#15:ステージ開始21日前 (2)

【By 刑事(男)】

「それがコヴァルスキの『東風エウロス』だったというわけだ。全く、何たる不用心だ。美術館ムーゼウムの方から、警察の警護は要らんと言っておきながら、このざまとは!」

 仕立てのいいスーツに身を包んだパタキ主任が声を荒らげるのを、ピスティは黙って聞いていた。我々の責任にならなくてよかったじゃないですか、とはとても言えなかった。隣に座っているポーラも同じ気持ちだったろう。

 とにかく、これでブダペスト市内にあるダリウス・コヴァルスキの4枚の絵のうち、3枚が盗まれた。約2ヶ月前の『北風ボレアース』、約1ヶ月前の『南風ノトス』、そして昨夜の『東風エウロス』。残るはあと一枚、ハンガリー国立美術館マジャール・ネメゼティ・ガレリアにある『西風ゼピュロス』だ。同じ窃盗団が狙っていると目された。しかし、手口がみんな違った。

 最初の2枚は個人宅にあったが、『北風ボレアース』は二人組の強盗に見せかけて盗まれ、『南風ノトス』は新入りのお手伝いが夜中にこっそり持ち出していった。だから窃盗団に男が一人以上、女が一人以上いるのは間違いない。

 しかし、前歴のある美術品泥棒を当たっても該当者はなく、おまけに誰もが当日にがっちりしたアリバイを持っているという有様だった。つまり、新たな窃盗団が現れたのだ。そして彼らは、コヴァルスキの絵しか狙わないらしい。

「被害金額がそれほど大きくない、というのは問題ではない。これはブダペスト警察の名誉の問題だ」

 紅茶党のパタキ主任が、アール・グレイを飲みながら言った。ピスティとポーラはコーヒーを好む。

 名誉の問題と言っても、専従捜査員は3人だけ。パタキ主任、ジガ・ピスティ、ジョルナイ・ポーラ。もちろん、盗犯係の他の捜査員も随時協力してくれるが、最初の“強盗に見せかけた犯行”の時以来、ほとんど出番がない。『南風ノトス』は所有する個人が全く無警戒のまま持ち去られ、昨夜の『東風エウロス』は“あのざま”だ。

「しかし、とにかく月のない夜を狙うという共通点は確実になりました」

 ポーラが指摘したが、それは最初の2件での唯一の共通点と言えた。ただ、2件目では、お手伝いが持ち出すのに新月の夜である必要性はないので、本当に共通点かどうかがはっきりしなかったのだった。だが昨夜はやはり新月。つまり、犯行は約4週間毎に行われたということだ。ならば次も約4週間後か。

「それとて、我々を油断させる手かもしれんのだよ。今回はあのラコシが夜勤に当たった日を狙ったのに違いないんだ。あの酔っ払いが! それがたまたま新月の夜だったということも考えられる」

「それはそのとおりです」

 ピスティは相槌を打った。ラコシは素行不良で警察をクビになった男で、夜の飲酒癖は有名だった。仕事を転々と変えていたはずだが、半年ほど前から美術館の警備員として雇われていた。今回のことできっとまたクビになるだろう。

「ところでラコシはともかく、もう一人の警備員、何と言ったか……そう、ガボールは、警官と名乗った二人組の特徴を憶えていたのか?」

「ラコシも一応憶えていましたよ……似顔絵を描かせました。彼らじゃなくて、専門の絵師に、ですが」

 ピスティは2枚の絵をパタキ主任とポーラの前に差し出した。犯人の似顔絵というのは意外に捜査に役立つので、多くの国で採用されている。今回もその例に漏れない。

 男性の警官は細面だがずいぶんと目つきがきつい。彫りは深いが、男性のようでもあり、女性のようにも見える。声もやはり中間的だったそうだ。

 女性の警官は美形だがずいぶんと若く、未成年にすら見える。しかし注釈があって、ラコシとガボールで意見が割れたとある。顔の長さや目の大きさや唇の形や……共通していたのは髪の色と長さくらいだ。

