#13:第7日 (9) 感動と放心

 外へ出ようとごったがえす人の波をかき分けて、係員がやって来た。預けた花束と菓子の箱を持っている。そして「楽屋へご案内します」と言った。

 ニュシャをなだめて、肩を抱きながら係員の後に付いて行く。どこをどう通ったのかよく判らないが、舞台裏へ入ることができた。

 その中の一室を係員がノックする。この時になってようやく、電話を架けなければならなかったことを思い出した。コニーへの電話だ。

 やや間があって、ドアが開いてマリヤが顔を覗かせた。珍しく曖昧な笑顔だ。係員の後ろに俺とニュシャの姿を認め、ようやくはっきりした笑顔になった。既に平服に着替えていた。

ありがとうスパシーボ職員さんペルソナル。アーティー、ニュシャ! お越しいただいてありがとうございます! あら、ニュシャはどうしたのかしら?」

「おお、マルーシャ! 感動したの、私は激しく感動したの! ティーラの弾く『熱情』に……」

 そう言ってニュシャは係員を押しのけるように進み出ると、マルーシャと抱き合ってしまった。係員は困惑しながらも笑みを浮かべ、後はご自由にという感じで去って行きかけたが、慌てて呼び止めてチップを渡した。片手が塞がっているので、財布を開けるために花束やらを係員に持ってもらわなければならなかった。

 ついでに電話の在り処も訊いた。それからニュシャをなだめているマリヤのところに戻って、「素晴らしい歌と演奏だった」と告げた。

「ありがとう、アーティー。ただ、申し訳ないけれど、ティーラに会うのはもう少し待っていただけるかしら。演奏を終えた後、ひどく興奮してしまって、お話もできないくらいなんです。もうしばらくしたら落ち着くと思うんですけど」

 最後の1曲は荒ぶる魂レイジング・ソウルか何かが憑依したかのような激しい演奏だったが、本当に忘我の状態に陥ってしまったらしい。

 気持ちは解る。俺もカレッジのゲームで残り1秒で逆転TDタッチダウンを決めた後に、失神したからな。あの時は興奮のあまり、絶頂オーガズムしたかに感じたが、本当に出してなくてよかった。

「それは大変だ。じゃあ、少し時間を置くことにしよう。15分ほどしたら一度戻ってくるよ。えーと、しかし、ニュシャは……」

「私が何とかするわ。私も以前、彼女の歌を聴いて同じように大泣きして、なだめてもらったのよ」

 それは大変助かる。マリヤはむせび泣くニュシャを楽屋へ連れて入った。

 ちょうどいいタイミングなのでコニーに電話をしよう。係員から聞いた場所――別の楽屋――からホテルへ電話を架けた。モトローナが出たが、コニーはまだ部屋に戻っていないと言う。これはもしかしたらダメだったというサインかな。後でもう一度電話をしてみるか。


 15分間を手持ち無沙汰アット・ルース・エンドに潰してから、再び楽屋のドアをノックした。今度はマリヤが最初から満面の笑みで現れて、意外なことに俺に抱き付くようにしてビズをした。彼女はそういうことはしないと思ってたのに。

 楽屋の中へ入る。さっき入った大きめの楽屋とは違って、4人くらいで使う広さだった。2面の壁が鏡台になっていて四つの椅子があり、立派なソファーの応接セットもある。おそらくは楽団のトップや、今回のような少人数のグループが使うのだろう。

 そのソファーに、平服に着替えたエステルが、身を縮めるようにして座っていた。自分で自分の身体を抱きしめるように。そういう姿は、メキシカン・クルーズで見たことがあった。もちろん、ティーラとして。

 ニュシャはこちらに背を向けていた。俺が入ってきても振り返りもしなかったから。まだ放心しているのかもしれない。

 エステルは俺に気付いて顔を上げたが、立とうとしたのに立てなかったようだ。頬が真っ赤に染まってる。まだ興奮冷めやらぬといった風情だった。

 座っていていいよと手振りで伝え、ソファーの横まで歩み寄った。エステルは俺の顔を眩しそうに――あるいは恥ずかしそうに――見上げていた。片膝を突いて顔の高さを揃え、花束を差し出した。

