#13:第7日 (7) ミニ・コンサート
「とってもおいしかったわ。でももう少し食べたい気がするわね」
店を出た後でニュシャが言う。だったら、もう一品ドルチェを頼んだらよかったんじゃないか。
「先に、花と菓子を買いに行こう。その後、開演まで劇場のレストランにいればいいよ」
菓子を求めてブーニナ通りを西へ。ガレリャの近くにケーキ屋があるはずで、そこへ行く。
歩き出す前から、ニュシャが俺の右腕にしがみついてくる。さっきまでと、腕に当たる感触が違う。ビスチェで締め付けていたのが解放されたからというのもあるだろうが、柔らかさを感じさせるように当てているのだと思う。
「だって、痣が見えないようにするには、こうするしかないから」
言い訳がうまいねえ。でも確かに、そうだな。俺が手で隠しながら歩くわけにはいかないし。
ケーキ屋に着いて、菓子を物色する。マリヤはいくつくらい食べるだろう? マルーシャならホール・ケーキ1個は余裕、2個でも行けるんじゃないかというくらいだから、俺のこぶし大の
ただ、マリヤがそこまでとは思わないので、エステルの分と合わせて8種類のペイストリーを2個ずつ、とした。食べきれなければ持って帰るだろう。
次は花。菓子が食べきれないくらいなら、花なら抱えきれないくらい、としたいところだが、あいにく花屋にそれほどの量が置いてない。それでもこの前の倍のサイズの花束にしておいた。
ニュシャが右腕を離してくれないので、菓子と花束を左手で持ったまま歩く。交響楽劇場に着いて、ベルナルダッツィへ入る。開演まであと30分ほどある。ニュシャがキャロット・ケーキとボストン・クリーム・パイを注文する。食後まだ30分なのに、よくそんなに入ると思う。俺はコーヒーだけにする。
「あなたのためも思って食べるんだから、2倍美味しく感じるわ」
「俺のためというと……」
ニュシャが視線を胸元に向ける。いや、今いくら食べても今日明日ではそんなに大きくならないって。もしかしてニュシャも胸のことしか考えられなくなってるんだろうか。
10分前になったら劇場へ。チケットはもらっていないが、受付に言えば何とかなるだろう。実際、男の係員が一人やって来て、席まで案内してくれた。菓子と花も預かってくれた。
席は最前列で、おそらく招待者用と思われる。ミニ・コンサートというから、さほど客は入らないのかと思ったら、招待者用も含めてぎっしり満員だった。
「マルーシャが出演するんだもの、当然だわ」
ウクライナの歌姫だからか。しかし、プログラムによれば彼女は2曲しか歌わないことになっている。
まずエステルがピアノで2曲演奏し、いったん休憩。その後、エステルのピアノ伴奏でマリヤ――ここではマルーシャと呼ぶのが正しいのだが、
「それに、ティーラのピアノを引き立てるために、マルーシャは本気を出さないんじゃないかしら」
そういうものなのか。
さて、演目は何かを知りたいのだが、プログラムにはキリルしか書かれていない。ウクライナ語版とロシア語版がある? でも、どっちにしろ俺は読めないんだよな。始まる前に、ニュシャに教えてもらうことにする。
幕が上がると、エステルが赤いドレスでピアノの前に座っていた。しばしの精神統一の時間の後、演奏が始まった。チャイコフスキーの『ピアノ・ソナタ ト長調』。
エステルのピアノを聴いたのはメキシカン・クルーズ以来だが、あの時はポップ・ソングというか、お遊びの曲だった。クラシックを聴いたのはもちろん初めてだ。
この曲も初めて聴くし、そもそもピアノ・コンサート自体が初めてなので、演奏をどのように評価していいかも解らない。有名な演奏家を知っていればそれと比較するのだろうが、あいにくそれもできない。
ただ、聴いていてぐいぐいと引き込まれていく気がするのは間違いない。4楽章、33分間、堂々の演奏だった。終わると大きな拍手が湧いた。
続いてショパンの『ピアノ・ソナタ第3番』。プログラムには各曲の簡単な解説が書いてあるらしくて、それを読めば作曲の背景や意図が解ったりして興味が増すのだが、いたしかたない。しかし、先入観なしで聴くのもまたいいだろう。
ショパンといえば“ピアノの詩人”と呼ばれていて、華やかで甘い感じの短い曲が多いというくらいの知識しかない。だが、この曲はそういうところを部分的に感じさせながらも、壮大な雰囲気を全体に漂わせているように聞こえた。特に最後の第4楽章はのびのびとしていて、エステルもそれを感じながら楽しそうに弾いているように見えた。
25分強。素晴らしかった。遠慮なく大きな拍手を送った。ニュシャも胸を波打たせるほどに拍手を送る。
