#15:第1日 (3) 芸術家との出会い

【By オペラ歌手シンガー

 彼はこれからマルギット島を見に行くと言っていたが、本当は私も行きたかった。そこには確実に、何かがある。このステージでターゲットを探すための、最初のヒント。もしくはキー・パーソン。

 けれど、彼と一緒に行くことは避けたかった。初めからヒントを共有するのはよくないから。あるいは、キー・パーソンがいても、彼がいたら私を避けてしまうかもしれないし、彼のキー・パーソンになってしまうかもしれないから。

 だから私は一人で行動した方がいい。そうすれば私が全てをコントロールできる。それに、彼と長く一緒にいると、彼に取り込まれてしまう。彼の不思議な能力。他の競争者にはない効果。

 取り込まれないためには、私は唄うしかない。唄うことで、私は私自身を取り戻すことができる。今回も、きっと唄う機会があるだろう。

 彼もまた、私に取り込まれることを恐れているようだ。しかし、彼は既にその対策を考えているはず。私の対策はまだ足りない。現時点では、彼の持つ“能力”の方が強い。

 アールパード橋を東詰めまで歩いてから、引き返す。こうすれば、彼と30分くらいの時間差を付けて行動できる。ただ、彼は島のことをよく知らないはずなので、あちこちに寄り道するだろう。私は島を憶えているから、彼に追い付かないようにゆっくり歩かなければならない。

 橋の上が、渋滞している。何があったのか、よく解らない。どこかで事故でもあったのだろうか。路面電車トラムが走っている。かなり古い車両だ。私が初めて訪れた頃と、変わりない。

 島に戻ってきた。階段を降り、歩道をゆっくりと南へ。“音楽の泉ゼネーロ・クート”は見ていくことにしよう。井戸のような形をして、上には小さな四阿ガゼボが架けられている。前に見たときよりもやはり新しい。音楽は毎正時に流れる。聴くにはあと30分ほど待たねばならないので、今回は見るだけにする。

 歩き出そうとすると、見知らぬ男に声をかけられた。キー・パーソンだろうか。どうやら違うようだ。カフェへ誘われたが、行く気がないと答える。断ったのに、男は私の後から付いてくる。放っておこう。

 日本庭園は以前に見たから、今回は見なくてもいいだろう。芝生の大広場も通り過ぎるだけにする。ドメニコ修道院跡はもう見ない。哀れを誘うだけだから。

 給水塔は……自然に目に入ってくる。形が美しいからだろう。この島の、一番のシンボル。少しの間だけでも、立ち止まって眺めたくなる。

 しかし、そんなときに限って見知らぬ男が声をかけてくる。さっきの男ではないが、同じようにカフェへ誘われた。もちろん断る。さっきの男と何か言い合っているようだ。放っておく。

 さらに南へ行こうと思ったが、真新しい野外舞台シンパッドが少し気になったので、覗いていく。舞台シンパッドには誰もいないが、客席には見知らぬ男がいた。私が近付くと、振り返ってこちらを見たが、声はかけてこなかった。でもこの雰囲気は気になる。

 彼はキー・パーソンだろうか? おどおどした目つきで、私のことを正視しようか迷っている。しかしその目には、芸術の光が宿っている。このステージでは、確実に芸術家が関係している。だから彼はキー・パーソンではないだろうか。芸術家だとしたら、どの分野だろうか。言語か、造形か、音楽か……

 さりげなく、手を見てみる。ペンを持つ指ではない。筆を持つ指だ。なら、画家だろう。もう少し待ったら、声をかけてくるだろうか。かけてきたとして、どう応対しようか。

 しかし、彼の戸惑いは続いているようだった。決断力が弱いようだ。もしかしたら、この場では関係を持たなくても、後でもう一度会う人物かもしれない。ひとまず、彼の決断を待つ方がいいだろう。こちらからは声をかけず、客席を去る。

「あの……」

 ようやく声をかけてきた。振り返って彼の目を見たら、なぜか彼の方が視線を避けた。

こんにちはスィア

「ああ、こんにちはスィア……あの、失礼ですが、マルーシャ・チュライさんアッソニでは? ウクライナの、オペラ歌手の……」

「ええ、そう」

 私のことを知っていた。やはり芸術に関係する人物だからか。

「そうでしたか……失礼しました。有名な方なので、声をかけたかっただけなんです」

「そう。では、ごきげんようレジェン・シプ・ナポド

さようならヴィソントラーターシュラ……」

 気が弱い。まだ大成していないのだろう。でもきっと、もう一度会うに違いない。どこで会うだろうか。またここか、それとも街中のどこかか。名前を聞いておく必要は……今は、まだいいだろう。向こうから引き下がったのだから。

 バラ園をゆっくりと通り抜ける。なぜだか、今朝は花を楽しむ気にならない。天気はよく、空気も爽やかなのに。私の心が、どこか曇っているからだろうか。それはなぜだろう。

 少し考えたかったが、また見知らぬ男が声をかけてきた。花の前で写真を撮りたいと言っている。断った。私よりも花の方が美しいのだから、花だけを撮ればいいのに。あるいは、写真家だろうか。違う。あの目は写真家のものではない。

