#15:第1日 (4) 画家と刑事

【By 画家】

 あれがマルーシャ・チュライ! 本当に、何と美しい人だろうか。

 ラカトシュ・フュレプは画家だったが、オペラ歌手である彼女の名前を知っていた。のみならず、実物の彼女を見たこともあった。弟のフェレンツに、ウィーンへ連れて行かれ、オペラを見せられた時だ。絵画の技量を上げるには、絵画以外の芸術も知るべきだという理由で。

 演目はモーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』だったろうか。だから、彼女の実物を見たといっても劇場の一番上の方からで、それでもその美しさが判るほどだったが、歌はもっと素晴らしかった。他の誰が唄っても、フュレプの心の中に“歌の景色”が見えることはなかったが、彼女だけが“景色”を見せてくれた。

 フュレプは芸術家の端くれであっても、音楽のことが解るとは思っていなかった。弟の作曲の才能が優れていて、世間に認められているのは理解しているが、その曲の良さはフュレプには伝わらない。

 音楽だけでなく、詩や小説でも同じことだ。兄のファルカスの書く詩が素晴らしいとして、詩集が飛ぶように売れているが、フュレプにはその詩が心に染み込んでこない。どちらも心に“景色”を見せてくれないのだ。

 だが、マルーシャ・チュライは違った。曲と詩が合わさったからというわけでもない。彼女の歌だけが特別なのだ。それに加えてあの並外れた美しさ!

 月の光を染み込ませたようなシャンパン・ブロンドの髪、澄みきったエメラルド色の目、繊細な形の鼻、絶妙なカーブを描く薄い唇、上品に尖った顎。その全てが絶妙に配置されていた。ファルカスなら、もっと言葉を尽くして彼女の美を表現してくれるだろう。しかし本当はそれは、言葉で表しきることができないものだと、フュレプは感じた。絵で表すしかないのだ。だが今の自分の腕で描くことができるかというと……

 不意に、フュレプは別の光明を見出した。コヴァルスキの『西風ゼピュロス』に描かれた、花と春の女神フローラ。それを、マルーシャ・チュライと思って描いてはどうか。もちろん、実物のマルーシャ・チュライの方が絵の中のフローラより美しい。だが、フローラに彼女の美しさを託して描く。彼女の顔に似せるのではなく、その美しさの神髄だけを抽出して。

 目を閉じて、先ほどのマルーシャ・チュライの顔を心の中に思い描く。一目見るだけで、心に焼き付くほどの美しさだが、以前にオペラで見たのと、今日ほんの近くで見たのとでは、その印象が倍も違った。写真に撮っていなくても、フュレプの“心の目”では、彼女の顔を細部まで“見る”ことができた。弱いながらも、フュレプには映像記憶力がある。特に感動を得た一瞬の景色を、詳細に憶えることができるのだった。

 目を開けて、フュレプはため息をついた。彼女の美しさがそうさせるのだ。いつまでも見ていることができる美しさ……だが先ほど、どうして自分は彼女からたびたび視線を外したのだろう、とフュレプは思った。

 彼女の美しさが予想以上だったので、心が耐えられなかったのだろうか。優れた美を見るときには、畏敬の念を感じるものだ。畏敬ティステレットはその大きさによって、恐れフィレレムに変わることもある。彼女の美を恐れたのだろうか?

 芸術の美は、時として人の心を奪い、狂わせることもある。そうなることを一瞬にして悟り、正視することを避けたのだろうか?

 だが、自分はそれを乗り越えなければならない、とフュレプは思い直した。『西風ゼピュロス』を完成させるためにも。それだけではなく、画家として大成するためにも。

 ファルカスやフェレンツのようになれないのは、目の前に壁があるからだ。それはフュレプ自身が作ってしまっている壁かもしれなかった。その壁が、一線を越えることを恐れる意識の表れであれば、それを壊さなくてはならない。それは彼女の“美”に耐えることだと思ってはどうだろうか?

 フュレプはまたため息をついた。今のこの考えが正しいかどうか、よく判らない。検証する術もない。しかしひとまず『西風ゼピュロス』は、先ほどの考えに基づいて仕上げることにしよう。

 本物との微妙な差異にこだわる必要はない。本物の持つ“美”の概念を再現できるのならば、細部が違ってもそれは本物と変わりないはずなのだ。

 警察を、もう2週間も待たせている。今日明日中にも完成させなければならない。この後、刑事のジョルナイ・ポーラと会うことになっている。模写の件の依頼者。しかし、模写の出来に納得がいかないままなのに、作業を継続することに心が耐えられなくて、マルギット島へ来たのだった。一時いっときの心の安らぎを得るために。

 今考えたことを、ポーラに相談してみるべきだろうか。フュレプは迷った。概念的なことばかりで、理解してもらえないかもしれない。だが彼女は、刑事にしては芸術に理解がある。そして今のところ、画商を除けば最も身近なフュレプの理解者だろう。

 たとえそれが、コヴァルスキの絵の盗難を防ぐためであっても、フュレプにコヴァルスキの模写ができる力があることを、認めてくれているのは間違いなかった。

 そして彼女は一人の女性としても美しい。絵の中のフローラよりはもちろん、断然美しいのだが、彼女の持つ美をフローラに託しても、元の絵が持つ美を再現できないのだ。

 それはあるいは、自分たちマジャール人の容姿が、ギリシャ人に似ていないからかもしれなかった。マルーシャ・チュライもウクライナ人だが、少なくともマジャール人よりはギリシャ人に似たところがある。

