#15:第2日 (5) オペラとバレエ

【By 画家】

 午後、フュレプはまたマルギット島にいた。今日も人と会う約束があった。ポーラとではない。しかしフュレプは、それを断りに来たのだ。電話ではなく、直接会って口頭で説明したかった。一晩考えた結果だった。

 約束の場所は、百周年記念碑の広場。フュレプが待っているところに、相手は時間よりも5分早く来た。穏やかな、見る者を魅了する笑顔を浮かべていた。

こんにちはヨー・ナポート、フュレプさんウール。お待ちになりましたか?」

 ビアンカ・ミノーラ。昨日、公園の中を案内し、カフェで少し話をしてから別れた。その時、今日のこの約束をしたのだが……

「いいえ、待っていません。まだ時間前ですよ、ミノーラさんアッソニ。しかし、お伝えしなければならないことがあるのです」

「はい、電話でもそう伺いましたが……」

 それだけは、ホテルに電話して伝えていた。彼女の愛想のよい笑顔を見ていると決心が揺らぎそうになるが、フュレプは軽く深呼吸し、心を落ち着けてから言った。

「今日のこのお約束を、お断りしたいのです。わざわざここまで出向いていただいて、これを言うなんて、大変失礼なことは重々承知しています。しかし、言葉だけでは伝わらないと思ったのです」

 ビアンカの表情が当惑に変わった。

「まあ、それは一体どうしたわけでしょう。いいえ、昨日お会いしたばかりのあなたに、今日のこのお約束をしたのは、大変厚かましいことと心得ています。きっと何か重大な理由がおありなのですね?」

「重大……ええ、僕の中では重大なのですが、ご理解いただけるかどうか」

「ぜひお話ください」

 フュレプはもう一つ深呼吸した。

「僕は今、一つの絵を完成させようとしているところなのです。ある有名な絵の模写なのですが、その中に、女神の姿が含まれています。僕はその絵を単に模写するだけでなく、その女神にぴったりとした実在の女性のイメージを持ちながら描こうとしていました。ですが、それは今までうまくいかなかったのです。僕の中に、その女性の明確なイメージがなかったためでした」

「ではそのイメージを持つ女性を、探しておられたのですね。そしてまだ見つけておられないのですか?」

「いいえ、昨日見つけたのです。偶然ですが、あなたにお会いする直前でした。ほんの一目見ただけですが、そのイメージは心の中に焼き付いています。ですが、その後であなたとお会いし、そのイメージが少し揺らいでしまったのです。明確に断っておきますが、あなたのせいというわけではありません。僕はあなたにもとてもよい印象を抱き、その女性ではなく、あなたをイメージして絵を完成させることができるかもしれない、とも考えたのです」

「それを昨日かあるいは今朝お試しになった……そしてうまくいかなかったということでしょうか?」

「ええ、そうなのです。あなたも本当に美しい方ですから、女神のイメージとして申し分ないはずだったのですが、どういうわけか……ですから、絵を描き終えるまでは、その女性のイメージを揺るがすような方を、遠ざけようと思ったのです。あなたとお会いできたことは、大変嬉しかったのに、本当に申し訳ないことですが……」

 ビアンカは真剣な目でフュレプを見つめてきた。責めるような視線ではなく、むしろ多分に同情を含んでいた。バレリーナとして、その表情でどれほど多くの観客を魅了したか、フュレプにもまざまざと理解できた。

「いいえ、あなたのお仕事は絵を描くこと。私と会うことがそのお仕事を完成させる障害になるのなら、私の方が慎むべきでしょう。あなたの本分を全うすることを優先してください」

「ありがとうございます、そう言っていただけると……」

「こうして直接お目にかかって説明いただいたのは、大変有意義でした。あなたの表情から、あなたがどれだけ真剣かを理解することができましたから。それに、あなたを一目見られただけでも……いいえ、これ以上はもうお邪魔でしょうから、私は去りましょう。今日は美術館ムーゼウム美術館ガレリアへ行って、あなたに絵を教えていただくことを楽しみにしていましたが、一人で参ります。それでは、ごきげんようレジェン・シプ・ナポド、フュレプさんウール。別の機会にお会いすることを楽しみにしていますわ」

さようならヴィソントラーターシュラ、ミノーラさんアッソニ……」

 ビアンカが振り返りつつ、マルギット橋の方へ歩いて行くのを、フュレプは見送っていた。心苦しい思いをしたが、これでよかったのだと思いながら。

 もし、マルーシャ・チュライよりも先に彼女に会っていたら、フュレプは彼女をイメージしながらフローラを描くことにしたに違いない。たぶん、それでもうまくいっただろう。しかし、先にマルーシャ・チュライと会ったことで、フュレプの中にそれがフローラのイメージとして固定化してしまったのだ。入れ替えることが不可能なほど、強い印象だった。

 ビアンカ・ミノーラと会い、彼女の顔を見続けていては、フローラは完成しない。それがフュレプの出した結論だった。

 できれば、もう一度マルーシャ・チュライを見たいとフュレプは思った。揺らいだイメージを取り戻すために。彼女ほどの著名人であれば、市内の高級ホテルに泊まっているだろう。訊いて回れば居場所が判って、一目くらいは会ってもらえるかもしれない。あるいは、アンドラーシ通りにある国立歌劇場アーラミ・オペラハースの前で待ち続ければ。

 しかし、木曜日までに会えるかどうか。会えないのなら、心の中にある彼女のイメージを、もう一度強くすればいいだろうか。それには彼女を初めて見た、野外舞台シンパッドへ行ってみるとか……

