ステージ#15:プレゲーム・イヴェント

#15:ステージ開始21日前

  ブダペスト-2039年7月23日(土)


 文字盤の12のところで長針、短針、そして秒針が揃った。秒針がすぐに動いて、0時を過ぎた。

 グンデル・カーロリ通りに1台の車が停まった。ファイン・アート美術館セープミューヴィセティ・ムーゼウムのすぐ横だ。空に月はなく、街明かりのために星はかろうじて見えるほど。だが、付近は暗く静かだった。道の北西側は市民公園ヴァーロシュリゲット、南東側は美術館ムーゼウム。どちらも灯が消えていて、道には人の姿も他の車もなかった。

 それでも、1時間は何事も起こらなかった。美術館ムーゼウムの南西、ドージャ・ジェルジ通りの車が絶えた頃、車のドアが開いて、二つの影が降り立った。運転席の影は動かなかった。降りた二つの影は、警官のような身なりをしていた。その影たちは美術館ムーゼウムの裏門を入り、建物の一番北の角にある扉を叩いた。

 美術館ムーゼウムの中には二人の警備員がいた。ラコシとガボール。ラコシは年配の男で、ときどき夜勤中に酒を飲み、酔った状態で警備をすることがあった。ガボールは若い男で、大柄なのに、大先輩のラコシの飲酒を止めることができないほど気弱だった。だからガボールと組むとき、ラコシはたいてい酔っていた。

 その日もラコシは警備室で少しばかり酒を飲んでいた。知り合いの女からの差し入れだった。レストランエテレムウェイトレスピンツェルネだ。

 扉にノックがあった時、ガボールが出るというのを制して、ラコシが立った。飲んでいても酔っていないところを見せてやろうとしたのだ。しかし、立ったときに2、3歩よろけた。その後はちゃんと真っ直ぐ歩くことができた。短い廊下を歩いて、裏口の扉の前に立った。

「どちらさんで?」

 扉は開けず、外のノックの主に呼びかけた。「緊急通報があったんだ。中に入れてくれ」という答えが返ってきた。男にしては少し高い声だった。ラコシは扉の小さな覗き窓から外を見た。警官が二人立っていた。といっても、一人は背が低く、帽子しか見えていない。

「何の通報です? こっちにゃ、何の不具合もありませんが」

「こっちだって、何が起こったのかわからないが、通報があったから来たんだ。とにかく中に入れてくれ」

 ラコシは錠を開けかけたが、大事なことを思い出して、手を止めた。閉館して、館長も学芸員キュレーターもいなくなった後で、予定外の人物を館内に入れてはいけないのだった。予定外、というが、そんな時間帯に誰かの来訪が予定されていたことはめったにない。ほとんど全ての場合において、館長か学芸員キュレーターが待機していて、来訪者に応対する。警備員はその補助をするだけだった。

「規則で、夜中には誰も入れちゃいけないことになってるんで」

 ラコシはドアの向こうに、大きめの声で言った。そうすることで、少しばかり酔いが回った頭が、若干でもはっきりするように感じたからだ。

「そうか、しかし」

 警官は何か言いかけてやめた。が、数秒おいてまた話しかけてきた。

「警報がまだ停まってないみたいだ。できれば開けて欲しい。状況を確認するだけなんだ。機械の故障かもしれない」

 ラコシには、相手が少し譲歩したかに思えた。どうしても開けろというのではないらしい。考えて、もう一度覗き窓を見た。警官はなかなかハンサムで、真剣な表情をしていて、悪い人間には見えない。話だけでも聞いてみるか、と思い、ラコシは錠を外した。扉を細めに開け、外を窺うと、警官の制服を着た男が二人立っていた、いや、一人は男ではなかった。女だった。

 男の警官はラコシよりも少し背が高く、スリムで、警官には似つかわしくない真面目そうな笑みを浮かべていた。女の警官は男より20センチメートルは背が低かったが、身体は驚くほどグラマラスだった。そして妖艶な笑みを浮かべている。二人とも髪は黒く、男は散髪したばかりのように綺麗に裾を刈り上げ、女は肩のすぐ上まで髪を垂らしていた。

「まずは、話を聞くだけで……」

 ラコシは二人を戸口のところまでだけ入れるつもりだった。二人は押し入ろうとはせず、ラコシの言うとおりにしようとする様子を見せた。

「館の規則については十分に理解しているが、緊急通報があったのは間違いないんだ。館内では音が聞こえてないんだね?」

 男の警官は落ち着いた声で言った。よく考えたら、ラコシが初めて見る警官だった。もちろん、女の方も。

「ええ、何も」

「もう一人、警備員がいるはずだが」

「そいつも何も聞こえちゃいませんよ」

「確認してきてくれないか」

 ラコシは言われたとおりガボールのところへ戻った。ガボールは席を立って、警備システムで裏口のカメラの映像を見ていた。

「緊急通報は動作しているか? 動作していたら、何も聞こえないはずはないだろう?」

「もちろん、動作していませんよ。警官ですか?」

「そうだ。緊急通報があったと言って……」

 気が付くと、警官の二人は警備室のドアの前まで来ていた。出入口を塞ぐかのように男の警官が立っている。しかし優男だし、押せば吹っ飛びそうだな、とラコシは思った。よくこれで警官が務まる。それに、女の方は小柄だし……

