#15:第1日 (5) 丘の上の城

【By 主人公】

 ホテルを出て、セーチェーニ鎖橋へ。それを渡ると、対岸にちょうどブダ城の建つ丘がある。しかし橋を渡る前に、セーチェーニ広場の東に建つフォー・シーズンズ・ホテルを見る。

 グレシャム・パレスと付くだけあって、貴族が住む館のように立派だが、実は貴族が住んだことはない。連合王国に本社を置いていたグレシャム生命保険会社がこの土地を買い占め、オフィスとして建てたものだ。会社の上級社員が住んでいたこともあったが、戦時中は赤軍の居住に使われ、戦後は一般人のアパートメントとして使われた。

 そして今はフォー・シーズンズ・ホテルズ&リゾーツが所有し、超高級ホテルとして使われているというわけだ。ブダペストで最も高級なホテルなのだが、なぜにマルーシャはここを利用できて、俺は利用できないのだろう。

 今までのステージでもそうだが、彼女は常に俺よりも高級な部屋に泊まっている。例外は山小屋ばかりのノルウェーだけだよな。

 とりあえず気にせずに、セーチェーニ鎖橋を渡る。鎖橋ラーンツィードという一風変わった名は、吊り橋の鋼索ケーブルの代わりに鎖を使ったものによるとのこと。鎖はリングがつながったものではなく、自転車のチェーンのように鋼板を心棒でつなげていく構造だ。戦時中に破壊されたが、戦後に再建されたときも鎖構造は踏襲された。

 チェーンを支える主塔は重厚な石造りで、古城の門のように見える。セーチェーニはこの橋の建造を推進した19世紀の貴族セーチェーニ・イシュトヴァーンからで、この橋に限らずいろんなところに名を残している。

 橋を渡ると道路はラウンドアバウトになっていて、その先は丘の下をくぐるトンネル。丘の上のブダ城へ行くには、すぐ脇にあるケーブル・カーフニクラーに乗る。しかし、長蛇の列が。日曜日だけに、大混雑だな。

 オデッサではケーブル・カーフニクラーに乗らず階段を上り下りしたが、ここに階段はなく遠回りの坂道があるだけだ。同乗した女がキー・パーソン、という展開も考えられるが、列に並んで待つのが嫌いな性分なので、坂道を行く。足も鍛えられるだろう。

 そう長い道のりではなく、斜面に沿ってジグザグを2回繰り返し、4分の1マイルもないくらいで上に着いた。

 城は巨大で、主要なエピュレットが六つつながっている。真ん中の翼には緑青のドームを付けた鐘楼も建てられている。リーフレットに書かれた歴史は複雑すぎてとても読む気にならないが、最初に城が作られたのは13世紀で、その後、破壊されたり再建したりを繰り返し、現在の姿は20世紀中頃のもの、ということだ。たぶん、ターゲットには何の関係もない。

 とにかく、その広大な建物を利用して、図書館と美術館と歴史博物館が同居している。一も二もなく美術館へ。ここも長蛇の列だが、こればかりは仕方ない。ただ、例のカードを見せるとVIP待遇で先に入れる、という可能性もあるが、余計な案内役がくっついてきたりしたら困るので、素直に列に並ぶ。

 待っている間に、リーフレットを見る。美術館ガレリアとして使われているのは、六つの翼の内の四つ。横並びになって、それぞれの翼にAからDと名付けられている。そこに中世から現代までのハンガリー美術を展示している。

 1階には中世の彫刻と、ゴシック時代の彫刻とパネル絵。2階はバロックと新古典主義の作品。3階は20世紀以降の絵画と彫刻。4階は現代美術。

 収蔵されている芸術家の名前は……彫刻家が、アレクシー・カーロイ、マウリス・アスカロン、ボルショシュ・ミクローシュ……画家がムンカーチ・ミハーイ、パール・ラースロー……最後まで読んでも知っている名前が一つも出てこない。

 特に見るべきなのは誰の作品だ? ムンカーチ・ミハーイの『花』? パール・ラースローの『昼』? 全然知らんぞ。やっぱりカードの権力を行使して、誰かに案内してもらった方がよかったか。

 周りの声に耳を澄ますと、コヴァルスキという名前が聞こえる。ハンガリーらしくない名前だし、リーフレットにもない。とりあえず、列がはけて中に入るのを待つ。

 入ったら1階から順に見ていく。あんなに並んでいたのに、やけに空いてるじゃないか。何か目玉の展示があって、そこに人が集中しているのだろうか。

 受付に引き返して、特別展示のリーフレットを探す。そういう前例があるからな。『建国記念展』というのがあったが、その中に先ほどのコヴァルスキの名前はない。だいたい、建国記念なんだからハンガリーの芸術家の作品が重要視されるに決まってる。

 ところで、ハンガリーの建国っていつだっけ。今の共和国じゃなく、王国の時代を祖にしてるだろうから、かなり古いはずだよな。調べてくりゃよかった。アネータに電話して聞くか? 仕事に関係あるんですかって怒られそうだな。帰ってから調べるか。ラップトップを持ってるんだから、調べられるだろう。どうしてモバイルじゃないんだ。不便だな。

 展示室に戻る。西風あるいは神に関係しそうな作品を探す。だいたい、西風の神ってんだからギリシャ神話かローマ神話を題材にしてるよな。そういう作品が一つも見当たらないんだけど。宗教画は多いな。

 4階に上がったら人がたくさんいた。ひとところに固まっているのだが、立ち止まってすぐ立ち去る人が多い。見に行くと貼り紙があって、ハンガリー語に英語併記で“木曜日から再展示リエグジビット・フロム・サーズデイ”と書いてあるだけ。どうやらその区画だけが模様替えか何かで展示中止になっているらしい。せめて何の作品が置いてあったのか書いてくれよ。

