#15:第1日 (2) マルギット島散歩
とにかく、マルギット島を見に行こう。ちょうど、下に降りるための階段がある。降りてから南へ歩き出すと、いきなり赤い帯を横切る。赤く染めた弾性舗装で、幅は2ヤードほど。その帯の上を走っている奴らがいる。なるほど、これがランニング・レーンだな。おそらくは島内を一周できるのだろう。長さがどれほどかは後で調べればいいとして、とりあえず帯を横切り、小道を歩く。
しかしわりあい大きい島だけに、行き当たりばったりで歩くのは心許ない。見所を逃して後でもう一度来るのも冴えない。朝晩には走りに来るかもしれないけど、ちょこちょこ寄り道するのは趣味に合わない。どこかに地図の看板でもあればいいんだがな。
だがそういうものが見つからないままに、緑の中の小道を4分の1マイルほど行くと、いきなり巨大な建物が出現。ホテルのように見える。いや、ホテルだろ、これ。どこぞの島ではカジノやレーシング・コースまであったんだから、ホテルがあってもおかしくない。ちょっと寄っていくか。島の詳しい地図くらい、もらえるかもしれない。
エンサナというホテルだった。ロビーをうろついて地図を探したが、ないので仕方なく男のコンシエルジュに尋ねる。曖昧な笑顔を浮かべながら、地図のリーフレットを差し出してきた。コンシエルジュは女の方がいい。
とにかく地図を見る。日本庭園? まさか。どうせ鯉が泳ぐ池と
ドミニコ会修道院跡、テニス・クラブ、温水プールのあるウォーター・パーク、バラ園、フランシスコ会修道院跡、スイミング・クラブ、動物園、陸上競技場。スイミング・クラブのプールはヨーロッパ水泳選手権の会場になったことがある? いや、俺はどうせ利用しないし。
とにかく、一番の見所はおそらく給水塔だろう。日本庭園はこの近くだから、一応見よう。ホテルを出てすぐ西側にある。
思ったとおり、池があって、水路があって、小さな木造の橋が架かっていて。池は温水であるらしく、魚が泳いでいて、亀が泳いでいて、本物の日本庭園には絶対置いてないような裸の女の銅像が飾ってあって。蓮が浮いていて、あの細い草は葦?
これでも日本をよく知らない奴が見たら、日本庭園に見えるんだろう。俺だってよく知らないから、どこがどう違うのかは指摘できない。
元の道に戻って、南へ行くと、芝生の広場に出た。日曜日の朝だからか、人がたくさんいる。子供も走り回っている。
その広場を突っ切ったところにあるのが給水塔。高さは残念ながら地図に書かれていないが、200フィートないくらいだろう。
八角形で、オレンジに塗られていて、上に
塔の南側には野外
その西にあるのがウォーター・パーク。正確にはパラティヌス・
また南へ行くとバラ園。バラに限らず、いろいろな花が咲いている。ただし、芝生の広場の中に楕円形の道があって、その両脇に花が植えてある、というくらいで、一般の植物園のような感じではない。男女の
南へ突っ切ったところがフランシスコ会修道院跡。状態はさっきの遺跡とほぼ同じ。子供用の遊具のある公園の脇を通り過ぎ、スイミング・クラブ。オープン・エアだけでなく室内プールもある。俺の利用予定はない。
島の一番南のエリアにあるのが陸上競技場。その内側はサッカーのフィールド……にはなっていないのか。芝生になっているからイヴェント広場として使うのかな。
見所は少なかったが、それは俺が芝生の広場があっても通り過ぎるだけだったからで、市民の憩いの場になっていることは間違いない。観光客向けではない、というだけだ。
スロープになった道を上がり、マルギット橋へ。最初のアールパード橋は川の東西を一直線に結んでいたが、このマルギット橋は今いる地点で少し折れ曲がっている。東西それぞれの市街にあった道を延ばしてきたらこうなったんだろう。
で、この辺りに他の二人の
歩道を東へ歩く。自転車専用レーンまであって、利用している人は結構多い。橋を渡りきって、下をくぐり抜け、川沿いに南へ。桟橋と
石造りのごつく立派な建物が見えてきた。大聖堂かと思ったら国会議事堂だ。観光名所でもあるらしいので、ちょっと眺めていくことにする。
議事堂は川に背を向けて立っているので、東側の正面に回り込む。コシュート・ラヨシュ広場から見ると、
中に入って観覧もできるに違いないが、早く荷物を手放して身軽になりたいので、後回しにする。ホテルから近いんだから、ちょっと時間があれば見に来られるだろう。
さて、広場の南東の角に立つと、そこからちょうど南東方向に伸びる道がある。
交差点の角に立つナギー・イムレ像を一目見てから、ヴェーチェイ通りを抜け、
円の真ん中にはソヴィエト英雄記念碑が建つ。おそらく大戦で亡くなったロシアの軍人に関係するものだろう。
長方形の方は緑の木々と芝生の公園。芝生の真ん中にはカフェ……ビアー・スタンド? 朝から飲んでんじゃねえよ、気楽な連中だな。まあいいや。
広場の西に建のが証券取引所跡。現在はコンベンション・センターとして使われているようだ。東には合衆国大使館とハンガリー国立銀行。
