#15:第1日 (9) 温泉と遺跡
【By 主人公】
ゲッレールトの丘の南へ下りてきた。狭い坂道を歩く間、ジゼルは自身の仕事について語ってくれた。経営コンサルタントで、パートナーと共同事務所を持っているそうだ。
そのパートナーは男だが、「恋愛対象ではない」とジゼルは言い切った。ある有力な経営コンサルタントの息子で、財力と伝手を使えば一人で事務所を開けるのだが、「稼働率を上げる」ことを目的にパートナーを募集していたので、ジゼルが手を上げたのだとか。
「しかし、手を上げたのはどうやら僕だけだったんだ」
「そいつの評判がよくなかったのか」
「まあ、そうだね。実力不足だよ。穴が多すぎる。僕がフォローしてばかりだ」
「メリットは名前で仕事が入ってくること」
「もちろん、そうだ。おかげで僕の名前も売れたし、その点はデメリットを補って余りある。収入も悪くない。彼が独立すると言い出すまでに、僕も独立できるくらいの資金は貯められるだろう」
洞窟の入口は意外に大きく、半径6ヤードくらいの半円型。周囲の一部はコンクリートで固められており、そこに鉄の檻が付いているような形だ。檻の一部は引き戸になっている。
歴史はさほど古くなく、1926年にパウロ修道会が、フランスのルルドにある洞窟教会を模して建設したのだという。戦後、ソヴィエト連邦軍によりコンクリート壁で塞がれてしまったが、1990年に再開、2008年に修復されたのが現在のものだ。
そこに入りながら、さっきの話の続き。
「しかし、時には重大なデメリットもあるだろう」
「そうかな。例えばどんな?」
「クライアントの経営に関する隠された資料を、不正な手段で得なければならなくなるとか」
「映画にありそうだね。でも、僕の場合はそういうのじゃないんだよ」
教会はミサの時間以外は有料であるらしく、1000フォリントが必要。ジゼルの分も出そうとしたら、彼女は自分のをさっさと払ってしまった。おごられるのも性に合わないのかな。
入ったらいきなり狭いトンネルになってしまうが、奥へ行くと広くなったところがあって、椅子がたくさん置かれ、祭壇にはマリアが飾られていた。なるほど、ルルドも確かマリアが飾ってあるはずだな。個人的には“ルルドの奇跡”は全く信用ならないものだと思っているが、それはこの際どうでもいい。逆に仮想世界の中なら、その手の奇跡は起こし放題ではないかと思う。
とにかく、一風変わった形の教会であることは感じ取れたが、狭いのでもう見終わってしまった。外に出ながらジゼルに訊く。
「これからどこへ?」
「ゲッレールト温泉に興味はある?」
「ないこともないが、準備をしていない」
リーフレットに依れば、水着の持参が必須ということになっていたと思う。ジゼルの持ち物はハンドバッグ一つで、水着なんて持って来ていなさそうだ。
「水着は中でも売ってるよ。そもそも、君はホテルに戻れば水着があるのかい?」
「持って来たはずだけどなあ」
前回のニュー・カレドニアから荷物を入れ替えてないのだから、あの時穿いた水着がスーツ・ケースに中に入っているはず。
「そうか。それなら買うのは少し不経済だね」
「別に、君一人で入ってくれても構わんよ」
「一人で入るのが寂しいから誘ってるんだよ。ところで、この温泉の更衣室はちょっと気になることがあるんだけど、知ってるかい」
「いいや」
「キャビンとロッカーがあって、キャビンは個室だけどロッカーは男女共用なんだ」
「じゃあ、君と並んで着替えることになるのか」
「僕はそれでも構わないんだけど、君は気にする?」
また男の前で着替えを恥ずかしがらない女が出てきたよ。それとも、彼女はやっぱり
「不用意に裸を見せると相手が訴えてくる国に住んでるんで、脱ぐときには十分気を付けるが、俺自身は見られてもどうということはないよ」
「じゃあ、一緒に入る約束をしよう。明日はどう?」
「明日は一日中予定が詰まってる」
「そうなのかい。でも、夜は7時まで開いてるよ」
「おそらく、夕食にも誘われるだろう」
「じゃあ、朝はどうかな。ここじゃなくて、ルダシュ温泉なら6時から開いてるはず」
そんなに早くから開いているのは便利だが、客は来るのだろうか。
「どうして俺と一緒に入ることにこだわってるんだ?」
「君なら一緒に入ってくれるかと思って」
「逆に、君を誘う男が……男に限らず、女もたくさんいそうだけど」
「僕がその相手を気に入るかどうか判らない」
「俺のことは気に入ったのか」
「とても」
笑顔でジゼルが答える。大した理由もなしにか。
「しかし、俺をここに誘ったのは、君が誰かに跡を
「そうか、やっぱり気付いてたんだね。思ったとおり、勘がいいな、君は。ますます気に入ったよ」
