#15:第3日 (2) 緑の目の淑女

【By オペラ歌手シンガー

 自然に目が覚めて、時計を見ると5時半。今朝は早めに起きようと思っていた。シャワーを浴びながら、昨夜のことを少し思い出す。彼とはもう会わないことにした。彼ともう会えない。彼のことは、ジゼルを通じて知ることができるだろうか。ホテルに仕掛けた盗聴器からは、大した情報が入ってこない。

 彼は私の名前を呼んだ。なぜだろう。私が本当の身分を明かしたからだろうか。彼は本当の身分を名乗らない。きっと忘れているのだ。忘れさせられているのだろう。彼はいつそれに気付くだろうか。この仮想世界を出て行くまで、知らないままなのかもしれない。

 裁定者アービターから警告を受けた。私はそんなつもりで彼と会っていたのではない。警告には従うことにしよう。しかし、彼に他の競争者コンクルサンティのことを伝えておいた方がよかった。そうしないと、彼が不利になる。力を発揮できずにステージが終わってしまう。そして私も不利になる。彼からが、いちばん奪いやすい。

 シャワーを止めて、服を着る。今日も泳ぎに行こう。その後、画家に会うことになっている。昨日と同じように路面電車トラムに乗り、マルギット橋の歩道を歩く。彼は来ない。まだ少し早いのだろう。

 スイミング・クラブに着くと、6時。オープン直後だった。他に誰もいない。更衣室で着替える。今日は屋内で泳ぐことにしよう。準備運動をして、波一つない水に浸かる。レーンが、短距離用と長距離用に分かれているはずだが、どちらがどちらか判らない。他の人が来たら、スピードを落とさないといけないだろう。

 まず400メートル。途中で人が来て、前が詰まるようになった。やはり、外へ行こう。濡れた身体のまま外に出ると、寒い。気温は20度くらいしかなさそう。すぐ水に浸かり、泳ぎ出す。

 1500メートル泳いでから、顔を上げると、プール・サイドに男性がいた。昨日も見かけた。しかし、何者かよく判らない。競争者コンクルサントではないし、キー・パーソンでもなさそう。無視したいが、きっとつきまとってくるだろう。

「おはようございます、お嬢さんキシャッソニ。とても美しい泳ぎ方ですね」

 返事はせず、また泳ぎ始める。返事をすると、会話をしたい意思があると思われてしまう。おそらく、1500メートル先で、また待ち伏せされるだろう。25メートルずらすか? しかし、今朝は相手がそう予想するのではないか。

 1450メートルで、泳ぐのをやめた。相手は反対側のプール・サイドにいた。休憩していても、こちらの方へ歩いてこなかった。しかし、3分も経とうとした頃に、歩き始めた。私の方はまた泳ぎ出す。次に、相手はどう出るか。二つに一つしかないが、全て予想できるわけではない。エドガー・アラン・ポーの小説のように、うまくはいかない。

 当たっても、当たらなくてもいい。そう思いながら泳いでいたが、画家との約束があるのだった。400メートルだけにして、プールを上がった。男性はまた反対側にいた。運がよかった。ならきっと当てただろう、と思いながら、更衣室へ入った。そう、はなぜか私の心に共鳴してくる。意識的か、無意識的か、判らないけれど。

 着替えて、化粧を終えてプールを出ると、もう約束の3分前だった。プールから舞台シンパッドまでは1キロメートルほどある。画家を待たせてしまうことになりそうだ。走ろうかと思ったが、島内用の共有自転車があるのを思い出し、それに乗る。できる限りのスピードを出したが、舞台シンパッドについたら1分過ぎていた。画家はもう来て、観客席に座っていた。

「お待たせしてしまって、申し訳ありませんでした」

 私の中の“マリヤ”が話し出す。とても優しいマリヤ。表情も彼女のものに変わる。きっと愛らしい笑顔だろう。彼女は誰からも好かれる性格をしている。私も彼女のことがとても好き。彼女のようになりたいと願っているのに、どうしてなれないのだろう。

「おはようございます、チュライさんアッソニ。僕も今来たところですよ」

 画家は慌てた様子で立ち上がると、ぎこちない笑顔を見せた。目を合わせたり逸らせたりする。女と話すことに慣れていないのだろう。しかしマリヤなら画家を優しく誘導することができる。

「お顔が少し晴れませんが、もしや昨夜遅くまで起きていらしたのでは? 絵の完成に時間がかかったのでしょうか」

「ええ、実は……いや、しかし、お気になさらないでください。ほんの一点に、予想以上に時間がかかってしまっただけなんです。フローラの構図は完全に出来上がっていましたし、表情もあなたをモデルにして、納得行くものが描けました。一点だけ、なかなかうまくいかなかったのは……フローラの目です。正確には、目の色です。あなたの目と同じ、美しいゾルドが、なかなか作れなくて……」

「私の目と同じ緑?」

 もちろん、私は自分の目の色を知っている。画家の言うとおり、緑だ。しかし、の目との目は、同じ緑でも違っている。私は冷たく、マリヤは温かい。私は曇り、マリヤは澄み渡っている……