「要するに、二人とも女の顔はよく憶えとらんというわけだ。全く、情けない」

「そういうことになります」

「最初の強盗団は覆面をしていて顔は判らんかったが、一人は確かに女性のようだったとのことだな。そしてお手伝いの顔は、この女性とは……」

「似てないようですね」

 ポーラがお手伝いの似顔絵と比べながら言った。そちらは20代後半か30歳くらいという注釈があり、確かにその年代の女性に見える。しかし、昨夜の女性警官とはさほど似ていない。おまけに身長が10センチメートルほども違うのだ。お手伝いの方が、女性警官よりも高い。10センチメートルは憶え間違えるような差ではない。

「ということは、男女とも二人ずついて、全体では4人組かそれ以上ということに……それとも、強盗団と今回の二人が同一なのかな。いや、強盗団はこれほど身長差はなかったか。少なくとも女性が二人含まれている」

「そんな窃盗団は過去の例にない。ますますもって不可解だ」

「コヴァルスキの絵を狙うということは、やはりポーランド系……」

 ダリウス・コヴァルスキは100年ほど前のポーランドの画家で、歴史画・神話画を得意とし、特にギリシャ神話を題材にした作品が多い。有名ではないが、ポーランド共和国第二共和国時代からドイツ占領時代にかけての画家の一人で、作品は“歴史的な観点から”貴重とされる。つまり、美術品としての価値はあまり語られない。

 それでも熱心な愛好家は何人かいる。ハンガリー国内には先の4枚の他、個人や美術館によって多数の絵が保持されているが、そちらは盗難の被害に遭っていない。あるいは、これから窃盗団が狙うのだろうか。

「それも考えられるが、ポーランド系ハンガリー人は多数いるので絞りきれんよ」

「お手伝いの名前はギプス・ヨゼファ。ハンガリー系の名前でしたが、偽名でしたね」

「それは仮名の見本にある名前だよ。そんな者を怪しまないで雇うとは、どうかしてる」

「窃盗団が何人かとか、次の実行日はいつかとか、そういうことよりも、根本的な対策を考えましょう」

 ポーラが少し強めの口調で言った。彼女はピスティよりも職務に忠実で、二人でファイン・アート美術館セープミューヴィセティ・ムーゼウムにコヴァルスキの絵が狙われているという警告に行ったときも、警備に問題はないと言い張る館長を相手に、しつこく説得を続けていた。月のない夜を心配していたのも彼女で、独自に張り込みをしようかとも提案していたのだが、ハンガリー国立美術館マジャール・ネメゼティ・ガレリアと二つを同時には守り切れず、諦めたのだった。

 しかし、残り一つとなったからには、警備を集中させやすくなったとも言える。美術館ガレリアの方は元々警察の進言する防犯対策に乗り気で協力的だった。それは4枚の絵のうち、『西風ゼピュロス』が最も価値あるものとされることも関係しているだろう。

 この4枚はギリシャ神話で“アネモイ”と呼ばれる風の四神をそれぞれ絵にしたものだ。もちろん、本来一組であることを意図して描かれたと思われ、背景の一部がよく似ている。あるいは、もっと大きな一枚の絵の中から切り取ったような雰囲気を持つ。ただ、それぞれの風は季節が異なるので、絵の色調が若干異なっているから、一枚の絵だったというのは適切ではないだろう。

 四神の中で、春と初夏のそよ風を運ぶ西風の神“ゼピュロス”は、古来絵画の題材として選ばれることが多い。ウィリアム・アドルフ・ブグローの『フローラとゼファー』が有名だが、サンドロ・ボッティチェリの『プリマヴェーラ』『ヴィーナスの誕生』にもその姿が描かれている。

