#13:第5日 (8) 芸術の変換

【By ピアニスト】

 今夜、アーティーは私のピアノを聴きにいらしてくださらなかったけれど、お手紙をいただいた。急用で出掛けなければならないが、良い演奏を期待していると。

 私はそれだけでも十分嬉しかった。この手紙を持っているだけで、私は安心してピアノを弾けるだろう。

 実際、その手紙を衣装の胸の中に忍ばせて弾いてみた。彼がすぐそばで見守って下さっている気がして、逆に胸がドキドキしたけれど、演奏は素晴らしくよくできた!

 ディナーはホテルのレストラン。私とマルーシャを入れて6人のはずが、一人増えていた。モルドヴァのファッション・モデル、パンナ・コルネリア・イサク。とてもおしゃれでセクシーで、ウィリアム・アドルフ・ブグローが描いた絵のように美しい人だった。

 円形のテーブルに座り、私は男性二人に挟まれたが、二人ともマルーシャやパンナ・イサクに話しかけていた。私はほとんど話しかけられなかったが、よく知らない男性と話をするのは――もちろん、4人の男性の誰とも一度以上お会いしたことがあるけれど――不慣れなので、却って気が楽だった。

 ただ、マルーシャも私と同じように男性とのおしゃべりが苦手のはずなのに、任せきりにしてしまったようで、少し申し訳なく思った。

 肉料理が出てきた後に、誰かがテーブルに近付いてきて、ディナーのホストであるホテル支配人に声をかけた。連盟ザ・リーグの上級会員で、思想家のドクトル・ルイス・マルティネスと名乗った。

「おお、あの連盟ザ・リーグの! お会いできて大変光栄です」

 支配人は立ち上がって思想家と握手をした。連盟ザ・リーグというのは確か、芸術と文化の発展に貢献する世界的知識人の集まりだったと思う。私はマルーシャから聞いたことしかないけれど、彼女は何人かの会員とお会いしてお話をしたことがあって、みんな素晴らしい人たちだったと言っていた。

「著名人がお集まりということで、僕も少しばかりお話に参加したいと思ってやって来たんです。紳士方は皆初めて見る顔ぶれですが、淑女の皆さんのお顔は知っていますよ。やあ、パンナ・コルネリア・イサク。今夜は一段と美しいね。そちらはかの有名なウクライナの歌姫、マルーシャことパンナ・マリヤ・イヴァンチェンコだね。噂に違わずお美しい。そしてこちらは……」

 思想家が私の方を見た。ラテン系で、理知的かつ紳士的な顔立ちで、全ての真実を見通すような、深い琥珀色ブルシュティンの目。見つめられていると顔が熱くなってくる。

「もちろん知っているよ。ピアニストのパンナ・エステル・イヴァンチェンコだね。チャイコフスキー・コンクルスで君にメダルが与えられなかったのは、何かの間違いだと信じているよ」

 こんなことを言われたのは初めてだった。私のピアノの技量を評価してくれる男性がいるなんて!

「すぐにお席を用意させます」

 支配人が言うと、思想家が答えた。

「料理は要らないんだ。飲み物を、そう、ワインを1杯だけもらえるかな。それから、椅子をこちらのお嬢さんパンナの横に持ってきてくれれば」

 すぐに椅子とワイン・グラスが用意された。思想家が私の右隣に座った。何という名前だっただろう。ルイス・マルティネスだっただろうか。ドクトルとお呼びすればいいだろうか。

「君の姉のマルーシャはその類い希なる歌唱力と美貌で世界的に有名だけど、君も全く素晴らしく美しいね! 君の美しさは美という概念の中の繊細な部分だけを取り出して集めたものだと強く感じるよ。君は美という概念について興味を持ったことはあるかい?」

 思想家は意外なことを訊いてきた。

「美の概念……いいえ、それほど深く興味を持ったことはありません。私の美についての知識は、中等教育で習った程度です」

「習ったことだけが重要じゃないよ。君が興味を持つことが重要なんだ。君はもちろん音楽に興味を持っているだろう。それは聴覚のための芸術だけど、それと視覚のための芸術とのつながりを考えたことはあるかい?」

 習ったことはないけれど、感じたことはあった。あるピアニストが曲を弾いていると、頭の中に風景が浮かび上がってくることがある……と、思想家に答えた。

「そう、そういうのもあるね。それに、絵画から印象を得て作曲された音楽もある。モデスト・ムソルグスキーの『展覧会の絵』が、友人であるヴィクトル・ハルトマンの10枚の絵に基づくというのは有名だから君も知っているだろう。それから、画家のワシリー・カンディンスキーのことももちろん知っているだろう。彼は抽象絵画の創始者で、それは音楽を視覚化しようとしたものだとされている。つまり、絵画と音楽で同一の感情を表現しようとしたものだ。彼は共感覚を持っていたからそれを考えついたとも言われているけれど、共感覚を持っていなくても、作曲家は感情を音楽で表現しようとし、画家は感情を絵画で表現しようとする。芸術は感情の媒介であり、創作家はその作品をもって己の感情を人に伝えようとするわけだからね」

「作曲家が作品に込めた感情を、人が感受するには、楽譜から旋律を再構成しなければなりません。それは演奏家が媒介となります。演奏家はいかにして作曲家の感情を再現すればよいのでしょう?」

「それはもちろん、楽譜から作曲家の感情を知ることだよ。しかし、旋律だけにとらわれてはいけない。作曲家が込めた主題は、実は視覚から得たものかもしれないからね。さっき僕が言った、聴覚のための芸術と視覚のための芸術とのつながりを意識しなければならないんだ」

「でも、視覚が伴わない感情を基に作られた作品もあるのでは?」

 例えば『熱情』。私はそれは愛と捉えていた。愛を視覚化できるのだろうか?

