#13:第5日 (9) 怒りのはけ口

【By 主人公】

 もう9時か。ずいぶん遅くなった。しかし、シモナの運動データ取りが無事に終わって良かった。シモナはものすごい張り切り方だったなあ。一緒に連れて行ったラリサってのはそれほどでもなかったのに。

 それから、イリーナの尽力にはどうやって報いようか。もはや夕食だけでは済まない気がするが、明日はもう約束が入ってるし、明後日は最後の夜だからデートしてる暇なんてないだろうし、どうしたものか。

 考える時間が欲しいが、今夜はまだ別の約束が待っている。着替えて、ジムへ行かねばならない。ユーリヤが相変わらずトレーニングに励んでいる。

「やあ、遅くなった。夕方からずっとトレーニングしてたのか?」

「そんなわけないでしょ。夕食くらい摂りに行ったわよ」

 そんなに機嫌が悪そうな声を出さなくても。表情も、以前の不機嫌に戻っている。ただ、こちらを睨むどころか目も合わせようとしない。

「何かで機嫌を損ねたんなら謝るよ。俺は自分でも知らない間にへまをやらかすことがあるんでね」

「別に、あんたが悪いことなんて何もないわよ。今日は嫌なことがいっぱいあっただけ」

 マシーンを使う手足の動きが荒々しい。拗ねてる、いやいや、一種の自己嫌悪だな。腹を立てたくなかったのに、我慢しきれなかった自分に嫌気が差してるわけだ。しかし、別にそんなこと気にしなくていいのに。

「話を聞くこともできるし、君が一人で落ち着いてトレーニングするために、このまま退散することもできるが?」

「あんたのトレーニングが見たいだけなんだけど、どうしてそういう選択肢はないの?」

 俺のトレーニングを見たら心が落ち着くとでも? 朝は興奮してたように見えるんだけど。それで機嫌が直るのならいいことかもしれないが。

「じゃあ、気が変わったらいつでも話を聞くから、声をかけてくれ」

 ユーリヤに背を向けて、スローイングのトレーニングをする。ただし、鏡にはユーリヤの姿が映っている。

 しばらくして、ユーリヤがマシーンを使うのをやめた。こちらを凝視しているのが見えるが、それだけでなく、背中に突き刺さるような視線も感じる。あまり気分のいいものではない。

 15分くらいすると、「はあ……」という艶めかしい吐息が聞こえてきた。鏡に映っているユーリヤの脚の曲げ方が妙に色っぽい。あのたくましい太股の筋肉はどこへ行ったのかと思う。

「やっぱりちょっと聞いてもらっていい?」

 声までしおらしくなってるし! この後、何か危険な展開が待っている気がしないでもない。

「このまま聞いているから、好きにしゃべってみな」

「午前中に、あたしの練習を見たでしょう。あの時のパートナーのアナトリイが辞めちゃったの。あたしが不機嫌になって当たり散らすから、嫌になったんだって」

「何に不機嫌になったんだ」

「自分のミス。彼を怒鳴るつもりはないけど言葉が汚くなるし、タオルを投げたり鞄を蹴ったりするし、見てられないって。それにその後、気持ちを落ち着かせるのに時間がかかって、度々練習が中断するのよ。そういうときは彼が何を言ってくれても耳に入らないし、何より彼が無駄な時間を過ごすことになるから、嫌になるのは当たり前よね。今までだって何人も辞めたわ」

 世の中には暴言を吐かれるのが好きな人間もいるから、そういうパートナーを見つければいいとも思うが、それが誰にも耐えられないものなのかは、聞いてないので判らない。

「それだけ?」

「代理人がS&Cトレーナーをなかなか見つけてこられないから、電話でひどいこと言っちゃった。後でちゃんと謝ったけど、もう言うこと聞いてくれないかもしれない」

「他には」

「夕方にここへ子供が来たでしょ。あんな子供相手にまで機嫌が悪くなっちゃって」

 子供じゃないぞ。あれでも15歳だ。見えないところにちゃんと筋肉が付いてるんだぜ。さっき、データ取りの時に見て感心したんだ。

「あれでどうして機嫌が悪くなった?」

「どうしてここにいるのって言われたから。ウィンブルドン選手権の3回戦で負けたせいよ。勝ってれば今週もゲームがあった。あの子はそんなつもりで言ったんじゃないと思うけど、その直前まで不機嫌になってたせいで、負けたこと思い出してイラッとしたのよ。よく怒鳴らなかったと思うわ」

