・ソーセージが二つばかり余分に載っている方を受け取った。

「ありがとう」

「僕は今日、ホッローケーの集落を見に行くんだけど、君は行ったことある?」

 フォークにベーコンを4切れも突き刺しながら、彼女は言った。私は3切れ突き刺してから答えた。

「ないわ。写真で見たことがあるだけ」

「帰ってきてからその話をしたいから、今夜バーにでもどう?」

「残念だけど、出掛ける予定があるから」

「夜中でも?」

「ええ」

「僕が勝手に付いていったら怒るかな」

お好きなようにコム・ヴ・レメ

 私が答えると彼女は、少年のようないたずらっぽい笑顔を見せた。本当に付いてくるかもしれない。



【By 主人公】

 朝食の後、8時にアネータが来たのは昨日と同じ。彼女の服装をこっそり観察しているのだが、スーツは一昨日と同じもの。ブラウスは色違い。勝手な予想だが、スーツは2着をローテイション、ブラウスは3、4着をローテイションではないかと思う。当たろうが外れようが、もちろんどうでもいい。

「科学アカデミーに9時半までにお越しくださいとのことです。到着後、先方がアカデミーの全体説明をします。10時から特別講演、11時からパネル・ディスカッション、12時から昼食。1時以降は六つの研究室を回ってプレゼンテイションをお聞きいただきます。予定では5時終了なのですが、概ね延びるようです。食事会は7時からなので、それまでに終わっていただければ」

 プレゼンテイションの後に、ディスカッションが盛り上がって、延びるのはよくあることだ。ただ、俺としては時間どおりにするのが好きだ。かといって、ディスカッションを早く切り上げると、先方が「つまらないと思われた」としょげることがあるらしいので、どれくらいの延長を許容するかは難しいところ。

「食事会は着替えなくても行けるようなレストランなのかな」

 服はメグが指定したものを着ている。白の丸首シャツの上から、紺のサマー・ジャケットを羽織り、下はブルー・ジーンズ。講演に行くとは思えないようなカジュアルさだが、俺の意見が通った結果……のはずだ。

「それで問題ないと思いますが」

「今一つ納得がいかない顔をしているが、君自身はどう思ってるんだ?」

「はあ……正直に言うと、それで本当にいいのかな、と……」

 困惑の表情のまま、アネータが答えた。正直に言ってくれるところがいい。

「君がコーディネイトしてくれてもいいんだぞ」

「いえ、アカデミーがどういうところか、今一つ掴みきっていないので、何とも……明日ならやってみますが」

 明日は大学へ行く。要するにアネータは、自分は若いから学生に受けそうな服が選べる、と言ってるわけだ。我が妻メグより優位に立ってるのはその点くらいだもんなあ。

「じゃあ、明日は任せる」

「了解しました」

「今日はアカデミーの前まで案内してくれるんだっけ」

「はい、9時10分に出ますので、その時また参ります」

 宣言どおり、9時10分にもう一度アネータが部屋に来た。二人で歩いてアカデミーに向かう。15分かかったが、そのうち5分はホテルを出るのに要した。

 アカデミーは石造りの厳めしい建物で、教会のような木のドアを開けて入ると、俺と同じくらいの歳の――いや2、3歳上かも――若い綺麗な女が待っていた。目が知的なので、事務員ではないだろう。きっと研究員の一人だ。

「ようこそハンガリー科学アカデミーへ、ドクトル・アーティー・ナイト。財団の研究者をお迎えできることを、大変光栄に思います。私、研究員のネーメト・ヤンカです。専門は計算機科学です。どうぞよろしく」

 手を差し出してきたので握り返す。細くて冷たい手だった。

「初めまして、ドクター・ネーメト。たぶん伝わっていると信じているが、俺のことは肩書きなしでアーティーと呼んでくれると嬉しい」

「他の研究員に紹介した後は、そのようにさせていただきます。どうぞこちらへ」

 連れて行かれる前に、せっかくなのでアネータを紹介しておく。アネータは笑顔が硬かった。アカデミーの連中にどう応対していいか解らないのに違いない。肩書きなんて気にすることない、中身は大して変わりないのに。俺を見ろ。学士バチェラーしか取得してないのに、アカデミーに乗り込もうとしてるんだぜ。

 エレヴェイターに乗り、3階の一室へ。学院長エルノケイ他、各部門の主任研究員と挨拶を交わす。忙しくて来られないのがいるようで、何人かは代理だった。午後からディスカッションをする6部門については学長が軽く説明し、その他の5部門は主任がそれぞれ持ち時間4分で説明してくれた。

 それが終わると講演を行う講堂へ移動。途中でヤンカが寄ってきた。明るい笑顔を浮かべている。もしかして彼女はキー・パーソンだろうか。

「昨日は交通統括会社へ行かれたと思いますが」

「うん、それが?」

「説明員として、私が行く予定だったんです。ところが、システム開発の方でトラブルが発生してしまいまして、代理を出すこともできなかったんです。開発の主要メンバーは、昨日の講演も聞けなかったんですよ。今日はみんな聞きに来てると思います」

 昨日も講演があった? なるほど、そいつはきっと競争者コンテスタントだな。

「昨日は誰が?」

「ドイツのマクロロジック社の特別研究員フェローの方です」

 いや、そいつの名前教えてくれよ。会社も知らんが、名前からしてソフトウェア開発会社だな。

「講演の内容は?」

「全ての学問の未来を作るソフトウェア……というテーマだったんですが、当日に内容が変更になったらしくて。哲学と歴史に絞ってお話しになったみたいです。どちらもソフトウェアから遠い部門ですから、その人たちに興味を持てもらおうとしたのかも。もちろん、録画してあるので、私たちも後で時間があるときに見ようと思ってるんですけど」

 ターゲットに関係がある話はしなかったのか。でも、芸術はこのアカデミーでは扱ってないもんな。かく言う俺も講演の題目は「人間の精神活動のシミュレイション」だし。

 ところで、ヤンカは笑顔ながらも、俺の目を見て話してくれないのはなぜだろうか。催眠術にかけにくいんだけど。

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