そして広場の東南の角から――さっきから東南の角ばかり選んでるが――シャシ通りを南へ。近代的なビルの谷間から、ちょっと古い時代の町並みに入る。道路も石畳になった。歩道には路駐の列。マナーがよろしくない。
通りの途中で、東側に開けたところがあって、そちらを見ると
通りを突き当たりまで行くと、エルジェーベト公園。“ブダペスト・アイ”という観覧車が建っている。乗ればブダペスト市街を一望できるそうだ。10時からなのでまだ回っていない。小さな噴水を横目に見て、公園を通り抜けると、リッツ・カールトンに到着。
ベル・ボーイに荷物を奪われ、
「
朝の10時前から部屋が利用できるって、どうなってんだろうな。でも、君が添い寝してくれるって言ったとしても眠くないんだけど。
「先に荷物だけ預かってくれればいい。それから、市内の主要な観光地の案内リーフレットを」
「かしこまりました。ロジスティクス・センターからの荷物は午後には到着しますので、一緒にお部屋へ入れておきます。リーフレットはコンシエルジュの方からどうぞ」
例のカードを渡し、チェックインの手続きをしてもらって、コンシエルジュのデスクへ。ここにも美女と美男子がいるので迷わず美女の方へ。ブダ地区とペスト地区に分けてリーフレットをもらう。
それからコンシエルジュが自己紹介。ボチー・アネータ。えーと、ハンガリーは姓・名の順だっけ。つまりファースト・ネームがアネータ。そう呼んでいいらしいが、なぜそんな自己紹介をする。
「本日から1週間、あなたの秘書の役割を務めます。基本的にホテルから出ることはありませんが、スケジュール管理や連絡係などはお任せください」
またそんな余計な係を。スケジュールくらい、自分で管理できるっての。頭には入ってないけどさ。
しかも必要以上に美人過ぎるし。ウェーブのかかったブルネットの長い髪。少し吊り目で、色はブルー。セクシーな口元と尖った顎。座ってるから身長はよく判らないけど、6フィート半くらい? 脚もきっと長いだろう。君、ホテルでコンシェルジュなんてやってないで、モデルになりなよ。
「大変心強いが、なるべく君に手間をかけないようにするよ」
「あら、いいえ、もはやそういうわけにもいかないんです。講演と表敬訪問の依頼がもう5件も入ってるので、後で取捨選択のご相談をしませんと」
「つまり、君がいろんな優先順位を知ってくれてるんだ」
「はい。あなたの論文は拝読しました。その上で、研究の内容に関係ありそうな訪問先を選定済みですが、これからも新しい依頼が入ってきますでしょうし、あなたのご興味を伺って勘案しませんと……」
君、絶対有能だよな。そういうことなら、俺のメグと比べさせてもらおう。もっとも、メグが負けるわけないけどさ。
「今日の夕方まではそういうことは忘れて、街を楽しむことに専念したいから、夕食の後で君を部屋に呼んでいいか? 何時から何時まで秘書をしてくれる予定?」
「あなたがホテルにいらっしゃる間の、全ての時間です。もちろん、いらっしゃらない間でもあなた宛の電話やメールの受付はしますし、夜にはお休みの時間をいただきますが」
「休みの日は取らないつもり?」
「そのつもりです」
何だよ、その挑戦的な目は。不必要にセクシーすぎるだろ。
「労働安全衛生局に注意されても知らないぞ」
「財団関連の仕事には特認が受けられますから」
そうか、だから他のステージでも、俺に張り付きで世話してくる係がいたんだ。ただ、イタリアの時は財団の身分じゃなかったのに、ベアトリーチェがいつもいたな。あれは彼女の個人的指向か?
それはそれとして、今後もこういう目に遭うわけだから、心しておかないと。メグに世話してもらうのと、どっちがいいだろう。
「じゃあ、最初の仕事を与えようか」
「イエス・サー。何なりと」
どうして“イエス・サー”だけ英語で言うんだよ。
「その前に、俺のことはアーティーと呼んでくれ」
「いいえ、ナイト
最初から俺に刃向かうとはいい度胸だよ。しかし、メグもそうだったから、断られても何も言えない。それはそうと、姓名が逆転してるだけに、敬称も後ろに付けるんだな。
「夕食のレストランを選んでおいてくれ。カジュアルなところがいい」
「ボック・ビストロを予約しています」
なぜ、何も言われない先からそんなことしてんだよ。まさか……
「それは誰の指示で?」
「お心当たりがおありと思いますが」
メグか! メグだな。そういうことやりそうだもんな。困るなあ、
「まさか、毎晩決まってるわけじゃないよな」
「予約したのは今夜だけです。明日以降は、お仕事先から招待されることが多いでしょうから」
うん、俺もそうなると思うよ。そして昼はケータリングのサンドウィッチとサラダ・パックだ。
「君と一緒に夕食へ行く機会はあるかな」
「金曜日ではどうでしょうか?」
誘いを受ける気かよ。その笑顔は、ジョークじゃないよな。まあいい。それまでに考えておこう。
ついでに、昼食を摂るのによさそうなブダ地区のレストランを訊いてから、ホテルを出た。
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