#15:第3日 (5) 著名人との邂逅

【By 画家】

 フュレプが母屋へ昼食を摂りに行くと、弟のフェレンツがいた。食事を終えたところのようだ。珍しく機嫌のいい顔をしている。何かいいことがあったのだろうとフュレプは思った。例えば、作っていた曲が完成したとか。確か、バレエ曲だったろうか。

「フュレプ、さっきまた、警察が来ていたようだけど」

 コーヒーを飲みながらフェレンツが話しかけてきた。フュレプは使用人に昼食の用意を頼みながら答えた。

「もう帰った」

「それは解っているよ。例のコヴァルスキの模写の件だろう?」

「そうだ」

 フュレプはそのことを、フェレンツはおろか家族の誰にも言ったことはない。だが、コヴァルスキの絵が立て続けに3枚も盗まれていることはよく知られているし、その件で警察がフュレプのところへ来るとなったら、その相談だろうということは容易に察せられる。

 それにフェレンツと、兄のファルカスだけは、フュレプがコヴァルスキを愛好していて、いくつかの絵を模写していることを知っていた。

「警察もつまらないことを考えるね。模写なんか借りずに、4枚目のあの絵を、しばらく展示中止にしてしまったらいいだけなのに」

「どこかに隠しておいても、そこから盗まれるかもしれないからな」

「警察の留置場か、刑務所の独房にでも置いておけばいいんだ。絵は逃げ出さないし、泥棒が入るのも難しいし、おまけに出るのはもっと難しい」

「そこは警察が考えるさ。こっちは協力できることをするまでだ」

 前菜が運ばれてきた。サラミ、テリーヌ、カッテージ・チーズ。

「それに、謝礼も出る」

「そんな小遣い稼ぎばかりじゃなしに、自分の絵も描きなよ」

「もちろん、描くさ」

 フュレプは人物画を描こうと思っていた。モデルはマルーシャがいい。彼女に頼まなくても、フュレプの頭の中では、彼女をどの角度からでも見ることができた。もちろん、目を描くときはあの緑を使おう。あの色は素晴らしい。“マルーシャのゾルド”とでも名付けたいくらいだ。

「新たな刺激を与えてやろうか?」

 フェレンツが機嫌のよさそうな顔を、さらによくしながら言った。またどこかへ連れ出すつもりだろうか。バレエ曲の発表のために、有名なバレリーナでも呼ぶのか? しかし、自分にはもうマルーシャがいる……だが、弟の厚意も受けておくものだとフュレプは常々思っていた。

 両親もファルカスも、フュレプには何もしてくれない。多少なりともフュレプを気にかけてくれるのはフェレンツだけだ。ただしそれも、なにがしかの自慢が伴っていることがほとんどだが。

「嬉しいが、遠出をする時間はないよ。少なくともこの2、3日は」

 追加の模写は今日明日中にも完成できる。それ以外に、マルーシャをモデルにした絵の下書きだけでも作っておきたかった。それを描く前に他の刺激を受けて、イメージが揺らいでも困る。

「遠出の必要はないんだ。すぐそこの、歌劇場オペラハースだよ。今、ブダペストに、ビアンカ・ミノーラが来ているのを知ってる? バレエの公演のためじゃなく、休暇らしいけどね。でも、歌劇場の支配人を通じて依頼したら、会ってくれることになった。僕が書いたバレエ曲を聴いてくれるってさ。もちろん、オーケストラ演奏はまだできないから、僕がピアノを弾くんだけどね。それと、ヴァイオリンが一人付くんだったかな。珍しくファルカスも一緒に行くと言ってるよ」

「へえ、ビアンカ・ミノーラが」

 フュレプは少し驚いて見せたが、彼女が来ていることはもちろん知っているし、のみならず、マルギット島の案内をしたことまである。そのことは、家族の誰にも言っていない。

 昨日も会う約束だけをして、すぐに別れてしまった。とても失礼なことをしたと思っているが、会って改めて謝罪した方がいいかもしれない。彼女と知り合ったことを、フェレンツやファルカスが知ったら驚くだろうが……