「ティーラ、素晴らしい演奏だった。あまりの感動で言葉にならないけれど、心も身体も震えたよ。一生記憶に残るだろう」

 エステルは潤んだ目で俺を見つめていたが、言葉を返すこともなく、ややあって大粒の涙を流し始めた。

 マリヤが駆け寄り、ハンカチで涙を拭いて、子供をあやすように肩を抱く。俺はどうしようもなくて、マリヤの方に「もう一度外に出た方がいいかな」と問いかけの視線を走らせたが、マリヤは慈悲深く微笑んだままだった。このまましばらく待っていろということかと思う。

 3分ほどして、ようやく気が鎮まったのか、エステルが涙目のままもう一度俺の方を見た。そしてまだ少し震える手で花束を受け取った。

「ありがとうございます……あなたに感動していただけて、とても嬉しいです……」

 言った後でまた感情がこみ上げてきたのか新たな涙をこぼしたが、目は俺の方を見たままだった。感動を伝えるために抱きしめてやりたいところだが、失神したら困るのでやめておく。隣のマリヤに菓子の箱を差し出す。

これは君へヒア・ユー・アー

「あら、おいしそうな香り! それにしても大きな箱だわ。開けますわね。まあ、ペイストリーがこんなにたくさん!」

 通常のホール・ケーキ用の倍の高さの箱の中に、ペイストリーが詰め込まれている。マリヤは「すぐに飲み物を用意しますわ」と言って箱をテーブルに置くと、部屋の片隅へ行った。

 さっきからハーブ・ティーのいい香りが漂っている。空のカップがテーブルの上に三つ載っているが、エステルとニュシャに心を落ち着かせるために飲ませたのだろう。

「どの曲の演奏も素晴らしかったが、最後のは特に激しかった。あれで消耗してしまった?」

「それが……私自身、よく解りません……途中からの記憶がないんです。何も考えられなくなったというか、自分が自分でなくなってしまったみたいな……」

「俺も、ベートーヴェンが君に憑依したかと思った。しかしそれは、極限まで集中していたからだと思うよ」

 カレッジのゲームで失神した話を聞かせているうちに、マリヤがハーブ・ティーのポットとカップを持って来た。新しいカップに注ぎ、エステルの向かい側に置く。そこに俺が座れということかな。

「まだ食べられないかもしれないけれど、シナモンの香りには気分を落ち着かせる働きがあるから、ペイストリーを一つ置いておくわね」

 マリヤがシナモン・ロールをエステルとニュシャの前に置く。自分はプロフィトロールとクリーム・チーズのリング――名前を忘れた、トヴォ何とかブラーブラー――とチェリー・パイ。俺のは……なしかよ。まあ、いいか。

 エステルの花束をマリヤが預かり、俺にソファーを勧めた。カップの位置どおり、エステルの向かいに座る。エステルはまた両手で自分を抱きしめた。自分が自分でなくなったみたいな、と言っていたから、自分の存在を確認したくなるのかもしれない。

 隣のニュシャに「そろそろ気分は落ち着いたか」と声をかける。まだ半分くらい陶酔したような目つきだ。

「素晴らしかったわ……感動したの。とても感動したの。こんなの久しぶりよ。マルーシャの歌を初めて聴いたときのようだわ。あれは……もう7年も前かしら? 王妃コンクルスコンクールで……いいえ、あの時を超える感動だわ。ティーラは私やマルーシャを超えたのよ。間違いないわ」

 あまりしゃべらせるとまた興奮しそうなので、ペイストリーの皿をニュシャの胸元に持って行く。ニュシャが皿を受け取って笑顔を見せた。ようやく正気に戻って来たようだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る