#13:第7日 (4) 試着室の中
バーを出て、ロビーに降りて、タクシーを頼んだが――珍しくモトローナがいなかった――、ニュシャが「
しかし、ケイティーやシモナのような小柄な女ならいいのだが、ニュシャだと
タクシーの中でもニュシャは右腕にしがみついてくる。きっと、夜寝るときは抱き枕を使っているだろう。
ガレリャに着き、後はニュシャに任せる。ニュシャはフロア・プランを見て、2階の一番広い店に入った。外で待っておこうと思ったのに、中に呼ばれてしまう。
店員がニュシャを見て「オペラ歌手の……」と気付いたが、ニュシャは愛想よく微笑んでいる。本当は嬉しくないとさっき言っていたから、愛想笑いだな。
ニュシャと店員の後に付いて、店内を見て回る。しかし、特定のエリアから出ない。しばらくしてようやく理解したが、大きいサイズの服ばかりを見て回っているのだった。
つまり、XLでないと胸が入らないからに違いない。「高級服が好きなわけじゃない」のも同じ理由だろう。合衆国ならサイズのヴァリエーションがたくさんあるんだがなあ。え、何?
「ロシアは胸のサイズが大きい服の品揃えがいいのよ」
そんな
30分ほどかけて、3着選び出した。試着する。そりゃ当然だろ。
「試着室に一緒に入って」
君は自分が何を言ってるか解ってるのか。店員も止めろよ。いや、どうして「
「だって、似合っているかどうかをあなたに見てもらうには、それが一番早いでしょう? それに、背中の
手伝ったことがないんで、やり方が解らんよ。下着をちゃんと着けていることだけは保証してもらえないかな。
まずは今着ているドレスのジッパーを下げる? 一人でできないのなら、普段はどうやって着替えてるんだ。
下げると、コルセットでしっかりと身体を隠していた。安心した。コルセットじゃなくてビスチェとガードル? ビスチェはバストを支えて、ウエストを細く見せて、ガードルはヒップ・ラインを美しく見せて……いや、そんな解説はいいから。
しかし、よく考えたらこれではニュシャの身体に痣があっても見えない。手足にはなさそうだし、胸も腹も尻も見えない。かといって、見たいから脱げとも言えないし。いや、それどころか、服を着るまでは目を閉じているべきだ。
とりあえず、1着目。ベージュの七分袖のドレス、Vネックで、スカートはタイト気味の膝上だが、スリットが腿の中程まで入っている。ずいぶんおとなしいデザインだ。胸元の開きは大きいけど。
というか、Vネックだと自動的に前が開くんだな、大きいから。いつもこういうのを着てる? 胸はやはり自慢なのか。
「あなたはどれくらいの大きさがお好きなの?」
そういう難しいことを訊かないでくれるか。
「人にも依るし、時と場合にも依るし、これがベストというのは決まってない。君ならもっと小さくても魅力は変わらないよ」
「もっと大きかったら?」
これ以上大きいサイズがあるのか? XXLとか3XLとか。
「大きすぎて君が困らないのなら、俺も困らないと思う」
「ありがとう!」
なぜ感謝されなければいけないのかよく解らないが、まあいいか。
2着目、ネイヴィー・ブルーの
3着目、パール・ピンクのオフショルダーで、谷間のところだけV字にカットが入っている。スカートは膝丈のギャザー。
どちらもおとなしいデザインで、値段もそれほど高くなさそう。いや、本当にそうか? 通貨単位のフリヴニャの価値がどれくらいなのか、1週間経っても把握してない情けなさよ。
「2番目のにするわ」
どれが一番似合っていたかを訊いてくるかと思ったら、ニュシャが自分で決めてしまった。何か決め手があったのだろうか。
元の服に着替えて、試着室を出る。精算のためにカードを店員に渡す。店員が少し驚いた表情で俺の顔を見る。財団のカードであることを悟ったらしいが、なぜこんな奴がこのカードを、と思っているように見える。財団の重役が使ってるのしか見たことがないんだろう。