「ええ、初めてあなたを見たときには気付いていませんでしたが、思い返して絵にするときに、特別な緑だったと……絵の具をだいぶ無駄にしました。青や黄や白を混ぜても同じにならない、黒も灰も違う、最後には反対色の赤も混ぜてみました……希望の色を作り出すのに、夜中までかかってしまったんです。でも、最後にはできましたよ、納得できる緑が」

「でも、フローラの目は、絵の全体の中でもほんの小さな部分なのでしょう? それだけのために……」

「そうなのですが、その一点……いや、目だから、正確には二点ですが、それがフローラの命だったのですよ。彼女に精気を吹き込むのに、その緑がどうしても必要だったんです。とにかく、お見せします」

 画家の後ろに、大きなカンヴァスが置いてあった。100号ほどだろうか。本物を持ってくることは、予想していた。画家の性格なら、写真を見せるだけにすることはないだろう。しかし、運ぶときのリスクを考えないのは、少々無謀。たぶん、考え方が幼いのだろう。

 そのカンヴァスに掛けられた布を画家が取り去った。森の中、背に翼を持つ半裸の男と、花冠を被り身体の周りに切り花をたくさん散らした半裸の女が寄り添っている構図。コヴァルスキの『西風ゼピュロス』。模写とはいえ、画像以外の実物を見た競争者コンクルサントは、私が最初に違いない。私の中のマリヤは、絵を見た感動で言葉を失っているようだ。

「……いかがでしょう?」

 画家が自信なさげに訊いてきた。気の弱い男。マリヤの表情を見れば、この絵がどれほどの感動を与えたか、解りそうなものなのに。

「とても素晴らしいです! もちろん、模写であることは解っています。ですが、原画の忠実な再現というよりも、それ以上のものに仕上がっている気がします。このフローラに、私のイメージが投影されているのでしょうか? いいえ、私よりももっと美しい表情をしているでしょう! それに、この目。あなたがおっしゃったとおり、目の色はこのフローラを表現するのに、まさにぴったりですね! ……あら、申し訳ありません。私、絵画のことを評論できるほど、知識を持ち合わせていませんのに、つい思い付いたままを口走ってしまって……」

「いえ、あなたに満足していただけたのなら、それで十分なんです。僕自身も、絵の出来には納得していますから……」

 画家は少しだけ自信が出たような表情をした。褒められることに飢えているのだろう。

「こんなに大きな絵を、わざわざ持ってきていただいたのですね。ありがとうございます。アトリエへ連れて行ってくださるのかと思っていました。ところで、これは今日中に他の方にお渡しになるのですね? いずれ、どこかで展示されるのでしょうか」

「ああ、それは……その場所や時期も含めて、渡すときに相談することになっているのです。ただ、決まっても、あなたにお教えすることができなくて……」

「まあ、それは残念です。どこかの美術館で、例えばファイン・アート美術館セープミューヴィセティ・ムーゼウム国立美術館ネメゼティ・ガレリアに飾るのに十分ふさわしい作品ですのに。ああ、模写なのでしたね。では、きっと個人が所有されるのでしょう。とても羨ましいですわ。……あの、もしよろしければ、一つだけお願いがあるのですが」

「何でしょう? あなたへのお礼はこれだけでは足りないくらいですから、何なりと……」

「この絵の、別の模写をお描きになっておられるのではありませんか? 昨日、お話を伺ったときは、何度も挑戦したと……未完成でも結構ですから、1点、お分けいただくことはできましょうか?」

「ああ、それは……」

 画家は少し考える表情をした。未完成でも、という言葉を気にしたのかもしれない。たとえ自信がなくても、未完成の絵を人に譲ることは、普通はしない。だが、「完成させる時間がない」と言わせないためにも、その言葉は必要だった。

「……1日だけお待ちいただければ、完成品をお譲りします。あなたのおっしゃるとおり、何枚も未完成のものがあるのですよ。ですが、フローラの表情を描き直すのはすぐですし、目の色も調合はできていますから、問題ありません。明日、あなたがお泊まりの、フォー・シーズンズへ持って行きます」

「ありがとうございます! 楽しみにしていますわ」

「それでは、さようならヴィソントラーターシュラ

ごきげんようレジェン・シプ・ナポド!」

 私は先に去ることにした。私の中の“マリヤ”は、短い眠りについた。次のキー・パーソンに会うときに、また彼女を起こすことにしよう。

 とにかくこれで、重要なヒントを一つ手に入れることができるだろう。もちろん、模写はターゲットではない。元絵がターゲットであるという保証もない。それはこれから調べていけば判るはず。

 私と同じように、画家から模写を手に入れようとする競争者コンクルサントはいるだろうか。二人のうち、気になるのは女の方。彼女は画家に接触したはず。しかし、今のところは私の方が優位に立っているようだ。彼女に画家を渡してはいけない。どんな手を使っても。私の力が及ぶ限り、画家を手の内にしておかなければならない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る