#15:第2日 (4) 美術館と警察書
【By オペラ
ゲッレールトの丘からの眺めというのは、格別ではないけれども、ブダペストを、いやペスト地区を見るのにちょうどいいと思う。眼下は
そしてここは、ブダペストの中でも一番風を感じられる場所だ。残念ながら今日は西風ではない。西風はどこにあるだろう。もちろん、こんな山の上にはなく――であれば私はなぜここへ来たのだろう――
北へ向けて丘を降りる。狭いコンクリートの坂と階段。右手の木立の合間にドナウ川が見えている。美しいと思えないのは、やはり濁っているからだろう。
ルダシュ温泉の建物が見えてきた。ゲッレールト温泉にも寄っていないが、今回はどちらに、いつ行こうか。きっとそこに何かがあると思っているけれど、キー・パーソンとの出会いは期待できない。旅行者どうし、つまり
丘を下りきって、
まずクリスティアナ通りを行く。400メートルほどで右へ折れてサルヴァス通り。歩道から短い階段を上がってヴァーライヤ通りへ。
坂道になり、突き当たりからは長い急な階段を登っていく。上の方に、円筒状の石積みの壁が見てくる。城の南の城塞だ。その脇を通り過ぎ、厳めしい門を入ると、もう城内。正面に見えているのはセーチェーニ図書館の建物。
中に入り、階段を上がって、右手の外へ。四つの建物に囲まれた中庭に出る。前に見えるのが
入るとすぐに、空気の緊張を感じる。
調べた限りでは、
だが、今はまだ盗めないに違いない。おそらく、展示されていないだろう。この緊張感は、ここから絵が盗まれることを期待する観覧客が醸し出しているのではないか。
コヴァルスキという名から、それがポーランド人であることが判る。もし絵の作者がハンガリー人なら、盗難を防ごうとする空気が醸成されるに違いない。建国記念日が近いのだから、愛国心も高まっている。しかし、ポーランド人画家の作品にそれが向けられることはない。
ポーランド人の泥棒が、絵を祖国の元に戻すことを願って狙っているかもしれない。あるいは私欲のためか。『
緊張感の発生源は、すぐに判った。4階の一角。東欧の画家の作品を集めたゾーン。貼り紙に“木曜日から再開”とある。今は別の場所で保管しているということだろう。それはどこか?
例えば
もちろん、図面などはないはず。一度、侵入してみる必要がある。いつにしようか。ここの館長や学芸員の様子も知らねばならない。私の名前を出せば会ってくれると思うが、興味を持っていることを知られるのは、あまり得策ではないように感じる。もっとも、私が滞在していることが伝われば、招待されてしまうかもしれないけれど。
他の展示品は、ほとんどが見たことあるものばかりなので、もうお
丘を上り下りして少しお腹が空いたので、休憩がてら軽食を採りたい。マーチャーシュ教会と
タルノク通りの突き当たりが
窓際の席に案内され、景色をちらりと見てから、ウェイトレスを呼ぶ。背の高い細身の女性だった。凜々しく男性的で、おそらく本人も意識していることだろう。そして明らかなポーランド系の容貌に興味を引かれる。コヴァルスキがポーランド人であることと、さっそく結びついた。
「ご注文?」
「シュトルーデルの種類は?」
精一杯愛想のよい笑顔を浮かべて答える。それでもきっと彼女の魅力には及ばないだろう。男性ではなくて女性を引き付けそうな魅力ではあるけれど。
「アップルとチェリー」
「では、それを二つずつ。あと、コーヒーを」
「……しばらくお待ちを、マドモワゼル」
私がわざとフランス語風のアクセントを使ったからか、マドモワゼルと言われた。ウクライナ人であることはしばらく隠す方がいいだろう。
ウクライナとポーランドは国境を接するが、現在のウクライナ西部はかつてポーランド王国、あるいはポーランド共和国の領土だったことがある。領土の奪い合いの歴史から、ポーランド人はウクライナ人にあまりよい印象を持っていない。
しばらくして彼女が注文の品を届けに来た。私がシュトルーデルを四つ頼んだことを、奇異に感じているに違いない。もちろん、それは彼女の興味を引くためだったが、彼女は私のキー・パーソンではないかもしれない。チップを少し多めに渡しておいた。