屈託ない笑みを見せるのだが、やはり中性的だ。そのせいか、どうにも信用しにくい。
「誰に追われてたんだ」
「さあね。僕はストーキングに遭うことが多いんだよ。旅先でもね」
「しかし、もうまいたんだろう」
「そのようだ。君のおかげだよ。ありがとう」
「礼には及ばないが、この後も俺と一緒に行動しようとしてるな。その目的をはっきりさせてくれないか」
「君が気付いてるとおりだよ」
目を細めて、少しばかり女の色気を漂わせた。なるほど、女らしくすることもできるというのは本当だった。
「
「そう」
「ヴァケイション?」
「そうだよ」
「どうして俺のことに気付いた」
「目が他の人と違うからさ」
やっぱり、そういう特徴があるんだ。しかし、彼女と他の人物の目の違いは、俺には判らない。綺麗なブルーの目だということだけは解る。どうして俺は判別できないのか。
「ヴァケイションなのに、他の
「それはもちろん」
「他に3人いるんだ」
「それくらいはいるだろうね。君がヴァケイションでないのは何となく解ったし、そうなると他にもいるのは必定だから」
「見分けるコツがあれば教えてくれ。俺は10以上もステージを経験してるが、いまだに見分けられないんだ」
「僕の目を真っ直ぐに見れば解るよ」
それをやると催眠術にかけられるんじゃないかなあ。あるいは彼女の方が催眠術にかかって、もっとおかしなことになるとか。しかし、ジゼルは執拗に俺を見つめてくる。
「目を見てくれないのかい?」
「今日は遠慮しておこう」
「じゃあ、明日の約束は?」
「確約は無理だな。君のホテルを教えてくれ。後で連絡する」
「フォー・シーズンズ。君のホテルも教えてよ」
マルーシャと同じかよ。しかし、ヴァケイションではやっぱりいいところに泊まれるんだなあ。
「押しかけないと約束してくれるなら」
「僕のところには押しかけてくれてもいいよ。夜遅くなったって構わない」
「どうして俺のことをそんなに信用する?」
「まだ全面的に信用してるわけじゃないよ。時間をかけて話をしたいだけさ」
「話し相手ならホテルの世話係もいるだろうに」
「それはそれでまた別の存在。僕はいろんな人と話をしたいんだ」
「俺以外の
「もちろん。まだ会ってもないけど」
「フォー・シーズンズに一人いる」
「君が教えてくれるのなら、きっと女性だろうね」
なぜ見抜かれてるのかな。
「名前を教えてやろうか」
「いや、自分で探すよ。早ければ今夜、遅くても明日くらいに会うんじゃないかな」
「他のに会ったら、教えてくれると助かる」
「その人が君のことを知りたがればね。そうじゃないと教えない。一方的なのはアンフェアだと思うよ」
「もちろんだ」
「さっき言ってた女性は、お互いによく知ってるのかな」
「そういうこと」
「その彼女に会えたら、君をどう思ってるのか訊いておくよ」
「いや、だいたい判ってる」
「気にしないで。僕が君を知るための参考にしたいだけさ」
弱みを握られるような気もする。迂闊なことを言ったかもしれん。
「それで、君のホテルは?」
なかなかしつこいな。話を逸らしたと思ったのに。
「押しかけないんだな?」
「君が嫌がることはしないと約束するよ」
「リッツ・カールトン」
「ありがとう。会うのを楽しみにしてるよ」
その程度で礼を言われるようなことか。
「この後はどうするつもりだ」
「君が行くところに付いていっちゃダメなのかな?」
「できれば一人にしてくれると助かる」
「嫌われたくないから、言うとおりにするよ。でも、できれば行くところを教えてくれないかな。うっかり同じところへ行って、
「アクインクムへ行こうと思っている」
「結構だね。じゃあ僕は、橋を渡ってペスト地区へ行くことにしよう。それなら絶対会うことはない。
ここまで素直に解放してくれるとは、案外いい奴かもしれない。性格的も、男のようにサバサバしている。現実世界なら友人になってもいいんじゃないか。
「君に会えてよかった」
「僕もだよ。でも、そんな長い別れの挨拶みたいなことは言わないでくれるかな。今日のところはまだ一時的なお別れだ。明日会えるのを楽しみにしてる」
別れのキスでもねだってくるかと思ったら、教会を出たところであっさりと去って行った。女らしいことはやっぱりしないんだな。
さて、アクインクム。ここからだと6マイル弱はあるだろう。タクシーでもいいのだが、
「
目は笑っているが、おそらくジョークだろう。訊くと、彼女も
15分ずつ乗り、30分ほどで着いた。ただし、最寄りであるはずのアクインクム駅は、博物館を4分の1マイル以上行き過ぎたところにあった。
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