「怒りを抑えきれないのは悪いことだと思ってる?」

「悪いに決まってるじゃない。アンガー・マネジメントができないんだから」

「その心理療法を受けたことは?」

「もちろんあるわよ。それでようやく少しましになった程度」

「怒りを感じても10秒待てとか、自分を客観的に見ろとか、言いたいことは後で言えとか」

「知ってるわよ、それくらい」

「その程度で怒りが抑えられたら誰も苦労しねえって」

「何ですって?」

 おお、不機嫌になって来たな。いいぞ、それで。なよなよしてると意外にセクシーで、さっきから困ってたんだよ。

 スローイングをやめ、振り返ってユーリヤの方へ近寄る。俺の表情が変なのかもしれないが、ユーリヤが少しひるんだ。手を伸ばしてボールをユーリヤの顔の前に突きつけながら、少しドスの利いた声で言う。

「怒りは抑えなくていいよ。ぶちまけちまえ。その代わり、やり方を変えるんだ」

「変えるって、どうやって?」

「暴言を吐くと、それを自分で聞いてて余計腹が立つだろ。だから汚い言葉を言わない。代わりに誰もが脱力するようなジョークを言う。周りどころか自分まで脱力して、怒りなんかどこかへ吹っ飛ぶぜ」

「はあっ!?」

「物に当たると、物が壊れるし、自分の手足も痛くなるだろ。だから心に当たる。間抜けな護符チャームを身に着けてそれで心を折る。参考までに俺が何を使ってたか教えてやろうか。マウスピースだ。フットボールではゲーム中に装着する義務があるからな。『そんなに目立ちたいのか、この露出狂ユー・フラッシャー!』って呪文スペルを書いておいて、プレーの後に嫌でも目に入るようにしたんだ。君なら例えば手首に恥ずかしい言葉を書いて、そのリスト・バンドで隠しておいて、怒りたくなったら見るってのはどうだ?」

 ユーリヤが少し顔色を変えて、左手を身体の後ろに隠した。んん、どうして右手は隠さないんだ。左利きだから?

「……本気で言ってるの? そんなことで怒りがコントロールできると思ってる?」

「騙されたと思ってやってみな。本当に騙されるかもしれないけど」

「じゃあ、ジョークなの?」

「両方とも俺が実際にやってたことだぜ。高校1年生フレッシュマンの時は狂犬マッド・ドッグって言われてゲームに出してもらえなかったんだ。非スポーツマン行為アンスポーツマンライク・コンダクトですぐ退場になるからな。メンタル・トレーナーすらお手上げだって言うから、仕方なく自分で矯正する方法を考えたんだ。おかげで大学カレッジの時には『あのくだらないジョークを聞きたくないから、あいつを怒らすな』って言われるようになっちまった。俺自身、つまらなすぎて嫌になるから、心の中だけで言うようになったよ」

 信じられない、という顔でユーリヤが見ている。信じてもらえなくったって別に構わない。

狂犬マッド・ドッグ? あんたが? 信じられない。あらゆることから一歩引いた感じで、超然としてるように見えるのに」

 信じられないのはそっちかよ。

「試しに怒らせてみる? 今でも無意識にコントロールする癖は付いてるけど、君がありとあらゆる暴言を吐いたら抑えきれなくなるかもしれない」

「怒らせたらどうなるの?」

「男が相手なら殴るか蹴るかだが、女が相手なら……」

 いや待て。一瞬怯えた後で目が輝くってどういうことだよ。何か変なこと期待してる?

「その先は今は教えてくれなくていいけど……解ったわ。あんたが言ったコントロール方法のこと、もう少し自分で考えてみる。それはそれとして、トレーニングの続きをしましょうよ」

 機嫌が直った。しかし、下半身がまだ若干なよなよしているように見える。筋肉を見せろ、筋肉を。

「またスローイングをすればいい?」

「いいえ、今度はあたしがトレーニングするところを見ててくれたらいいから」

「君のトレーニングを見て、何かコメントすればいいのか?」

「動きが美しくなければ、そう言って。それから……ああ、今日のところはそれだけでいいわ」

 動きの美しさというのは俺にはよく判らない。そういえばユーリヤもコニーも俺のフォームが完璧でないことを見極めていた。

 二人にできて俺ができないというのはよく判らないが、それはさておきユーリヤの身体の動きは、じっくり見ていても何の欠陥も感じられなかった。これで本人に不満があるというのだから不思議なものだ。

 11時までトレーニングの鑑賞をさせられてから、別れ際に「明日、一緒にビーチを走りましょうよ」と言われた。

「君が不機嫌になる原因を作ったシモナって子も来ると思うんだが」

「あら、そうなの。別に構わないわ。明日の朝ならさすがにあたしも自分をコントロールできてるわよ」

「子供は無邪気だから何を言うか判らんぜ。俺はあのくらいの年齢の子供は苦手だ」

「そのわりにはずいぶん仲が良さそうに見えたけど」

 今朝のビーチでのことを言ってる? じゃあ君、不機嫌そうに俺を睨んでるように見えたけど、もしかして嫉妬してた? そんなことを訊いたら本気で怒り出すかもしれないので、言わないけどさ。

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