 だがその時、フュレプの前に奇跡が羽音を立てて舞い降りた。



【By オペラ歌手シンガー

 やはり彼はここにいた。

 それよりも、先ほどすれ違った美貌の女性が、競争者コンクルサントに見えたのも気になるが……



【By 画家】

 マルーシャ・チュライが、マルギット橋から降りてくるのがフュレプの目に入った。帽子とサングラスで素顔を隠しているが、フュレプにははっきりと判った。

 足が動きかけたが、2、3歩ですくんで立ち止まる。しばらく金縛りに遭った後で、またふらふらと歩き出す。通り過ぎかけた彼女が、フュレプに目を留めてくれた。息を呑む美しさに、口の中が乾きそうになりながら、フュレプは声を絞り出した。

「失礼ですが……お忘れかもしれませんが、僕は昨日、あなたにお会いして……」

「ええ、憶えています。舞台シンパッドのところですね?」

 彼女がフュレプの前に来て、サングラスを外しながら言った。穏やかな笑顔。しかしビアンカ・ミノーラとは系統の違う美しさと優しさを纏っていた。やはりフローラは彼女だ、とフュレプは認識を新たにした。もう二度と忘れることはない。

「そうです、昨日は……大変失礼しました。急に声をかけて……それに、今日も……」

「お気になさらず。こうして二度も会うのは何か意味のある巡り合わせなのでしょう。この島の美しさに惹かれあう者どうし、あるいは芸術の心を求め合う者どうしといったような……」

「芸術……僕に何か芸術をお感じになったのですか」

「ええ、違っているでしょうか? いいえ、私はあなたが芸術家だと確信しています。それは絵画ではないでしょうか。あなたの指先が、それを証明しています」

 昨日、彼女に会ったのはほんの数分で、手を見せたわけでもないのに……今だって見せてもいないのに。どうして画家であることを見抜かれたのか、フュレプは不思議で仕方なかった。

「おっしゃるとおり、僕は画家です。しかし、プロではありません。いや、絵で少しは金を稼ぎましたが、まだ自分を養えるほどではないのです」

「他人の評価など問題ではありませんわ。あなた自身がどうあろうとしているかです」

「そうおっしゃっていただけるのは嬉しい……そのお優しさに甘えようとしているわけではありませんが、僕の話を少しだけ聞いていただけますか。ほんの短い時間で済むのです」

「お伺いしますわ」

 マルーシャの視線が、フュレプの心を優しく貫いた。人間の心は胸や頭ではなく目にあるのではないかと、フュレプは真剣に考えた。一つ、深呼吸をしてから、フュレプは“絵の中のフローラ”のことを話した。それがコヴァルスキの『西風ゼピュロス』とは言わなかったが……

「そうでしたか。ええ、私をモデルにしていただくのは何ら差し支えありません。そして、私の姿は既にあなたの心の中にあるのですね? 今日、こうして再びお会いして、そのイメージを強めることができたということでしょうか。それであればとても喜ばしいことです」

「ご理解いただけて、とてもありがたいです。本来ならあなたに何かお礼をしなければならないところですが……」

「いいえ、何もしていただく必要はありませんわ。あなたの芸術のお役に立ったことだけで満足です」

「ですが、もう少し聞いて下さい。僕はこれから家に帰って、絵の完成を急ぐことにします。あなたのイメージが、曖昧になってしまう前に。そしてもし完成したら、誰よりも先にあなたに見ていただきたいと思うのです」

 フュレプが訴えると、マルーシャは緑の目を美しくきらめかせた。これほどの美しさを、絵の中で表現できるのかと、フュレプが少し不安になるほどに、

「私が何をお手伝いするわけでもありませんのに、そう言っていただけるのでしたら、ぜひ拝見させていただきたく思います。近いうちに完成するのでしょうか?」

「ええ、今日中に。絵の他の部分は、もう出来上がっているのです。そして完成したら、他の人にすぐ引き渡すことになっているのです。それが明日中です。ですから、あなたにお見せできるのは、明日の午前中だけなのです」

「解りました。私は週末までフォー・シーズンズに泊まっておりますから、連絡を……ああ、いいえ、明日の午前中に、またあの舞台シンパッドで会うことにしてはいかがでしょうか?」

「それはいい! ……そうだ、朝早くても構わないでしょうか? その方が、他人の目が少なくて済みます」

「結構ですとも。明日は朝6時からそこのプールで泳ぐことにしています。できればその直後が一番都合がいいので、7時ではどうでしょう。早過ぎますか?」

「いえ、僕もそれくらいがいいと考えます。約束していただいて、どうもありがとうございました。僕はもう家に戻ります。それでは……」

「あら、最後に一つ。私、あなたのお名前を伺っていませんでしたわ」

「ああ……ああ、失礼しました……」

 フュレプは急に頭に血が上ってきた。最も基本的なことを忘れて、彼女にお願いばかりしてしまうなんて! 奇跡が起こったおかげで、動転していたのだ……

「ラカトシュ。ラカトシュ・フュレプと言います。姓がラカトシュ……」

「いいお名前ですわ。ではまた明日お会いしましょう」

「ありがとう、さようならヴィソントラーターシュラ……」

 フュレプはもう一度マルーシャの笑顔を見てから、マルギット橋へ歩き出した。この奇跡を、必ず絵の完成に役立てなければならない。フュレプの頭の中には、早くも『西風ゼピュロス』の完成した姿がはっきりと描かれていた。

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