「ああ、それは誤解だよ。視覚を伴わない感情であっても、それを芸術として視覚化することに、不可能などないはずだ! 優れた創作家の手になれば、絵画を音楽にすることも、音楽を絵画にすることも可能だ。それだけではなく、色にも香りにも文字にも、あまつさえ建築物にすることさえも可能のはずだ。さらに言おう。例えば君が楽譜から読み取るべき感情は、それを作曲した者と同一である必要すらないんだ。先ほど一例を出したとおり、感情はあらゆる芸術形式に変換することができるんだからね。それは同質性と言い換えるといいだろう。つまり、作曲家が持ったのと同質の感情を君の中に見つけ出すことで、再現できるのさ」

 ああ、それでは、私の知らない感情を恐れるのはやはり間違いだったのだ。私はそれを知らなければならない。それを深く知るにはやはり……

「ありがとうございます。蒙を啓かされましたわ。私がピアニストとして大成するには、まだ知らない感情が多いように思いました」

「その感情は君の心の中で眠っているだけで、既に君が持っているものに違いないよ。このまま僕と美について少し話を続ければ、それが解き放たれることだろう。君は美についての資質をとても多く備えているからね! 例えば君のこの手だ」

 ドクトルが私の右手を取った。普段なら男の人に手を取られただけで平静を失ってしまう。だけど、このときは我慢しようと思った。首から耳の辺りにかけて熱いものを感じた。それは今までにも知っている感情だった。この後、何か新しい感情が訪れるのだろうか?

「小柄で繊細だけど、芸術家に特有の優美な手だ。だけど芯は強い感情を秘めているね。掌を見せて。僕は東洋の手相占いキロマンティヤについても、その概念を理解している。手の線に運命が現れるというのは信じないが、職業や思想が現れることは十分考えられるからね。さて、薬指の下方に十字線クロスが現れていると芸術家の資質があると言われているが、君のはまさにそのとおりだね」

 それからドクトルは私の左手も見た。手の形に職業の特徴が表れるというのは聞いたことがあるけれど、掌の線に何かが現れるというのは初耳だった。マルーシャは知っているだろうか?

 ドクトルは私の左手を持ったまま芸術の話を続けていたが、途中で支配人から声がかかった。マルーシャと一緒にドクトルの話を聞きたいから、席を移動してくれと言う。

「もちろん、あなたやパンナ・マリヤとも話をしたいと思っていました。パンナ・エステル、君との話はとても楽しかったよ。君はもちろんピアニストとして大成するとも。僕が保証するよ」

「ドクトル・マルティネス、興味深いお話をお聞かせいただき、私こそ本当に楽しかったです。ありがとうございました」

 ドクトルは椅子を移動させてマルーシャと支配人の間に入った。私はようやく肉料理の続きを食べることができた。

 マルーシャはドクトルと楽しそうにおしゃべりをしている。その目元にはいつもの優しい笑みを浮かべていたけれど、アーティーを見るときとは少し違っている気がした。

 もちろん私は、マルーシャがアーティーを見る目つきを、はっきり見ていたわけではなかった。私はほとんどアーティーしか目に入らなかったのだから!

 デザートが出てくる頃になると、ドクトルはパンナ・イサクの隣に移動した。「先日は」という言葉が聞こえたから、このオデッサで一度会ったことがあるのだろう。もちろん、あれほど綺麗な女性が、人目を引かないはずはない。

 アーティーは彼女に会ったことがあるのだろうか? 会ったとしたら、どう感じたのだろうか? 彼女はアーティーをどう感じたのだろうか? ああ、どうして彼が他の女性と会うことが、こんなに気になるのだろう!

 その後、夕食会が終わるまで、私はほとんど声をかけられることはなかった。タクシーで家へ帰ってからマルーシャに、私の代わりにたくさんお話しをしてくれたのか訊いてみた。

「気にすることはないわ、ティーラ。私はいつもと同じことを訊かれるから、いつもと同じように答えていただけよ。あなたはまだ人に話すほどの経験を積んでいないだけで、これから増やしていけばいいのだから」

「ええ、努力するわ。それに私、人から聞きたいと思うことも少ないの。いろんなことに興味を持つようにしないといけないわ。ドクトル・マルティネスのお話も少し興味が持てて良かった」

「ええ、感情の芸術形式への変換と、同質性のお話はとても良かったわね。例えば『熱情』を他のどんな感情で表せばいいか、考えてみるといいんじゃないかしら」

 マルーシャはきっと答えを知っているのだろう。しかし、彼女の答えが私の答えと同じとは限らない。彼女の選んだ感情が、私の感情と違ってもいい。それがドクトルのお話の要旨のはず。

 私はその感情を、何に求めるべきだろう。それは私が持てる最も強い感情のはず。今までにない感情。私がつい最近知った新しい感情。

 ああ、でも、本当にそれでいいのだろうか。その感情は、際限なく大きくなっていくか、あるいは私が恐れる歪んだ方向へ進むかもしれないというのに!

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