 もっとも、マルーシャ・チュライの美は、ポーラどころか人種の違いを超えるところに位置するものであるから、というのが正しいのかもしれないが……

 間もなく、ポーラがここへ来る。このマルギット島の野外舞台シンパッドへ。そういえば、マルーシャ・チュライに会えたのは、ここが舞台シンパッドだったからかもしれない、とフュレプは思った。

 彼女は舞台シンパッドの上に立つ芸術家であるだけに、こんな簡素な野外舞台シンパッドであっても、興味を持ったのだろうか。フュレプは舞台シンパッドに立つことはないが、舞台シンパッドというのは世界を切り取った一部分を示す。それは絵の持つ概念と同じだ。だから自分はここが好きなのだろう、とフュレプは感じた。

 そして今日ここで、マルーシャ・チュライと出会えたことを、心から喜んだ。



【By 刑事(女)】

 約束の時間にジョルナイ・ポーラがマルギット島の野外舞台シンパッドに来ると、ラカトシュ・フュレプは既に客席にいた。警察を出る前に彼の家へ電話したが、誰も出なかった。もっともラカトシュの三兄弟は、創作に集中するために電話を切っていることもあるらしいから、どうしても会いたければ、直接家へ行くしかない。それでも“創作に集中していて”誰も来訪者に応対してくれないということもあったりしたが……

こんにちはスィア、フュレプ」

 声をかけたが、振り返ったフュレプを見て、昨日までとは何かが少し違うと、ポーラは感じた。昨日まではそれこそ、創作に行き詰まって苦悩する芸術家の顔つきそのものだったのに。

こんにちはスィア、ポーラ。時間どおりに来てくれてありがとう」

 挨拶はいつものフュレプだった。ポーラはフュレプと並んで客席に腰を下ろした。

「このところ、毎日呼び出してごめんなさい。例の模写の件で、パタキ主任がうるさくて、形だけでもあなたに催促しておかなきゃいけないのよ。でも、私は心配してないわ。今日明日でなくてもいい。木曜日までに何とかしてくれれば、と思ってるの。できなくても代案があるから心配しないで」

 前の『東風エウロス』の盗難以来、結局3週間、美術館ガレリアの『西風ゼピュロス』には何事もなかった。それでいよいよ、次の新月の夜に“鍛冶屋たちコヴァーチョク”が盗みに来るのだろうという予想が立っていた。それは次の土曜日、つまり8月20日、奇しくも建国記念日だ。

 もちろん、その前日の夜から警戒することになっているので、木曜日までに、ということなのだった。

「ありがとう。でも、明日か、遅くとも明後日までには何とかするよ」

 フュレプは呟くように言ったが、その口調にいつになく力強いものを、ポーラは感じた。加えて「迷惑をかけて済まない」という謝罪の言葉もない。その言葉を発するときの頼りなげな表情に、ポーラは言い知れない保護欲を掻き立てられていたのだが。

「そう、よかったわ。何か掴んだのね」

「うん、うまくいくかまだ判らないけど、ちょっとした希望の光が見えてね」

「それはやはりフローラの表情のことで?」

「そうだ」

 以前からそこに問題があるのを、ポーラは聞いていた。1週間ほど前から、「もう一息なんだ」とフュレプは言っていた。そしてフュレプの手元には、フローラを描くことだけが失敗した『西風ゼピュロス』の模写が、何枚かあることも知っていた。

「完成した後でいいから、その希望の光が何だったかを聞いてみたいわ」

「今ここで話してもいいと思ってたんだけど」

「うまくいくかまだ判らないって言ったでしょう? なら、試してみて、手応えを掴んでから聞きたいわ。もちろん、ここであなたが私に意見を聞きたいのなら、話してくれていいけど」

「そうだね。まずは自分自身の中で、今の考えを消化することが大事かもしれない。でも、概念だけは話しておくよ。フローラのモデルを見つけたんだ。自分の中の、花と春の女神のイメージに最も近いんだよ。帰ったら、すぐに試してみようと思う」

「あら、今までのモデルと違うのね」

 フュレプが女神のイメージとして、何人もの女性をモデルにしたことを、ポーラは知っていた。その中に、ポーラ自身も含まれていたはずだ。マジャール人だけではなく、その他の人種の女性もいたはず。美人コンテストセップセグヴェルシェニの出場歴がある女性にでも出会ったのだろうか。

「以前、一度だけ見たことがあるんだが、その人とフローラのイメージが結びついていなかったんだ。とにかく、試してみる」

「いい結果が出ることを祈るわ」

「ありがとう」

 礼を言うフュレプの横顔に、少し頼もしいものをポーラは感じた。彼は才能があるのに自信が足りなくて、そのせいか頼りがいに欠ける。彼の兄と弟は自信がありすぎるほどあるので、そのしわ寄せが彼に来たのだろうか。もっと頼りがいがあれば、恋人として付き合ってみたいと思っていた。

 ただし、常に自信満々ではなくて、時にはポーラのことを頼りにしてくれた方がいい。そうなれば、ポーラの保護欲が適度に満たされるから。

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