「警備システムを確認するから手伝ってくれ」

 男の警官が、さっきよりも少し強い口調で言った。笑顔もなくなっている。少し明るいところで見ると、驚くほどの美男子で、女のように柔和な顔つきだった。

「ええ、そりゃ、構いませんが」

「まず、エントランスの映像」

 ラコシが慌てて警備システムを操作し、カメラを切り替える。男の警官は部屋の中に入ってきて、ラコシの後ろ、ガボールの横に立った。代わりに女の警官がドアのところにいるようだ。ガボールはどうやらそっちに気を取られているらしい。あっちは美人でいい身体だからな、とラコシは思った。

 気が散っているせいか、ラコシはたびたびカメラの切り替えを間違えた。いや、酔いがまだ醒めてなかったからかもしれない。警官の口調がだんだんときつくなる。

「これじゃあ、システムの異常が判らない。君ら、ちゃんとこのシステムに通暁しているのか?」

「ええ、そりゃ、もちろん……」

 間違えたのは酔っているせいで、とはとても言えなかった。それにガボールはまだ新米で、操作にあやふやなところがあるはずだ。そう考えていたら見抜かれたのか、警官はガボールにもシステムを操作するよう要求した。思っていたとおり、ガボールは何度も操作を間違えた。ラコシは間違いを指摘できないことすらあった。

「君ら、本当に警備員なのか。身分証明を見せてみろ」

 男の警官が、不機嫌そうな表情になって言った。もちろん、ラコシたちは本物の警備員であるから、証明書は見せられる。手渡すと、警官はそれらを疑い深そうな目つきで見てから、女の方に渡した。女の警官は証明書を持って姿を消した。外ではなく、館内の方に行ったから、どこかへ電話でもかけるのだろう、とラコシは思った。しかし、こんな時間へどこにかけるのか? 警備会社か、警察か。

 警備会社なら、身分を疑われたことで、今後の待遇に影響が出るかもしれない。おまけに、酒を飲んでいることがバレたら。いや、もう何度かバレたことがあって、そのたびにもう飲まないと誓約させられているのだが。

「確認ができるまで、君らを拘束させてもらう」警官が冷たい目で言った。

「拘束と言うと……」

 警官は手錠を出してきて、素早くラコシの右手にはめた。ラコシはひどく驚いたが、暴れることも、文句を言うこともしなかった。なぜだか、黙って受け容れなければならぬ気がしたからだ。弱みがいくつもあったことが、影響しているだろう。警官は手錠をガボールの左手にもはめた。ラコシとガボールはつながってしまった。しかし、まだ自由に歩くことはできる……

 女の警官が、ドアのところに戻って来た。何も言わず、手で「来い」の仕草をした。

「まあ、待て。もう一度確認しておこう。本来、緊急通報があったら、警察への非常通報ボタンを押す。そうだな?」

 男の警官が言った。ラコシは「そうです」と答えた。ガボールも頷いた。

「その二つの通報は連動していない。そうだな?」

 ラコシはまた肯定し、ガボールは頷く。

「そして館内のどこの装置が作動して、緊急通報が発報されているのかも、警察には判らない」

「そうです」

「館内の警報装置を切るにはどうする?」

「主制御スイッチを切って……」

 それだけではなく、決められた時間内にもう一つの保安装置を、暗証番号を使って切る必要があった。ラコシは実演させられた。

「いいんですか?」

「構わない。確認の手続きに必要なんだ。切れたな?」

「切れました」

 それを示すのは制御盤のLEDが消えることだった。点灯していて、緑なら動作中で異常なし、赤なら異常ありだ。さっきまで、赤になっているものはなかった……

「よし、二人とも、こっちへ来い」

 男の警官は手錠を持ってラコシとガボールを引っ張った。二人は仕方なく付いて行った。非常灯がところどころ点いているだけの廊下を歩き、展示室とバックヤードを仕切るドアを通り抜け、中央階段まで来た。展示室はうっすらと見えるだけだ。

 警官はガボールの右手にも手錠をはめ、反対側を階段の手すりにつなげた。二人は手すりとつながってしまった。もう移動することもできない。

「しばらく、待て。10分ほどで済むだろう」

「何が?」

「確認だ」

 男の警官はそう言うと、懐中電灯フラッシュ・ライトを点け、女の警官と共に、階段を上がっていった。

「すぐに終わるんですよね?」

 去りゆく警官に向かってラコシは聞いた。警官は温和な笑みを見せながら「もちろんだ」と答えた。

 しかし10分経っても、二人は戻ってこなかった。それどころか、ラコシとガボールが朝まで待っても、そのまま何も起こらなかったのだった。


 夜が明けて、学芸員キュレーターが出勤してきて、ラコシとガボールの無様な姿を発見した。警察に問い合わせると、「昨夜、警官が美術館ムーゼウムを訪問した事実はない」と言われた。

 すぐに館内が調べられ、たった1枚だけ、絵が盗まれていることが判明した。

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