 スイミング・クラブの前に来た。泳ぐのは好き。またここで泳ぐことにしよう。明日の朝がいいだろう。ゆっくり歩いてきたつもりなのに、彼に追い付いてしまった。また時間差を付けるために、クラブの建物へ入る。利用条件を確認しておこう。以前使ったときと――それは今よりもずっと未来だが――変わっているかもしれないから。受付で名乗ってパスポートとカードを……

「まあ! あの有名なマルーシャ・チュライさんアッソニ! オペラ歌手の! ええ、もちろん存じておりますとも。本当になんてお美しいのでしょう! ご利用をご希望なのですね。今からですか? 明日ですか。では、会員証を作っておきますから、明日お越しになって、お名前をお告げください。水着やタオルはお貸しすることもできますが、できればお持ちください。それからお持ちであればキャップも」

 なんと気持ちいい笑顔の女性だろう。彼の妻であるリタのように愛らしい。私もこんな笑顔ができるようになりたい。

どうもありがとうナギョン・シーペン・クゥスヌム

どういたしましてスィーヴェシェンよい一日をレジェン・シプ・ナポド!」

 彼はもう行っただろうか。外へ出ると姿はなかった。まだ橋の上にいるかもしれないので、ゆっくりと歩く。

 レストランの前で、見知らぬ男が声をかけてきた。食事に誘われたので断る。もし彼が、あの時、私を食事に誘ってきたら、断っただろうか。よく判らない。コーヒーを一杯飲むくらいなら、付き合ったかもしれない。

 しかし、今日はもう夜まで彼と会うことはないだろう。それまでに、私は対策を立てなければならない。彼に情報を与えつつも、彼の目からターゲットを隠すための対策を。

 マルギット橋に上がり、東へ歩く。ここは記憶どおり人が多い。自転車も走っている。時々、見知らぬ男から声をかけられる。女性からも。私のことを知っている人がいる。挨拶をするが、急いでいるからと言って通り過ぎる。追いかけてくる人もいるが、ホテルまで振り切れればそれでいい。

 橋の東詰め、ヤーサイ・マリ広場テールの電停から路面電車トラムに乗る。幸い、私のことを知っている人はいなかった。声もかけられなかった。

 路面電車トラムは川沿いに南へ走り、国会議事堂の前を通り過ぎ――そこに彼がいたが、気付かれなかったようだ――セーチェーニ・イシュトヴァーン広場テールの電停で降りる。すぐ目の前に、フォー・シーズンズ・ホテル・グレシャム・パレスがある。

 中に入ると、支配人が寄ってきた。着く時間を知らせたことにはなっていないはずだから、ずっと待ち構えていたのだろう。いつものことだけれど。

ようこそイシュテン・ホゾット、マルーシャ・チュライさんアッソニ! 1週間のご滞在でございますね。スーペリア・ルームを用意いたしております」

どうもありがとうナギョン・シーペン・クゥスヌム。とても楽しみにしています」

 私の時代と、どれくらい内装が違っているのかが楽しみ。

「専任のコンシエルジュは必要ないとのことでございましたが、本当にそれでよろしいでしょうか?」

「ええ、必要ありません。電話は全て私の部屋に転送してください。メールはできれば印刷してフロントレセプションで保管し、お知らせだけいただければ」

「かしこまりました」

「それから、もし……いいえ、ある人から、私が不在の間に連絡があったら、答えて欲しいことがあるのですけれど、その名前は後でお知らせします」

 彼から連絡があったときの回答を用意しておかなければならない。

「かしこまりました。すぐにお部屋に入られますか?」

「いいえ、これから出かけるので、鞄だけ預かってください。ロジスティクス・センターからの荷物は、午後には届きますか?」

「すぐに連絡いたしますので、30分以内には届くでしょう」

「部屋に入れておいてください」

「かしこまりました。お出掛けとのことですが、地図はお持ちですか? コンシエルジュに用意させますが」

「いいえ、不要です。この街は好きだから、道はよく憶えています」

「ありがとうございます! ごゆっくり、街をお楽しみください。よい一日をレジェン・シプ・ナポド!」

 本当なら帽子とサングラスが欲しかったが、近くで買うことにしよう。そろそろ店も開くだろう。

 最初は……歌劇場オペラハーズへ行って、挨拶をしておいた方がいいだろう。それからファイン・アート美術館セープミューヴィセティ・ムーゼウム。この二つで、芸術に関する情報はたいがい手に入るはず。きっとキー・パーソンにも何人か会えるだろう。そして、市民公園ヴァーロシュリゲットを散歩してから……後は、その時に考えることにしよう。昼食はグヤーシュ、夕食はマンガリッツァ豚のローストとペチェニェとフルカと……

 そうだ、その前に、カフェ・ジェルボーに寄って、菓子を一通り食べなければ。キュルテーシュ、クグロフ、ドボシュトルタ、リンツァートルタ、レーテシュ、エステルハーズィー、ショムロイ・ガルシュカ、リゴーヤンチ。それからチョコレート・ケーキをいくつか。ベイグリも食べたいが、8月ではやはり無理だろうか。

 カフェ・ニュー・ヨークは明日にしようか、それとも今日の夕方か。ツェントラル・カーヴェーハーズへ行くのは、いつがいいだろう……

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