#15:第1日 (8) 芸術を見る目
【By 画家】
ポーラとの昼食の後、フュレプは再びマルギット島に戻っていた。『
彼女が立っていたのは客席の上の方だったが、フュレプは彼女を
だが、フュレプが野外
その立ち姿を見て、フュレプは直感した。彼女は“
淑女はライト・ブルーのドレスを着ていた。白いドレスではなく、日傘も差していないのに、モネの『日傘の女』がフュレプの頭に浮かんだ。座っていないのに、セザンヌの『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』を想起させた。
どうして彼女はこんなにも多くの絵を連想させるのだろう? フュレプは客席を駆け下りて、舞台の前まで来ていた。淑女がフュレプに気付いて、柔らかく微笑みかけてきた。
「失礼しました。ここに立ってはいけませんでしたか?」
どうやら淑女はフュレプを
「そういうわけではありません。あなたが舞台に立っている姿が、絶妙に様になっていたので、近くで見ようと思って……」
マルーシャ・チュライに会った時は近付きがたいものを感じていたのに、この淑女はそれと全く逆の雰囲気を持っていた。しかし、手を触れることは叶わないだろう。そして同じ舞台に上がることもできない。フュレプは感じていた。
だが、彼女の方が近付いてきて、舞台の端に立った。舞台の方が十数センチメートル高いはずだが、彼女が小柄なので、視線がフュレプとほぼ同じ高さになった。
「でも、もう降りますわ。とても素晴らしい
淑女が手を差し出してきた。手を取って、段差を降りるのを手伝って欲しいということか。触れられないと思っていたのに、触れることができた。そして手を取った瞬間、フュレプは微かな記憶がよみがえった。自分は彼女を知っている。
「失礼ですが、ビアンカ・ミノーラ
それも弟のフェレンツに、ウィーンへ連れて行かれ、バレエを見せられた時に……
「ご存じでいらしてくださって、光栄です」
「そうでしたか……有名な方なのに、不躾に凝視してしまって、申し訳ありません」
「お気になさらず。
ビアンカ・ミノーラは人のよい笑みを浮かべながらフュレプを見ていた。何かを要求されている、とフュレプは思った。こちらだけが彼女を知っていて、相手は何も知らないことに気付いた。自分も名乗らなければ……
「ラカトシュ・フュレプと言います。ラカトシュが姓で、フュレプが名で……」
「理解していますわ。ハンガリーですもの。よろしく、ラカトシュ・フュレプ
「いえ、僕はバレエや音楽のことはほとんど解らないのです……画家なんです。名前は全く知られていませんが」
「ああ! 道理で芸術家の目をしてらっしゃると思いました。このマルギット島を絵に描いたこともおありですか? ここはとても美しい島ですね。パドヴァには小さな緑地しかないので、こんな広い公園を見ると、興味を感じて、つい歩き回ってしまうんです」
芸術家の目をしている、と言われたことは何度かあるが、女性からは二人目だった。一人目はポーラだ。フュレプは少し気をよくした。絵のことを考えながら女性を見たら、画家に見てもらえるのかもしれない。
マルーシャ・チュライは自分のことをどう思っただろうか? あの時は、彼女を絵として見ていなかったから、たぶん……
「島はもう全て見られましたか?」
「ここから南はだいたい見ました。朝から見始めたのに、ずいぶん時間がかってしまって! 気に入った景色のところでは、ずっと立ち止まって見ていたくなるんです」
「よろしければ、ここから北の部分は、僕が案内しますが……」
フュレプは、つい言ってしまった。この島の中の、絵になるようなところは知り尽くしているという自負があったからか。しかし、女性に話しかけることすら苦手だったのに、どうして彼女には声がかけられるのだろう。何かしら、惹かれるものがある。彼女は、他の男性からは、声をかけられていないのだろうか?
