#15:第1日 (12) 深夜の密会

【By 主人公】

 リッツ・カールトンからマルギット島の一番北までは、走って行くには遠いという結論に達した。いや、正確には片道3マイル半はそう遠くない。往復7マイルで、夜中だから大変というだけ。帰りはタクシーを見つけるにも苦労するだろう。

 そういう当たり前のことを思い付いたので、夕食から帰った後でアネータに「自転車を用意してくれ」と頼んだ。

「明日の朝までですか?」

「できれば2時間以内だな」

「では、今夜お使いになるということですか」

「そうだよ」

 アネットが可愛らしく口を尖らせている。さっそく困らせてやることができて嬉しい。コンシエルジュというのは困らせるほどに本領を発揮する連中だ。

「ひとまず、明日の予定を確認いたします」

「頼む」

 9時半に迎えあり。10時から交通局、正式にはブダペスト交通統括会社で都市計画と軌道交通制御システムの視察。意見交換。途中、関係者と昼食。

 3時から警察本部に移動して道路信号管制システムの見学、意見交換。夕食は交通局と警察の幹部との懇親会。

「懇親会はキャンセルしたいな。偉い連中を相手にするのは気が進まない」

「予想どおりですね。キャンセルは可能ですので、連絡しておきます」

「どうして予想どおりなんだ」

「お心当たりがおありと思いますが」

 またメグの差し金か。君はメグのエージェントかよ。

「じゃあ、俺が朝と夕方に何をしてるかも知ってるよな」

「はい、ランニングですね」

「自転車を頼んだのはそういうことだよ。本当なら夕食前に走るんだけど」

「もしかして、マルギット島に行かれるのでしょうか? でも、夜は真っ暗だと思いますよ」

「走れないほどか?」

「夜に行ったことがないので、判りません。消灯が何時なのか確認しておきます」

「それから、フォー・シーズンズ・ホテルの電話番号が知りたい」

「どなたかにご伝言メッセージですか。承って、私の方からお伝えすることもできますが」

「私用なので君に内容を知られたくない」

 アネータがむずがゆそうな顔をしている。俺が女と連絡を取ろうとしていることを察知したらしい。そういうことまでメグに告げ口するつもりだろうか。

「では、代表番号と部屋直通の架け方をすぐにお知らせします」

「頼む」

「お休み前のお飲み物はいつお持ちしますか?」

 いろいろメグに指示されてるんだなあ。そんなことしてもらおうと思わないのに。

「何を出すことになってるんだ」

「オレンジ・ジュースかフロリダ・カクテルのいずれかです」

「いつ寝るかはまだ決めてない。遅くなって君が寝不足になるといけないから、冷蔵庫にオレンジ・ジュースを用意しておいてくれ。寝る前に勝手に飲む」

「かしこまりました」

 明日の朝食はレストランでビュッフェ。オーダーして部屋に持って来てもらうこともできるが、もちろんそんなことはしない。

「まさか君が朝食に付いてくるなんてことはないよな」

「朝食中に何かご用を承る必要があれば付いていきますが」

 あるわけないだろ。とりあえず、アネータの今夜の仕事は終了。いや、いったん引っ込んで、すぐにフォー・シーズンズへの電話の架け方を伝えに来た。まだむずがゆそうな顔をしている。そんなに気にすることないのに。まさか、盗聴できるんじゃないだろうな。

 アネータが去った後、代表番号に電話をして、ジゼルの部屋に回してもらう。

やあハイ、ジゼル。アーティーだ。明日のことで電話したんだ」

「ジジって呼んでいいよ」

「そう呼ばないと話をしてくれないのか」

「夕食に行った紳士はそう呼んでくれたんだ」

 おっと、そういう人物が実際にいたのか。俺との駆け引きのために出した架空の人物ではなくて?