「ところで、何が決め手だったのかな」
店を出た後でニュシャに訊いたが、嬉しそうな笑顔を見せながらも答えなかった。
「もう少し後で教えるわ。次は、下着を買うのに付いて来て」
「いいけど……試着も手伝うのか?」
「私はそうして欲しいけど、店員に止められると思うの」
そういうものなのか。よく解らん。
ランジェリー店にニュシャを送り込んでから、頭の中を整理する。ニュシャはどうやら
でも、他にもう機会がないぞ。楽屋へ行って、その後はお別れだし。夜に誘い出す……それもありえなさそう。
そもそも、彼女の連絡先を知らない。エステルかマリヤに訊いたら判るだろうけど。
ニュシャが店から出て来た。もう買ったのか、早いな。
「合うサイズのは種類が少ないんだもの」
だろうな。しかし、よく考えたらどうして下着を買う必要があったのだろう。ああ、そうか。服のラインを綺麗に出すには、それに合わせた下着が必要、とコニーが教えてくれたんだった。
ところで、昼食まではあと1時間くらいあるが、次はどこで何をするか。
「どこか静かなところでお話がしたいわ」
そればっかりだな。俺はできれば身体を動かしたいんだよ。特に昼間は。
「オデッサに1週間滞在してるが、観光はどこへ行った?」
「それほど出掛けなかったわ。考古学博物館と、チョコレート博物館と、美術館と、オペラ・バレエ劇場くらいかしら」
「ポチョムキンの階段は」
「ええ、それも見に行ったけど」
「ヴォロンツォフ宮殿」
「見てないわ」
どうしてそんなに出不精なんだ。疲れやすいのか、それとも胸が重いから歩くのが億劫なのか。
「じゃあ、少し歩いて観光しよう」
「あなたはそれが好きなの?」
「好きだよ」
「じゃあ、一緒に行くわ」
ガレリャを出て北へ歩く。市民公園へ少し寄り道して花を見て、歴史博物館の前は素通りして、ゴーゴリャ通りにあるファルツ・フェインの家を見る。
1900年頃にアレクサンドル・ファルツ・フェインが建てた屋敷で、現在は集合住宅。アトランティス・ハウスとも呼ばれるが、それは北西の角に二人のアトランティス人が星の付いた巨大な球を背中で支え合っているという、奇妙な彫刻が置かれているからだ。
作者はトーベイ・フィッセル。普通、こういう彫刻では筋骨隆々の男を配すると思うが、この二人はあまりいい体格をしておらず、しかも腹が出ている。
「あなたなら一人で背負えるんじゃないかしら」
「そうかもしれないが、こんな姿勢では腰を悪くするよ。アトラスのように肩に乗せるべきだな」
「そうね、腰が悪くなったら私も寂しいわ」
何が寂しいのか解らないが、次へ行こう。ジュヴァネツコホ通りへ出たら、少し西へ行ってシャーの家、それからオレンジの記念碑を見る。2日連続で、しかも俺は3回目だが、ニュシャは楽しんでくれているようだ。
ジュヴァネツコホ通りを東へ戻り、“恋のハート”へ。「あら、素敵!」とニュシャも喜ぶ。昨日のケイティーよりも反応がいい。ケイティーも、最後の方に見に来ていたらもっと喜んだだろう。
「私とあなたの名前を書いた錠を、ここへ掛けておきたいわ。そうすれば恋人どうしになれると思うの」
趣旨が違うって。恋人どうしが永遠の愛を誓うために掛けるんだよ。恋人になりたいから掛けるんじゃあ、爆発的な数になるぜ。俺もメグの名前を書いて掛けたいくらいだよ。
「ロシアにもあるんじゃないのか」
「さあ、モスクワならあるかもしれないわ。私の町では聞いたことがないけど」
どこだったっけ、忘れたよ。
「昼食の後で、錠を買ってここにもう一度来ましょうね」
錠を掛けるのか。まあ、いいや、このステージ限定ってことで。エステルに知られないようにしないといけないな。
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