#13:第7日 (8) 熱情《アパショナータ》

 ブザーが鳴った。再開幕5分前の合図だろう。少しずつ客が戻ってくる。両隣が座ったので、もうニュシャの痣を見ることはできない。見る気もないけど。

 この後の、マリヤの歌についてニュシャに聞く。オペラの中の有名なアリアを2曲。

 1曲目はプッチーニの『ラ・ボエーム』第2幕から『私が街を歩けば』。別名を『ムゼッタのワルツ』とも言い、とても有名な曲らしい。

 画家マルチェッロがカフェにいると、元恋人のムゼッタがやって来て、彼の気を引こうとして自分の魅力を語る。これだけ聞くとムゼッタは嫌な女のように思えるが、第4幕の終盤では献身的な態度に変わり、瀕死のミミ――ヒロインであるお針子――のために『ムゼッタの祈り』を歌うらしい。そういう性格変化は見る人を感動させる常套手段だから気にしない。


 もう一度ブザーが鳴り、幕が開く。エステルはピアノの前に座り、マリヤがその傍らに白いドレスで立っている。少しわかりにくいが、ドレスはエステルと対のデザインになっているように思う。彼女たちはいつも揃いの服を着ているのだろうか。

 マリヤは魅力的な笑顔だが、マルーシャほどのオーラは発していない。もっとも、エステルを引き立てるために抑えているだけかもしれない。ニュシャもそう言っていた。

 エステルの手が鍵盤の上で軽やかに跳ね、前奏に続いてマリヤが歌い出す。


   "Quando me'n vò soletta per la via,

   la gente sosta e mira,

   e la bellezza mia tutta ricerca in me,

   da capo a piè."


 曲調は明るく、歌い方も楽しそうで、劇中人物の魅惑的コケットな態度が目に浮かぶようだ。身振り手振りを交えて歌うが、胸が揺れすぎるのが気になる。いや、そこを見なければいいだけの話なのだが。実際、俺以外の男の客は見ているようで見ていない……気がする。

 こうして気が散るのも、マルーシャのような圧倒的な引き込まれ方をしないからだろう。もっとも、俺にいくらかの耐性が付いているだけかもしれなくて、周りの客は――隣のニュシャも――マリアの歌声に魅了されているように思う。しかし、俺にはエステルのピアノの音までちゃんと聞こえている。

 3分足らずの短い曲だったが、終わると前半の時よりも大きな拍手が聞こえてきた。もちろん、マリヤの歌唱力はそれに値するのだが、エステルのピアノ伴奏あってのことなので、エステルが少し可哀想な気がする。


 2曲目はモーツァルトの『フィガロの結婚』――従妹のエレインでも知ってる有名な!――第2幕から『恋とはどんなものかしら』。これは俺だってタイトルを知っている。聞けば思い出すに違いない。

 伯爵の浮気を調べる“手紙作戦”の相談の後、ケルビーノが伯爵夫人ロジーナに聴かせる歌だ。ちなみにケルビーノは“女装もできる小姓ペイジ”で、男でありながらソプラノが演じる。そういえば昨日は“男装したバレリーナ”とデートもどきをしたことを思い出す。


   "Voi che sapete che cosa è amor,

   donne, vedete s'io l'ho nel cor.

   Quello ch'io provo vi ridirò,

   è per me nuovo capir nol so."


 前奏を聴いただけでは思い出せなかったが、歌が始まったらようやく思い出した。しかし、それも最初の部分だけで、後は曖昧な記憶しかなかった。

 憧れの伯爵夫人の前で、“恋への憧れ”を歌うという場面で、少年の微妙な気恥ずかしさも歌声から感じられた。これも3分ほどで終わった。

 先ほどにも負けない大きな拍手が鳴り止むと、マリヤは客席に向かって優雅にお辞儀レヴェランスをし、エステルと両手を握りあって、二言三言話しかけてから、舞台を去って行った。マリヤが去った後で、エステルが少し首を動かし、客席の方を見た。俺と目が合った気がする。


 エステルは膝に手を置き、背筋を伸ばして座り、目を閉じていた。精神統一だろう。肩の動きから、深呼吸をしているのが判る。胸の大きさはニュシャ、マリアには及ばないものの、十分な大きさだ。どうして俺はそんなところを見ているのだろう。