ここで幕が下りて、15分間の休憩。なぜか客のほとんどが席を立って出て行ってしまう。外で休憩する場所があるわけでもないのに。
俺とニュシャは座ったまま。外へ出ると、ニュシャがオペラのファンに見つかってしまうかもしれないので。ここにいても見つかるのは同じだが、横に俺がいれば声はかけられにくいというわけだ。
さて、痣の秘密はいつ話してもらえるのだろうか。
「こんなに長いピアノ曲を聴いたのは初めてだが、素晴らしいものだな」
まずは正直な感想を言っておく。
「感想はティーラに直接言ってあげるといいわ。でも、私もとても素晴らしいと思った。今日の演目は、
それは確かにそうだ。もちろん、俺は世界トップ・クラスのピアニストの演奏すら聴いたことがないので、正しい評価もできないのだが、“
もっともマルーシャのあれは、感動しないでおこうと必死で耐えていても引きずり込まれるような恐ろしい魅力があった。
「そもそも、コンクールではどういう基準に従って優劣を付けてるのかな。減点法とかじゃないんだろう?」
「各審査員の採点基準は知らないけど、評価するポイントはだいたい判ってるわ。音の響きの美しさ、リズム感、全体の構成力が主なポイントよ。声楽の場合は表情も評価されることが多いけど」
「誰が弾いてるかは判った上で採点する?」
「ええ、もちろん。ああ、
「安心した。ところで、無粋なことを訊くようだが、君はマルーシャとの優劣について考えたことがある?」
「優劣だけじゃなくて、マルーシャのことはいつも考えてるわ。私は彼女の歌が大好きなの。彼女も私の歌が大好きって言ってくれるわ。そして、私の歌い方のいいところを取り入れられるようにいつも研究してるって。実際に、こういうところが好き、こういうところがいいから真似したいって言って、そのとおりにしてくれるのよ。だから私も同じようにするの。これからも二人で高め合っていきたいわ。マルーシャ以外にも好きな歌手がもっとたくさん作れれば、よりいいと思うけど」
軽い気持ちで訊いたのに、ものすごく理想的な関係を聞かされてしまった。これって現実世界を反映してるのかなあ。
そもそも、ニュシャとマリヤの世界的な知名度ってどれくらいなんだろう。ニュシャはロシア、マリヤはウクライナの、それぞれの国を代表する
もっとも、今回は調べなかったことがいい方向に働いてるけど、いつもそうだとは限らないだろうし。次にマルーシャと同じステージになったときには、周りの評判を聞きまくってみようか。
「歌だけじゃなくて、容姿についても、共に高め合ってくれると世界のためになる」
「ええ、もちろん。ああ、でも、私はこれからファンが減るかもしれないわ。あなたのためのプロポーションに近付けていきたいもの」
そんなことを言いながら胸を揺らすな! いや、見てしまう俺も俺だけど。
「合衆国の公演を多くすれば、新しいファンを獲得できるんじゃないかな。合衆国には俺と同じ好みの男も多いし」
「ええ、ぜひそうしたいわ! それって、私と一緒に合衆国で住みたいって言ってくれてるのね?」
墓穴を掘ってるなあ。
「その方が君とお互いを知り合う時間が増えるけど、今はまだ少しずつ進める段階じゃないかな」
「でも、将来の展望が開けてきたのは嬉しいわ。痣が気になる?」
いや、どうして突然そっちの話題になるのさ。別に見てなかったのに。もしかして、両隣の席が空いて、今がチャンスってこと? そもそも、見る必要あるのか。存在確認さえできればOKってことにはなってない?
「それもそのうちに見せてもらうよ」
「他の男の人に先に見られたくない、って思わない?」
思うと言えと強要されている気がする。
「もちろん、見られたくない」
「ここで見てもいいわよ」
どうやって。ブラジャーを外す? まさか。カップをちょいとずらせば……いや、なぜよける。見せたいのか、見せたくないのか、はっきりしてくれ。
もう一度指を近付ける。隠されている部分の、少し上の布をちょっとだけずらす。ああ、ハートだね。小さいな。人差し指の先くらい。
もういいよ、ありがとう。指を離したら、ニュシャがブラジャーを少しずらして痣を隠してしまった。いや、待てよ、全部隠せるんじゃないか。もしかして、さっきまでわざと少しはみ出させてた? 俺に見つけさせようとしてたな、そうなんだな。
「とても可愛い。他の男には絶対に見せないでくれ」
「もちろん!」
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