ステージ#15:第1日
#15:第1日 (1) 美しき女とドナウ
第1日-2039年8月14日(日)
目を開ける。眼下には大きな川。正面の遠くに低い山並み、右手には町並み、左手は森。つまり、俺は橋の上に立っている。目の前を流れるのは
この橋の上にいる経緯も……判っている。空港に朝早く着いて、タクシーで何とかいう博物館へ向かってもらい、途中で気が変わって、この橋の上で降りた、ということになっている。まだ8時前だ。博物館の名前を思い出せないのが解せないが、とにかくそういうことだ。
空港は……リスト・フェレンツ。パリのシャルル・ド・ゴール経由で来たよな。ここはハンガリーで、ブダペストだ。今日は……いや、それがなぜ思い出せないんだよ。日付変更線を越えたからか? 出発した日から1日進ませればたいてい判るはずだろうに。後ろの車のホーンがうるさい。考えごとができない。何があった。
とにかく、今回は出張で仕事だよ。ただ今日は日曜日で、まだ午前中だから一日観光ができる。なんで鞄を持ってるんだ。ここへ来る前に、ホテルに寄って置いてくりゃよかったのに。まあ、その辺りのことはいつもと同じだから仕方ない。しかし、今回はやけに予備知識を与えられているな。気持ち悪いぞ。
で、泊まるところはどこだっけ。仕事しに行くのはどこだっけ。内容は何だっけ。判ってるんだけど、憶えてないだけだ。けど、鞄の中にその全ての情報が入った紙とラップトップが入って……
ラップトップ!? なぜそんな物を持っている。今回は使えるのか? どうせアクセスできる情報は制限されてるんだろうけど。
とりあえず、鞄から地図を出すか。持ってるんだよな、今回は。何から何まで判りきってるのは初めてだよ。判らないのはターゲットのことだけだ。
地図……確かに、ブダペストの都市地図。中央をドナウ川が北から南に流れ、市街を真っ二つに分けている。
ただ、今いる場所がなぜ判らないんだ。空港からどこへ向かおうとしてたかが判らないからだよ。俺ってタクシーに乗ったら、たいていの場合、地図を見ながらどこを通ってるのか確認してるんだけどなあ。とにかく、ドナウ川に架かる橋の上だ。たくさんある。1、2、3……7本か?
「アールパード橋の上よ。左手に見えるのがマルギット島。その北端にいるの」
その声は、まさか!? 振り返ると、シャンパン・ブロンドの髪を川風になびかせた、究極の美人が立っていた。笑顔を浮かべていないのに、この美しさ。朝日の中に佇む女神と言ったところ。
「また君と同じステージか」
マルーシャだった。いつから俺の後ろに立ってたんだよ。今回も彼女と組むのか? そんなことはビッティーから聞いてないが。
「私もこんなことは初めてだわ」
俺の心の中を見透かしたようなことを言うな。しかし彼女が言ってるのは、二人の
「ずっと俺の後ろに立ってたのか」
「いいえ、橋の反対側。北を向いて立っていたわ。振り返ったらあなたがいるのが見えた」
だからわざわざこっちに来てくれたって? 道路を渡って。横断歩道がないのに、どこを渡ってきたんだよ。3車線対面通行で、真ん中にトラムの線路まで敷かれてる広い橋なのに。もしかして、無理矢理渡ってきたのか。さっき、後ろで車のホーンが聞こえたのはそのせいかよ。
「挨拶しに来てくれたのか。黙ってこっそり立ち去ってくれてよかったのに」
というか、出現してから2分も3分もぼさっと立ってるのは俺だけってこと? まあ、普通は周りを見渡すよな。今回は川がゆったりと流れていて景色がいいから、そっちばかり見てただけで。
「いいえ、さっき言ったとおり、こんなことは初めてだから。あなたと私が、互いに近くにいることを認識するのは、何か意味があると思ったの。他に二人の
地図に目を移し、マルギット島の位置を確認する。円環道路の一番北端が、マルギット橋だった。マルギット島はわりあい大きい島で、ドナウ川の中州。南北2.8キロメートル、東西は一番広いところで500メートルほどだろうか。全島、公園になっているようだ。
メートル法を使っているのは地図がそうなっているからだが、いつもに比べてすんなりマイル・ヤードに換算できる。南北は1と4分の3マイル、東西は550ヤード。俺の頭の中まで何かヴァージョン・アップがあったらしい。
「で、その二人が結びつくことに何か意味がある?」
「いいえ、結びつきはしない。でも、何らかの協力関係を構築していいと受け取るかもしれない」
「で、君も俺と何か協力した方がいいかと思って、近付いてきてくれたわけだ」
「ええ、まずは、その二人を見つけたら情報を共有すること」
言い回しが難しいな。
「それについては問題ないよ」
「それから、今日の調査を二手に分けること」
言いたいことは判った。川の東側と西側で分けようって提案だ。街中、全部見て回れば2日や3日はかかると思ってるし、いつもそうしてる。しかし今回の俺は、それとは別に“仕事”があるので、自由になるのは今日一日と最終日だけ。もちろん、“仕事”の合間に何らかの情報は得られるんだろうけど、市内の見所の情報は一通り知っておきたいからな。
「それも問題ない。で、君はどっちに行きたい?」
「私の希望を聞いてくれるのね」
「希望に添えない場合もあるかもしれないけどな」