「いつだい?」

「今日の夕方だ。4時」

 フュレプは少し迷った。これから、マルーシャのための模写を仕上げなければならない。ビアンカと会う前にできるだろうか? 描く前に他の刺激を受けると、イメージが揺らぐ。ビアンカ以外ならそうならない自信が、フュレプにはあるのだが……

 なぜ、そう思うのだろう、とフュレプは自問した。マルーシャとビアンカ、そんなにもイメージが違うだろうか。二人とも優雅で、気高く、洗練されている。いずれ劣らぬ美の化身と言っていい。わずかに違いがあるとすれば、マルーシャは生気に溢れていて、ビアンカは繊細、というところか。

 そうか、とフュレプは気付いた。だからフローラのイメージにマルーシャが合っているのだ。マルーシャは麗らかな春の真っ最中で、ビアンカは訪れたばかりの春だ。

「どうする?」

 考え込んでいるフュレプに、フェレンツが言った。コーヒーはとっくに飲み終わっている。どうせ暇なくせに、と言いたそうにも見える。

「会いに行くよ。誘ってくれてありがとう」

「そのうち、フュレプからも著名人に会うのを誘ってほしいね」

 フェレンツが席を立ち、ダイニングを出て行った。マルーシャにフェレンツやファルカスを会わせてもいいものだろうか、とフュレプは考えた。今夜のうちに、ホテルに連絡して、訊いてみようか……



【By 刑事(男)】

 なんて運がいいんだ、とピスティは思っていた。いや、そんなことを思ってはいけない。相手は窃盗の被害に遭ったのだ。その運の悪さを、一緒に嘆いてやらなくては……

 しかし、そのせいでピスティは著名人に会えた。それは紛れもない幸運だった。ビアンカ・ミノーラ! 世界的に有名なバレエのプリマ・ドンナだ。それだけでなく、今までに見たこともないほど美しい女性だ。消沈した表情ですら、春の花のように優美に見える……

「ブダペスト警察が全力を挙げて捜査中です、ミノーラさんアッソニ。奪われた物は必ず取り戻すことを約束しますよ」

「よろしくお願いします。他の物はともかく、バッグにはパスポートが入っていますから、それだけでも何とか……」

 ピスティの前に座っているビアンカが、弱々しく言った。国立美術館ネメゼティ・ガレリアの手荷物ロッカーから、彼女のバッグが盗まれたのだ! ピスティとポーラがそこに居合わせたのは偶然だった。

 ポーラが画家のラカトシュ・フュレプから『西風ゼピュロス』の模写をもらい受けてきたので、それを美術館ガレリアの館長に見せることになっていた。ピスティは第1区警察署から合流したのだが、受付で館長を呼び出しているときに、事件が発覚した。

 直ちに署に連絡を取って、捜査網を敷いた。美術館ガレリアを含む王宮は丘の上にあるので、逃げ道は限られている。おまけに犯人の人相もだいたいわかっている。虱潰しにしていけばすぐに捕まるはずだ。ピスティとポーラはビアンカを第1区警察署へ連れて行き、応接室のソファーに座らせて、落ち着くようにとコーヒーを出してやった。

 ピスティも捜査に参加しようとしたのだが、なぜかビアンカから「不安なので一緒にいて欲しい」と言われた。その役はポーラに任せようとピスティは思っていたのだが。犯人を捕まえて、いいところを見せよう、とも考えていたのに、まさか慰め役になるとは。