「次からそう呼ぶことにしよう。それで紳士とは夕食だけで済んだのか」

「何とか断ったよ。だいぶ酔わされたけど」

 そういえば声が何となくうわついている。かといって、色っぽくなったわけでもない。

「明日の話だが」

「誘ってくれるのかい?」

「夜7時でどうだろう。場所はまだ決めてないが」

「ありがとう、嬉しいよ。もちろん受けるとも」

「詳しいことは明日だ。連絡は俺の代理人がするかもしれない」

「解った。ところで、これからこっちに来てカクテルでも飲まないか?」

 だいぶ酔ってるんじゃなかったのかよ。

「あいにくこの後、約束があるんだ」

「女だね」

 見抜くなって。どうしてアネットといい、そんなに勘がいいんだろう。

「それは言えない」

「でも、知ってるよ。彼女は今、僕の横にいるんだ」

冗談だろキディン

「うん、冗談だジャスト・キディン

 心臓に悪いな。電話の向こうから忍び笑いが聞こえてくる。酔ったからって、俺をからかうんじゃない。

「明日はどこを見て回るんだ」

「ペスト地区のいろいろなところ。どこかで会えるかな」

「難しそうだ。場所は言えないが、おそらくは建物内に缶詰めコンファインドでね」

「仕事なら仕方ないね。無事に解放されることを祈るよ」

 お休みを言って、電話を切った。さて、次はマルーシャの相手。しかしまだ時間がある。

 10時過ぎに、アネータから電話がかかってきた。自転車が用意できたらしい。こんな時間に、よく用意できたな。ダメなら行きだけでもタクシーを使うところだった。

「絶対に傷を付けないでください」

 アネータが真剣な声で言う。

「理由は?」

「従業員の私物です。とても大切にしているそうです」

「後でそいつにチップをやるよ」

「いえ、私の方からもう出しておきましたから!」

 どうしてそんな強い口調で言うんだ。なんか変な交換条件を呑まされたのか? まあいい。傷を付けたら全額賠償してやる。

 その自転車に乗って、11時15分に出発。ロビーにアネータはいなかった。メグなら見送ってくれたろうと思う。

 マルギット島の南端までは2マイルもないので、ものの10分で着く。そこに自転車を置いて――もちろん厳重に錠をかけて――走り出す。

 コースはどっち周りにすべきなのかよく判らないが、陸上競技のトラックは反時計回りなので、それに従う。ほとんどずっと川沿いだ。アネータは「真っ暗」と脅してくれたが、コース沿いにちゃんと街灯が立っている。明るさは乏しいが、迷うようなところではないので問題ない。

 ベンチはあれど人の姿はなく、ついに誰とも会わないまま、15分で北端に到着。階段を上がって、今朝登場した場所に立つ。こんな時間でも車は時折通る。マルーシャはまだいない。早く来すぎたが、これは予定どおり。頭の中に与えられた情報によれば、今でもビッティーと通信ができるのだが、後にする。

「待たせたかしら?」

 階段の方を見張っていたら、いきなり後ろから声をかけられた。振り返るとマルーシャの姿。どこから来たんだよ。俺を驚かすのが本当に得意だな。しかし、街灯の下とはいえ、どうして彼女だけそんなに煌々と輝いてるんだ。特別な光が当たってないか?

「待ってない。というか、まだ0時前じゃないか」

「そうね」

「さっそく、報告をしようか。俺から言おう。競争者コンテスタントらしき人物は見かけなかった。もっとも、ヴァケイション中のを一人見つけたが、これは考慮外にしていいだろう」

「ええ、そうね」

「そいつは君と同じホテルに泊まってるんだ」

「出てくるときに見かけたわ」

「声をかけられたか」

「ええ、挨拶だけ」

 やっぱり競争者コンテスタントを見分ける方法があるんだろうな。どうして俺はそれが判らないんだろう。

「ところで、何時に出てきた?」

「11時頃」

「どうやってここに来た?」

「地下鉄と徒歩」

「地下鉄って11時過ぎでも動いてるのか」

「ええ、帰りにはもう終わってるけど」

「帰りはどうするんだ」

「心配してくれなくてもいいわ」

 心配はしてない。何か特別な移動手段があるんじゃないかと訝ってるだけだ。

「本来なら、紳士として俺がホテルまで送り届けるべきなんだろうけどな」

「そうしてくれなくてもいいの。この後もまだすることがあるから」

 こんな夜中に何を。

「ところで、君の方の報告だが」

「一人見かけたわ。ゲルマン系の白人男性。ただ、何も言葉を交わさなかったから、あなたに彼のことを話していいかどうかも判らない」

「それはつまり、一方的に教えるのはアンフェアだから」

「ええ」

 ジゼルも同じことを言っていたが、俺もそれは同意するよ。

「どこで会ったかも話せないということでいいか」

「ええ」

「気にするな。そうなることはだいたい予想してたんだ。初日からそんなにうまくいくわけがない。しかし、これであと一人見つけ出せばいいんだな。そいつは今日、ブダにいたのかペストにいたのか」

「たぶん、マルギット島に長くいたと思う」

「そうなのか? なぜ知ってる」

「ここにキー・パーソンがいたはずだから」

「それらしい奴と会ったのか」

「そうだけれど、それはあなた向けのキー・パーソンではないはずだから、別のキー・パーソンを捜して」

 なるほど、男か。男のキー・パーソンは確かに当たりたくないなあ。むむ、そうすると、もう一人の競争者コンテスタントは女ということ? 頼むから痴女は勘弁してくれよ。いや、そういう心配をする段階でもないか。

「もちろん、自分で捜すさ。今回は今までと状況がだいぶ違うんで、明日から仕事としてうろうろしている間に見つかるんじゃないかと思うね。試行錯誤する時間が減りそうだ。もっともその分、空き時間の使い方が大事になってくるんだろうな。特に夜。ただ、さっき言ったヴァケイション中の競争者コンテスタントにつきまとわれそうなので、うまく処理しないと」

「残念だけど、その人のことでは、助けてあげられない」

「何もしてもらう必要はないよ。ところで、今日の話はこれで終わり? 明日はどうする?」

「できれば、明日も同じ時間に」

「問題ない。ところで、俺はこれから裁定者アービターと通信するが、君も?」

「ええ」

「道路の反対側で、だよな。車はそんなに走ってないが、気を付けて横断してくれ」

「ありがとう」

 礼を言ってくれたが、マルーシャは動こうとしなかった。何か躊躇しているようで、こんな様子の彼女は珍しい。

 ややあって、俺の目を真っ直ぐに見ながら、口を開いた。

「今朝の私の提案は、失敗だった。ペスト地区へは、あなたに行ってもらうべきだったのに」

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