 しかし、オックスフォードの博物館では初日に一瞬だけでもそれっぽい展示物が見られたのに、どうして今回は最初からこんなことに。周りにちょっと訊いてみるか。いや、学芸員キュレーターに尋ねるべきだろう。どこかに美人の学芸員キュレーターはいないか。いなさそうなので、むっつりした顔の男の警備員に訊いてみる。

「言ってはいけないことになってるので……」

 なんだ、それは。そのわりに、他の客は知っているようだが。再びオックスフォードを例に引くならば、初日にそこにあるものが素直にターゲットになるわけじゃない、ってことは判ってるが、少なくとも何があったのかくらいは知っとかなきゃあ。

 仕方ない、“最後の切り札トランプ・カード”を使うか。もちろん、警備員に見せたって仕方ないので、受付に戻って美人の……は、他の客に占領されてらあ。男でもいいか。

「“財団”の!? しかし、今日とは聞いてなかったですが……」

 受付係が驚いている。今日じゃなかったら、いつなんだよ。もしかして俺の記憶にもあるのかな。今回はやけに憶えがいいから思い出してみようか。

 いや、美術館ガレリア訪問は記憶にないぞ。月曜日に交通局と警察、火曜日に科学アカデミー、水曜日に大学、木曜日に図書館……もしかしてそれか。隣の図書館へ来るついでに、ってなってたっけ? どっちがついでなのか忘れたけど。

「木曜日でなければならない理由があるのかな」

「そういうわけではありませんが、本日は館長が休みでして」

 館長じゃなくても、学芸員キュレーターの責任者くらいいるんじゃないの。

「呼びます」

 受付係が電話をして、しばらくしたら、若くて元気そうな女が出てきた。黒く長い髪で、細面で丸い眼鏡をかけていて、背が高くて痩せていて、胸は……どうでもいい。やけに嬉しそうだな、おい。こんな若くて責任者なのか?

「ようこそ、博士ドクトル! こちらへどうぞ」

 女に連れられて、バックヤードに入る。尻のヴォリュームが少し足りない気がする。小さな会議室へ招き入れられたが、壁際に木箱が積み上がっていて、どう見ても物置の一部だ。女はティサ・エメシェと名乗った。俺と同い年くらいにしか見えない。

「私は責任者じゃありませんけど、木曜日にあなたをご案内する役を仰せつかっていまして」

「それを今日してくれというわけじゃなくて、4階の“木曜日から再展示”ってのは何かを知りたいだけだよ」

「木曜日にお見せできる予定でしたので、油断してました」

 エメシェは言いながら、唇の端を形よく吊り上げる。なかなかいい笑顔だ。言い訳より効果がありそうだな。

「木曜日まで明かしてくれないのかな」

「そういうわけではありませんが、実はあの一角に展示した絵が泥棒に狙われているので、混乱を避けるために展示を中止してるんです」

 泥棒を目の前にしてそういうことを言うか。

「コヴァルスキ?」

「あら、ご存じだったんですか」

「そういう名前が他の客から聞こえただけだよ」

「ずっと前から噂になってるから、仕方ないですね。もっとも、国外までは知られてないようですけど」

 3ヶ月前から1ヶ月毎に、市内各所でコヴァルスキの絵が盗まれている? 『北風ボレアース』『南風ノトス』『東風エウロス』と来て……

「ここにあるのが『西風ゼピュロス』です。『南風ノトス』が盗まれた頃からずっと警戒しているんです。警察からもたびたび注意されてますし」

 ゼピュロスはギリシャ神話の“西風の神”だな。ターゲットの言葉そのまんまだよ。しかし、そうなると逆に絶対ターゲットじゃないという気もするけどなあ。

「展示を中止するべきだな」

「でも、それが目当ての観覧客もたくさんいますから」

 商売優先? まあ、しかたないか。いくら国立でも、維持費の足しを稼がないといけないから。

「木曜日になると何が変わる?」

「いろんな盗難対策が揃うんです。詳しくは説明できませんが」

「俺も泥棒として疑われてるんだ」

「私は疑う気はありませんけど、他の方はどうか判りませんし、私が話すことをどこで誰が聞いているかしれませんから」

「実は君も詳しいことを知らないんじゃないの」

「ええ、実はそうです」

 さっきと同じ笑顔だから、知ってるけど言わないための言い訳だろう。要するに、実情を知るには時間がかかるということだ。警察という言葉が出たから、そっちからも情報を得られるかも。

「では、続きは木曜日に聞こう」

「そうしたいです。今日の観覧はどうされますか? 木曜日は時間がないので主要な展示を案内するだけですし、その時に見られないものを今案内することもできますが」

「君の仕事を邪魔するつもりはないから、一人で見るよ」

「ではまた木曜日に」

 エメシェに連れられてバックヤードから出る。さて、一人で見るとは言ったものの、特に興味を引く展示があるわけでもない。なので、建物内の廊下や階段の配置を確認する。もしかしたら夜中に侵入することになるかもしれないからだ。

 しかし、監視カメラがたくさん配置されているので、こっそり入るのは難しそうだ。警備員に変装するくらいかなあ。そんなのできるとは思わないけど。

 まあ、侵入するなら、何かしら方法があるんだろう。金曜日くらいまでに、それを調べればいい。

 4階ではバルコニーから外に出て、景色を眺めることができた。眼下に鎖橋、遠くにマルギット島が見える。ドナウ川はどこまでも濁っていた。

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