「あなたがブダ、私がペストにしてはどうかと思うけど」
ブダとペストに分ける? もう一度地図を見る。なるほど、ドナウ川の西側がブダで、東側がペストなんだ。ブダペストって複合地名だったのか。今まで気付かなかった。
見たところ、ブダの方が少し狭いようだが、これは市街地のすぐ西側に山が迫っているからだろう。しかし、元の王宮であるブダ城や、マーチャーシュ教会などの重要そうな見所がある。対してブダには多数の博物館や美術館、市民公園、大聖堂があるが……
何となく、どちらでもいいような気がする。ターゲットは“西風の神”だから、街の西側が重要、という考えも一理ある。しかし、それならマルーシャが最初に西側を選ぶのでは? かといって、俺を騙す意図はないだろうけど。
どうして俺は彼女をこんなに信用してるんだ。
「公平を期すために、コイン・トスで決めようか」
「それでも構わないわ」
財布を取り出すと、見慣れない硬貨と紙幣が詰まっている。通貨単位はフォリント。ドルとの為替レートは後で調べればいいだろう。5フォリント
「5が出たら君が言うとおり。鳥が出たら逆にしよう。君がトスして、俺が手の甲で受ける」
「了解」
マルーシャに
「調査結果を教え合うのはいつ、どこにしようか。君のホテルへ行ってもいいし、俺のホテルへ来てもらってもいいが」
「夜に、ここではいけないかしら」
「ここってホテルから近いのか」
「少し遠いわ。一番近いのはセーチェーニ
なるほど、ビッティーとの通信は夜中の11時から1時の間、ここで、と決められている。いつもながらちゃんと頭に入ってる。つまり、彼女も橋の反対側で同じ頃に通信をするんだろう。
「距離はどれくらいあるか知ってるか」
「3マイルはあるんじゃないかしら」
いちいちマイルで言ってくれてるよ、親切だな。でも、今回の俺はどうやらキロメートルで言われてもすぐ計算できるみたいだぜ。
「大した距離じゃないから走って来ることにするよ」
「マルギット島にはランニング・コースがあるから使うといいわ」
「よく知ってるな。来たことがあるのか」
「ええ、一度だけ」
それならきっと効率のいい調査ができるんだろうな。俺なんて、どんな見所があるか調べるところからだ。
「時間は?」
「0時で」
「ここって治安いいのか」
「私のことなら心配してくれなくてもいいわ」
いや、あまり心配してなかった。全般的な治安を聞きたかっただけで。
「調査の前に、ホテルに鞄を置きに行きたいが、リッツ・カールトンがどこにあるか知ってるか」
急に思い出した。確かそこに泊まることになっているはず。
「私のホテルから近いわ。一緒にタクシーで行く?」
橋の上を流しのタクシーが走ってるわけないだろうに。でも、彼女のタクシーの“引き”は強烈で、道路の脇に立った瞬間、通りがかりそうな気がするよなあ。
「いや、ついでなんで、マルギット島を南まで見て歩いてからにする。君は一人でタクシーに乗ってくれて構わない」
現実世界ならこういうときは一緒に乗って、俺が金を払ってやるというのでもいいだろうが、仮想世界では彼女も別にタクシー代が惜しくはないだろうし。
「解ったわ」
「念のために君のホテルを訊いていいか」
「フォー・シーズンズ」
地図で場所を教えてもらう。フォー・シーズンズ・グレシャム・パレスはセーチェーニ鎖橋の東詰めからセーチェーニ広場を挟んですぐ。リッツ・カールトンはそこから南東へ半マイルばかり離れている。
「もういくつか、質問したい。君の今回の名前と職業は?」
「マルーシャ・チュライ。声楽家」
「ここへは仕事、それとも観光?」
「観光だけど、きっと臨時の公演を依頼されるわ」
「断ることもあるんだろ」
「ええ、2回に1回は」
「もし唄うことになったら俺も呼んでくれ」
マルーシャが無表情から少し変わった。なぜ、と訊きたそうに見える。俺自身もよく判らんよ。彼女の歌を聴くと心を取り込まれるから、なるべく聴きたくないと思ってたはずなんだがね。
しかし、彼女が無駄な時間を使わされるなら、それに付き合う義務があるんじゃないかと思えてきたのは確かだな。もちろん、本当はそんな義務なんてないんだけどさ。
「たぶん、木曜日あたりに」
「きっと夜だよな」
「ええ」
「君の方から質問はあるか」
「リタ……いいえ、メグは連れて来なかったのね」
なぜそんなことを訊く。
「家でおとなしく留守番してる。そのうち連れてくるさ」
「私が会いたがっていたと伝えて」
「こう何度も旅先で会っていると、偶然じゃなく意図的かと疑われそうだよ」
「彼女ならそんな疑いは持たないわ」
そりゃ、俺が言うべき台詞だよ。まるで俺よりもマルーシャの方が、メグのことを解ってるみたいな言い方だよな。
「では、よい一日を」
「ええ、あなたも」
マルーシャは振り返り、東の方へ歩いて行った。いつの間にか、道路の一番こちら側の車線が渋滞していた。何だこれは。もしかして、マルーシャを見るために減速していた奴がいるとか? 脇見渋滞かよ。しかし、渋滞を起こすほどの美貌というのは恐ろしいな。行く先々で街の交通流を乱すぞ。今までもずっとそうだったのか?
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