 つまり、西風ゼピュロスは四神のうちで最も有名であり、なおかつ『西風ゼピュロス』は4枚の中で最も筆致に優れた一枚なのだ。背景の明るさと描写の細かさが際立っている。

「これから毎晩張り込むかね」

「いえ、館への侵入の対策ではなく、盗難の対策を立てるべきです」

「というと?」

「以前にも提案しましたが、『西風ゼピュロス』の複製を作るのです。そして美術館ガレリアに依頼し、当面の間、複製を展示してもらうのです」

「夜の間だけ倉庫に保管してくれと頼むのと、どう違うのかね」

 それはパタキ主任が提案して、美術館ムーゼウム美術館ガレリアから共に却下されたものだった。

「移動は絵画の破損や劣化につながります。それに毎日、倉庫に入れたり出したりでは、美術館ガレリア側の負担が大きすぎます」

「複製を作る宛てはあるのかね……確か、あると言っていたな」

「はい。複製ができそうな画家を一人、選定済みです。ラカトシュ・フュレプという名です」

「セミ・プロの画家だったかな。費用はどうする? 警備のためとはいえ、それほどの大金は出せないと言ったはずだ」

 本物の『西風ゼピュロス』は美術館ガレリアが1億フォリントと見積もっている。複製の価値は、その10分の1か、100分の1か。たとえ100分の1でも、ピスティの月給の6倍以上だ。

「ラカトシュ・フュレプはコヴァルスキの信奉者で、これまでに何枚か絵を模写しています。そして、盗難防止の協力になるのなら、画材代さえ払ってくれれば貸し出すといってくれています。5万フォリントでどうかと」

 2千分の1になった。それくらいなら買えそうだとピスティは感じた。もっとも、家に絵を飾る趣味はないし、飾るところもない。それに美しい女神の絵なら眺めるのによさそうだが、男の神では……

「そういうことなら、上に申請はしてみよう。画家との交渉は君が進めるのかね」

「はい。ただ、彼は手持ちの『西風ゼピュロス』はまだ出す自信がないと言っています。美術館ガレリアに本物の代わりとして展示されるには、完成度が足りないと……」

「何がどう自信ないと言うのかね。本物の代わりに写真を飾ったって、ほとんどの見物者にはわからんだろうに」

 それはさすがに言い過ぎでは、とピスティは思ったが、黙って聞いていることにした。ポーラが言うには、ゼピュロスと共に描かれている花と春の女神フローラの表情が正確に模写しきれていないとのこと。

 他の絵画でもそうだが、ゼピュロスは女神を連れているか、さらおうとしているところが描かれ、単独でいることはほとんどない。『西風ゼピュロス』ではフローラと戯れているが、その生気に溢れる表情がこの絵の価値を占めている……と確かに解説されている。もっとも、ピスティは女神の写実的な裸体の方が気になって仕方ないのだが。

「納得する絵が完成しなければ、複製を展示できんということかね。完成する前に盗まれたらどうする?」

「何とか説得して、完成を急がせます」

「窃盗団が律儀に4週後に来ることを期待するのか。来週末から展示できるくらいでなければ、君の作戦は採用できんよ」

「…………」

 ポーラは黙ってしまった。しかし、他に作戦といえば、やはり毎晩交替で張り込むくらいしかない。もっとも、美術館ガレリアの夜勤は二人きりではなくもっとたくさんいるので――それはブダ城や歴史博物館、セーチェーニ図書館と共通の警備だからだが――張り込みが一人や二人増えたところで、大した対策にはならない。

「ところで、窃盗団に何か名前を付けませんか」

 ピスティは二人に言った。パタキ主任は、今さら何を言うか、という表情でピスティを見た。ポーラはちらりと見ただけで目を逸らした。

「彼らが何人組でどういう連中なのかすらわかっていませんが、その上曖昧に“窃盗団トルバヨク”と呼んでいては、ますます実態がわからなくなります。ですからここは一つ、もっと認識しやすいコード名をですね……」

「くだらん。しかし、名付けるのなら簡単だ。コヴァルスキをハンガリー語マジャールの複数形にして“鍛冶屋たちコヴァーチョク”とでもするんだな」

「あー、そ、それはいいですね……」

 それはまさにピスティが提案しようとしていた名前だった。1週間くらい考えたのに、パタキ主任の一瞬の思い付きと同じだとは……

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