 やがてエステルの両手が鍵盤の上に乗り、しなやかな指が音を奏で始めた。ベートーヴェンの『ピアノソナタ第23番』。『熱情アパショナータ』という通称が付けられているが、それとは裏腹に静かで落ち着いた出だしだった。

 しかし突然激しくなり、また静かになり、かと思うとまた激しくなって……と、静と動を繰り返す。そして怒濤の盛り上がりを見せてから静かに第1楽章が終わる。

 第2楽章は終始落ち着いた伸びやかな雰囲気で、同じような主題を何度も繰り返していた。言っては何だが、エステルが弾くのでなかったら退屈していたかもしれない。

 しかし第3楽章はいきなり激しい連打で始まり、聴いていて胸が締め付けられるような旋律が続く。

 不意に、右からニュシャの手が伸びてきて、俺の手首の辺りを掴んだ。そしてそのまま自分の方へ引き寄せると、胸の谷間に俺の手を埋めて!両手で抱きしめた。そして熱を持った悲しげな目で舞台を見つめている。

 女の手とは思えないほどニュシャの掌が熱く感じ、胸の体温が伝わってきた。そして鼓動まで! まるでピアノを弾くエステルの“熱情”がニュシャに伝播し、体現しているかのようだった。エステルの心がニュシャに憑依したと言っていいかもしれない。

 いや、ニュシャだけではなかった。周りの様子をそっと観察したが――見回すことはできなくて、気配を感じるのみだったが――、誰もがエステルの演奏に引き込まれていた。まるでマルーシャの――もちろん競争者コンテスタントとしてのマルーシャの――歌を聴いているときのように!

 周りの観客の興奮が、まるで炎の熱のように伝わってくるのだ。そしてエステル手は鍵盤の上で激しく踊り狂う。あんな細い腕で、あれほど激しく――強くそして速く――キーを打てるのかと目を見張るほどに。

 旋律が最高潮に盛り上がったときに、ニュシャの口から苦しい吐息が漏れるのが聞こえた。そしてトップ・スピードの車が急停止するかのように、唐突に曲が終わった。

 エステルはゆっくりと手を膝の上に戻した後、蝋人形のように固まっていた。そして……


 そして、長い時間が――いや、実際には数秒だったのだが――経過した後で、拍手の嵐が舞台に降り注いだ。誰もが立ち上がり、惜しみない賞賛をエステルに浴びせた。実際には興奮のあまり足が震えて立てなかった者もいるに違いない。隣のニュシャのように。

 ニュシャは感激のあまり、泣いていたのだった。俺の右手を胸に抱きしめながら。俺は不埒にもニュシャの胸の柔らかさを堪能していた。こういうときに、そういうことを考えてはいけないのだと思いながら。

 ようやくニュシャが俺の手を放し、足をふらつかせながら立ち上がって、拍手を始めた。俺も立って拍手する。それはなかなか鳴りやなかった。

 固まっていたエステルがゆっくりと立ち上がり、お辞儀レヴェランスをして、そのまま幕が下りても、まだ拍手は続いていた。

 もう一度幕が上がると、マリヤがエステルを抱きかかえるようにして立っていた。そして再びお辞儀レヴェランスをし、頭を下げたまま幕が下りた。アンコールがあり得ないと判っているのに、拍手は続いた。それは何分間だっただろうか。

 しばらくして拍手の音は少しずつなくなっていったが、客席の興奮は治まらなかった。誰も外に出ようとしない! 今の演奏に対する感動を、立ち止まったまま皆が語り合っているのだった。

 モントリオールで、マルーシャのコンサートを最後まで聴いたことが一度だけあったが、あの時もこんな感じだった。興奮が冷めた後、放心して、動けなくなった奴までいた。

「ティーラ、ああ、ティーラ……」

 拍手を終えたニュシャは、両手で顔を覆って泣いていた。感動が言葉にならないのだろう。そっと腰に手をかけてやると、抱き付いてきて、そのまま大泣きし始めた。

 この後、楽屋グリーン・ルームへ行くことになっているが、この分ではロビーも人でいっぱいだろう。すぐには無理かもしれない。

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