アップル・シュトルーデルをかじってみる。取り立てて特徴のない、並みの味だ。お腹が空いていなければアップルとチェリーを一つずつでやめておくところだった。窓の外の平凡な景色を見ながら、シュトルーデルを口に運んでいたら、いつの間にかなくなったので、店を出る。
隣に建つヒルトンへ入る。ロビーにカフェ&バーがあったはず。
「マルーシャ・チュライ
ロビーにいたベル・ボーイが私のことに気付いてしまった。帽子とサングラスを着けていたのに。もっとも、カフェ&バーに入ってそれらを取ったら、きっと気付かれるとは思っていたけれど。
「宿泊はしませんが、カフェを利用したいんです」
「もちろん、どうぞ」
案内してもらったが、カフェの店長まで出てきた。注文を取るのはウェイターだから、必要ないのに。
「シュトルーデルの種類は?」
「アップルとチェリーとトプフェン・チーズがございます」
「では、それらを一つずつ。あと、コーヒーを」
しばらくして、焼きたてが運ばれてきた。トプフェン・チーズをかじってみる。特徴的ではないが、先ほどのカフェよりはおいしかった。格別でもない窓の外の景色を見ながら、シュトルーデルを口に運んでいたら、いつの間にかなくなったので、店を出る。
ミコ通りの緩やかな坂を下り、シタクトゥ公園を右に見ながら、左のパウレル通りに折れる。そこに第1区警察署がある。地味で無骨な建物だった。仮想世界ではあっても、警察署に入るときは緊張する。“パタキ”という警官がいたら会いたい、と受付で申し込む。
もちろんその名前は、絵画盗難事件の捜査担当者としてニュースに名前が出ていた。しかし、私が用意した理由は「5年前に来た時に、暴漢に襲われそうになったのを救ってもらって……」とした。おそらく警察はその事実があったかを調べ、結果、ないことを知るだろうが、パタキ刑事に私の存在が伝わればいいのだ。そして私の肩書きが、何らかの効果を及ぼすだろう。
かなり長く待たされたが、受付から答えが返ってきた。
「5年前にパタキという警官は本署にはおらず、事実を確認できませんでした。しかし現在、警察本部から同名のパタキ主任が本署に派遣されており、何か情報を持っているかもしれませんので、応対させます」
おおよそ、予想したとおりになった。しばらくしてパタキ主任刑事が現れた。私より少し身長が高く、痩せていて、しゃれたスーツを着こなしている。顔は柔和で、黒髪を油で固め、口髭を生やしていた。自己紹介と握手の後に口を開く
「ようこそ、マルーシャ・チュライ
気取った口調だった。礼を言い、警官の特徴を話す。もちろん、頭の中で即席に思い付いたものだ。当然のことながらパタキ刑事は思い当たるところがなく、お役に立てず残念だと言った。しかし、私には好印象を持ってくれたようだ。私の慣れない笑顔と……後は胸元に。背筋を伸ばし、強調しておく。
「この第1区警察署の管内には、ブダ城が含まれていますね?」
話の接ぎ穂として、解りきったことを訊く。
「そうですよ」
「最近、城にある
「ええ、そう。……実は、私が担当なのですよ。私の他に専任が二人おりますが、その3人は本部から派遣されておって、本署と協力しながら警戒に当たっているところです。他言は控えていただきたいですが」
「そうでしたか。ハンガリーの画家の絵ではないけれど、歴史的に貴重な物とのことで、観覧しようとしたのですが、展示されていなくて残念でした。しかし、ぜひ盗賊の手からお守りになってください」
「ご心配いただきありがとうございます。ご存じかどうか、木曜日から再度展示する予定ですので、その時までご滞在であれば、ぜひ
「ご案内ありがとうございます。今週末までおりますので、後ほど観覧に伺います」
「午前中は入場人数を制限する予定なのですが、あなたのお名前をお出しになれば優先的に入場できるよう、
「ご配慮ありがとうございます」
礼を言って、警察署を出た。
ところで、昼食はどこにしよう。私のことを知らず、気軽に食べられる店がいいけれど。
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