 いやいや、慰めるのではない。元気付けるのだ。すぐに犯人が捕まる、と言って聞かせることで。

「東側のケーブル・カーフニクラーは止めましたし、坂の下には警官を配置しています。こちらからは絶対に逃げられません」

「そうですか……」

「南は城塞のところにしか出入口がありませんし、そこは既に固めています。セーチェーニ図書館や、歴史博物館の中も捜索しています」

「そうですか……」

「西のパロラ通りへ逃げた形跡はありません。グラニト階段とリフトも封鎖しました。北のヴィエナ門ベーチ・カプまで到達する時間もなかったしょう。後はそちらから店や家を全て調べていくだけです」

「そうですか……」

 こうして、署に通知される捜査状況を、逐一ビアンカに教えて、安心させてやればよいのだ。なんていい役回りだろう、とピスティは感じていた。自分のせいで犯人を逃してしまうことはないし、ビアンカからも頼ってもらえる。ポーラは、なぜその役が自分でないのだろうという顔をしていたが……

 ピスティは通知をインターカムで聞いていた。声が騒がしくなってきた。捕り物が始まったのかもしれない。ピスティの方から状況を尋ねると、捜査員どうしの通信を邪魔してしまうかもしれないので、黙って耳を澄ます。迷宮ラビリントゥスという言葉が聞こえてきた。まさか、あんなところに逃げ込んでいたのだろうか。道路を通らずに丘を抜け出す唯一の道なのは確かだが……

 やがて、逮捕レタルトズタタスという言葉が聞こえてきた。聞き違いでないのを何度も確認してから、ビアンカの顔を見た。心配そうな表情なのに、何と美しい! バレリーナのはずだが、女優として悲劇を演じてもよさそうなほどだ。

「どうなりましたか?」

「もう少し待ってください。今はまだ、確認中です」

 ビアンカが真剣な眼差しで見てくれているのが、ピスティは嬉しかった。ブダペスト警察の代表になった気分だ。出掛けているパタキ主任が――昼前から出掛けたのに、まだ戻って来ていない!――これを知ったら、さぞかし羨ましがるに違いない。

 また通知が入ってきて、盗まれた品物の確認をしている。バッグの形や色を説明し、中身は財布とパスポートと化粧品がいくつかと……

 それを、ビアンカに言って聞かせた。そして最後に「取り戻しました」とピスティは言った。

「ありがとうございます!」

 ビアンカはピスティの両手を強く握り――女性なのでさほど強くはなかったが――満面の笑みを浮かべてピスティを見た。ピスティは自分が犯人を捕まえたかのような、誇らしい気分になった。

「間もなく、捜査員がバッグを持ってこちらへ戻ってくるでしょう。再度確認してから、引き渡しますが、その後はどうされますか?」

「どうと言うと……ああ、観光を続けるかということですね。ええ、美術館ガレリアはまだ途中でしたので、続きを見たいです」

「では、僕がお連れしましょう。実は、美術館ガレリアにちょっと用があるのです。一緒にいた女性刑事をご記憶ですか。彼女と二人で、館長に会うのですよ」

「まあ、ありがとうございます! 美術館ガレリアでまだ何か捜査をするんですの? もしかして、盗難が噂されている『西風ゼピュロス』のことでしょうか?」

 話しているうちに、ビアンカの笑顔がどんどん明るくなっていく。花が咲く瞬間を見ているかのようだ。

「ええ、まあ、その……申し訳ないですが、それは秘密なんです」

「あら、失礼しました! 私も『西風ゼピュロス』を見たいと思っていたのですが、今は展示されていないそうですね? いつから見られるのでしょう」

「木曜日からです。ただし、一般公開は午後からで……そうだ、あなたは著名人ですから、午前中の内覧会に呼んでもらえるよう、館長に頼んでみましょう」

「そんなことまでしていただいて! 本当にありがとうございます」

「いやいや、これくらいは何でもありませんよ」

「その時はあなたも一緒にご覧になるのですか?」

「まあ、たぶん、そういうことに……」

 ちょっとしたことでもビアンカに親切にできることが、ピスティには誇らしかった。

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