「まあ、本当ですか。ぜひお願いします。日本庭園と“
「すぐ近くに、
「ぜひ見たいですわ」
笑顔のビアンカ・ミノーラを伴って、フュレプは野外
【By オペラ
おそらくは、異変があったことを示すのだろう。今日がステージの初日なのに、その前に何かあったということになっているようだ。であれば、これはターゲットにつながるヒントに相違ない。緊張感をたどっていけば、それが判るだろう。
しかし、順序どおりに見ていこう。1階の古美術から。古代の陶器や彫刻、金属器。同じような物がたくさん並んでいる。この辺りは、全く変わっていないように思う。
どこから持ってきたのか判らない、神殿の柱。今回のターゲットは、おそらく神話が関係しているから、ここに何かのヒントが? 特に何も感じない。
エジプトの墳墓から持ち帰った柩や装飾品。これらはおそらく関係がない。バビロニアの出土品。これもきっと関係ないだろう。シュメールのレリーフ。これも違う。メソポタミアのエンリルは北風の神、ニンリルは南風の神だったはず。西風の神は思い当たらない。
やはりギリシャあるいはローマだろうか。ギリシャ神話の西風の神はゼピュロス、ローマ神話の西風の神はファヴォニウス。北欧神話にも西風の神がいただろうか。ヴェストリ? はっきり思い出せない。
2階へ。ポール・アーント・コレクション。古代の大理石、陶磁、そして青銅の像。少女の像“ブダペスト・
ジャンバッティスタ・ピットーニの『聖エリザベトの施し物』が一番素晴らしいが、これもターゲットとは関係ないだろう。ラファエロの『エステルハージの聖母子』、エル・グレコの『ゲッセマネの園』、ブロンズィーノの『ヴィーナス、キューピッドと嫉妬』、ルイーニの『聖母子と聖カタリナと聖バルバラ』。どれも感動的な絵だが、私が探しているのはこれらではない。
3階に上がると、緊張感が強くなった。その発生源を知りたくなる。他の作品を見ていられなくなって、そちらに足が向いてしまう。部屋を渡り歩く。少しずつ緊張感が高まる。東欧の画家の作品。私の知らない画家が多い。ハンガリーと、それ以外に分けてあるようだ。
最も緊張感のある場所で、自然と足が止まった。だが目の前には何ということもない絵がかかっている。アンリ・エプスタイン。その名は知っているが、この作品は初めて見る。
違う違う。これではない。この前に展示されていた絵が問題なのだ。その絵はここから無くなった。あるいは持ち去られた。そういうことだろう。緊張感の原因は、盗難の形跡だった。
それが誰の何という作品かも判らない。調べてみればいいだろう。きっと過去のニュースになっている。そして少なくともターゲットの“西風の神”に関係しているはず。
その絵がここにあったのか? 答えはおそらく「
学芸員に訊いてみようか? いいえ、違う。マルギット島で会った、あの画家。彼が何か知っているはず。私はおそらくもう一度彼に会うことができる。明日か、明後日か。どういうタイプか知っておきたいが、どうすればいいか。それこそ、学芸員に訊けば、何か知っているかもしれない。
不意に、胸騒ぎを感じた。私の後ろに誰か立っている。この前から、迂闊に背後を取られてしまうことが多い。もっと緊張感を持たねばならない。
ゆっくりと振り返る。襲われそうな兆しはない。しかし、油断ならない気配を漂わせている。隠そうともせず、むしろ私に気付かせようというのだろう。私が
振り返ると、ゲルマン系の白人男性が立っていた。身長は彼と同じくらい。体格は彼に少し劣るだろうか。しかし、運動能力は大差ないだろう。どうして私はこの男と彼を比べてしまうのだろう。彼を基準にして、何かいいことがあるだろうか? もちろん、それはない。
だが目の前の男が、彼よりも遥かに危険な存在であることは解る。精悍に見える顔の下に、獰猛さを隠し持っていることは明らかだ。この世界の“不殺のルール”がなければ、この男は何の容赦もなしに敵を
そう、私は認識した。この男は、私の敵だ。
そしてこの男もまた、私を敵と認めた。
声をかけ合うか? 向こうからかけてくるまで待とう。しかし、男は声をかけてこなかった。殺意を秘めた穏やかな笑みを崩さないまま、私の前から去っていった。姿が見えなくなっても、私は緊張感を保たずにいられなかった。
今回は厳しい戦いになるに違いない。少なくともあの男は、彼のように私の手に乗ってくることはない。そして彼のようにある種の互助関係を結ぶこともないだろう。
彼に、あの男のことを教えた方がいいだろうか? 今夜彼に会うまで、心を整理しておかなければ……
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